Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

再録

2005年09月25日 | 一般
ここ一週間、忙しくて更新できませんでした。手抜きだけれど、前にある掲示板に書き込んだものを、過去ログから探し出してきて、再録します。一週間に一度は更新したいんです…

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愛の気持ちから出たことだから、許すべきなんだろうか。
「親も間違っていたかもしれないが、それも愛する気持ちだったんだ」と言うが。

その愛は誰に対する愛だったのか、決して子どものためじゃなかった。自分のための愛なのに、それを子どものためと思う気持ちと言い換えてる。いや、本当にそう思い込んでいるのかもしれない。

今となっては責めるつもりはないが、親友のように心を開こうとも思わない。お母さん、あなたが求めているのは、子どもであるわたしから自分が必要とされているという自覚であって、わたしの幸福じゃない。

ほんとうにわたしの幸福を思うなら、わたしを一人前の社会人であると認めて。あれこれ指図したり、余計なお世話をしないで。ああしたほうがいいの、こうしなさいって言わないで。あなたがそうしたことを言うのは、あなたがいなければわたしは何ごとも自分でできない人間だって言うのと同じこと。そう思いたいのよね。あなたはそうすることでしか生きている意味を見出せない。

残酷な人。でもあなたのような母親は多い。子どもから離れられないあわれな人。無能な人。はっきり言うよ、もうわたしにとってあなたは「いなければならない人」じゃない。あなたには求めるべき助言もない。あなたにはそんな知恵もない。私の声を聞いたでしょ? 機械のように無表情な声。あなたへの失望ではない、だってもう何も期待していないんだもん。ただ、いい年をして何一つ知恵も実績も生み出さず、夫に蔑まれたのに、なおしがみついて生きるしかなかったあなたが、かわいそう。わたしなら、離婚するよ。

あなたは後悔の気持ちでむかしを懐かしむことだろう。世の中には昔を懐かしむのを楽しむ人もいる。ただひとつでも、自分の目標を追い求めて何がしかの結果を得た人たちだ。わたしもその道を進みます。あなたには決して理解のできない道を。

「いちいち逆らわなくていいの。はい、はいって言ってれば、ぶたれないで済むんだから。上手に機嫌を取るのは大人よ」。
こんな悲しいことばで人生を総括するような生き方はしたくないから。愛し方を知らないあなたたち。こんなボタンの掛け違いはどこから始まったんだろう…。



親子のわだかまり、どう対処するか、どう親とつきあってゆくか…。米国ワシントン州エドモンドにある、パシフィック嗜癖(しへき)回復センター所長の意見を紹介します。

***

2001年11月に施行された「児童虐待防止法」は4つのタイプの虐待を規定している。身体的虐待、性的虐待、養育の怠慢・拒否(ネグレクト)、そして心理的虐待の四つである。

身体的虐待とネグレクトは、折檻の末の殺害や食事を与えずに子どもを餓死させたというような事件として報道され、この十年ほどのあいだに、その存在と危険性がはっきりと認識されるようになった。性的虐待についても少しずつ報告されはじめ、著者も最近、その実態を暴いた告発書の翻訳を手伝った。

ところが言葉や態度によって、心に深刻な傷を残す心理的虐待の問題を正面から取り上げた本はどこにも見当たらない。…(略)…心理的虐待に関する本が少ないのは、それがあまりにもありふれた「ふつうのこと」だからだ。しかも、それは目に見える痕跡を残さないので立証しにくい。だが、この「見えない虐待」は誰にも気づかれずに猛威を振る舞う。それらがどんな弊害を及ぼすかは本署の第三部に詳しい。

たとえば、人間関係がうまくいかなくてつらい日々を送っている人は、もしかしたら昔被った心理的虐待にその原因があるのかもしれない、と考えてみると良い。原因が分かれば、対策が分かってくる。最も単純だけれども最も有効な対策は「虐待的な人とつきあわないこと」である。そういう人との交際はできるだけ避けて、「受容や承認を出し渋らない人や、自分を見捨ててどこかへ行ってしまわない人を見つけるのだ」と著者は述べている。結局、人間関係のなかで傷つけられた心は、人間関係のなかでしか癒されないのだ。

本署の第十一章では、この外にもさまざまな対処法を紹介しているが、そのなかの一つに、「相手を許す」というのがある。この「許す」という考えかたに戸惑いを覚えた読者は少なくないだろう。だが、ここでいう「許す」とは、虐待者と和解して今までどおりのつきあいを続ける、ということではなく、「相手への執着を断つ」という意味だ。相手を恨み続けるということは、相手に振りまわされ続けているのに等しい。

変えられないものは受け入れるしかない。たとえば、「あの親のもとに生まれた」という事実は変えられない。しかし、変えられるものはあるはずだ。自分の力で変えられるものは何だろう。変えられるものを変えていく努力を少しずつでも続けていれば、私たちは必ず、変われるのである。
(「あなたは変われる・言葉や態度に傷つけられた心を救う本/グレゴリー・L・ジャンツ/白根伊登恵・訳」訳者あとがきより一部分引用)

***

この本でわたしにとって特に助けになったのは、

最も単純だけれども最も有効な対策は「虐待的な人とつきあわないこと」である。そういう人との交際はできるだけ避けて、「受容や承認を出し渋らない人や、自分を見捨ててどこかへ行ってしまわない人を見つけるのだ」

という点でした。わたしにとって周囲のエホバの証人たちは「心理的虐待者」でした。ところがそれを証明する手立てがないのです…。しかしとにかくエホバの証人の世界から逃げ出しました。これはわたしの人生の中でも最も勇気ある決断と行動でした。

わたしにとって、脱エホバの証人系の掲示板で悔しい思いをするのは、おなじ「元エホバの証人」、あるいはエホバの証人には反対していても、心に傷を負った人を一般の常識や礼儀の観点に立って見下しをする人、エホバの証人用語を使って言い換えれば「裁く」人が次から次へと現れることです。なぜそんな人が現れるかというと、理解がないからです。理解がないのは無知だからです。

上記の本の訳者が述べるとおり、

心理的虐待に関する本が少ないのは、それがあまりにもありふれた「ふつうのこと」だからだ。しかも、それは目に見える痕跡を残さないので立証しにくい。

…ものだからです、心理的虐待の残す傷というものは。心理的な傷を、負っている本人の責任だと断罪し、弱さ・未熟さと決めつけて、信仰によって克服できるとか、前向きに考えれば解決できるとかいう言い分を、精神主義な含みで言ってしまう、そんな風潮の世の中とはまた異なる場所として、わたしはインターネットは必要なものだと考えています。

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夢に近づくために、今日もこの一歩

2005年09月18日 | 一般

お前の目はいつも星に向けておけ。
そしてお前の足はしっかりと地面につけておくことだ。
(セオドア・ルーズベルト)



夢を持たない人は不しあわせな人だ。
人間なのに、動物のように食い扶持に追われて生きるなんて…

夢がなければ生きてはゆけない。
夢があるから、今日の地味でわずかばかりの一歩に意味がある。

夢はかならず叶えたい、
せっかく人間として生まれてきたのだから。

夢を叶えてみせる、きっと。
だから今日をあせらず一歩を踏みしめよう。

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わたしの感情と思考は、もう誰にも操作させない!

2005年09月18日 | 一般
ちょっと気色悪い文章をひとつふたつ、拾ってみます。

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自民党圧勝の理由を、メディアはいろいろ分析して見せるが、腑に落ちるようで落ちない。その中でハッとしたのは、毎日新聞12日朝刊に載った、作家の高賛侑(コウ・チャニュウ)さんの、「ここ数年、日本には『批判しない』傾向が強い」というコメントだ。

昨年イラクで人質になり、果てに殺害された人たちや家族が、中傷の嵐にさらされたことを思い出す。彼らの行動の意味は度外視され、国の言うことを聞かずに迷惑をかけた、「お上に逆らうな」と。そんな空気が、今回の選挙と通低してはいまいか。首相が「改革」と言うから。党首の見栄えがいいから。

思い過ごしかもしれないが、それが今回の選挙の「風」の理由なら、日本人は批判することを忘れ、物分りが良くなっただけじゃないか。…(略)…私は改憲も増税もイヤだ。「改革」の犠牲になりたくない。これって、ものわかりが悪いだけ?

毎日新聞9月17日付朝刊 「発信箱」より




報道被害の問題がマスメディアへの批判の主流であると言われる。犯罪報道に名を借りて、罪もない被害者のプライバシーを暴き立てたり、悲しみのどん底にいる遺族をよってたかって取り囲んでみたり。耐え切れずに抗議してみれば、まるでお役所のような木で鼻をくくった対応で二重の屈辱を受けたと振り返る人たちに、これまでどれほど出会ったことか。

しかもよくよく考えてみよう。
報道被害は多くの場合、マスメディアが当局に踊らされた結果としてもたらされている。

松本サリン事件で無実の河野義行さんを犯人呼ばわりする醜態を演じたのは、長野県警の見込み捜査をそのまま伝えたためだった。

桶川女子大生殺人事件では、ストーカーにつけねらわれているという被害者の訴えを無視し続けていた埼玉県警による、責任回避のための情報操作に乗せられて、「ふしだらな女性」というイメージ作りの片棒をマスメディア(もちろん新聞も含む)は担いだ。

「大物」政治家のスキャンダルも、マスメディアは追いかけてはいる。鈴木宗男ネタにしろ田中真紀子ネタにしろ、途中まではよかった。隠蔽されていた悪行を情熱的なジャーナリストが週刊誌などで詳らか(つまびらか)にした。ところが、新聞が本格的な後追いを開始したのは、その後に自民党本件なり外務省筋などが便乗して、彼らの追い落としにかかってからなのである。バッシングのこういう背景が素人目にも露骨だったから、宗男にしろ真紀子にしろ、叩かれて当然の「政治屋」なのに、まるで報道被害者のようにさえ見えたのである。

より上位の権力のお墨付きがないと書かない傾向は、年々強まっている。食肉偽装事件のように企業にまつわる不祥事については立派な記事も少なくはない。しかしそれらも結局、監督官庁の権限拡大にばかりつながってゆく。地球規模での歴史の転換点を迎えた現在、当局のリークに頼らない、マスメディア独自の価値観と取材による調査報道は、従来にもまして求められている。

いまやマスメディアには本気で権力のチェック機能たらんとする意気も、いわんや真っ向から立ち向かう度胸もありはしない。わたしは「個人情報保護法拒否! 共同アピールの会」の末席に名を連ね、メディア規制に反対する運動に積極的に加わっている。だがそこにこんな辛らつな批判が投げかけられた。

「あんたたちは口を開けばメディア規制で、政治家や官僚のスキャンダルが書けなくなるって言うけれどさ。個人情報保護法がない今だって、宗男や真紀子のような“切り捨てられた”奴らのことしか書けないんじゃないか。その黒幕、俺たちの運命を勝手気ままに動かしているおおもとの権力と正面から戦ったことがあるのかい?ないだろう。何をいまさら…」

グウの音も出なかった。

平和と平等を理想とした社会がこのままなし崩しになって行ったら、次にやってくる秩序体制はどのようなすがたをしているのか。それは規制緩和によって小さく、しかし強力になった行政権力が社会の構成員を、改正住民基本台帳法による、国民総背番号制度を利用して、ひとりひとり緻密にコントロールする監視社会、管理社会である。5年間同じテーマにこだわって取材し続けた末に、私はこう確信している。

(「特権化したマスメディアに存在価値があるか」/「論座」2002・12号/斎藤貴男)

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昨年の春、「自己責任」論争を引き起こしたイラクでの日本人人質事件。3人の男女が囚われたあの事件。みなさんはあの時どうお感じになりました? 一般の風潮と同様、人質となった彼ら自身へ憤りのようなものを感じませんでしたか。わたしもじつはそのひとりです。週刊誌は露骨に、新聞も遠まわしに、彼ら自身の生きかた、考えかたに対してさえ攻撃を加えました。しかし、思想、信条は憲法によって自由が保障されているものなのです。彼ら自身の行動を規制するのは憲法に違背しています。今だからこんなことが言えるのですけれど。ではどうしてあの時は、このように思えなかったのでしょうか。

あのときに流れた情報は「自作自演説」そしてそのあとに「自己責任説」。じつは両方とも首相官邸が発信地だったのです。首相官邸の正確な情報を何一つ把握していないで判断したことだから、思い込みと妄想で「自作自演説」を非公式にだけど垂れ流し、それをマスメディアが鵜呑みにして増幅して報道する。自己責任論も首相官邸が責任を彼ら自身にあることを確認する意図がありました。あの3人としてはイラクに行くときにそれは覚悟していたことなのに。なぜ彼らはここまで侮辱されなければならなかったのでしょう。当時自衛隊のイラク撤退が焦点となったからです。人質となった3人はみな、自衛隊のイラク派遣に反対の立場を取っていた人たちでした。

詳しくは、斎藤貴男氏の「安心のファシズム」から機会があればお見せしたいですが、政府方針に逆らう考えがマスコミによって叩かれ、それにわたし達が追従する、というのはとても健全とは言えないのです。エホバの証人時代の悪夢をもっと大規模に味わうことになります。ものごとを判断する際は、大新聞や有名週刊誌・月刊誌だけに頼っていてはいけない、いまわたしはこのように決意しています。もう感情を操られるのはまっぴらだから。ほんとうに自由で知的でありたいから。つまり、自立した人間の成人でありたいから。
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今日はHIGHだからどんどん書きます!

2005年09月18日 | 一般
心配性はいろいろな面で損をもたらします。「口ぐせの法則」というのをお聞きになったことがありますか。ことば遣いで、自分も、自分をとりまく人間関係も改善してゆくことができるのです…。

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「私の手に負えない」
「私には無理だ」
「できません。不可能です」
「もうダメかもしれない(おわりだ…)」etc...

公私を問わず、日常生活でこのようなことばを頻繁に用いてはいませんか。もし、思い当たるフシがあれば、今日から、いえたった今から、意識して慎むように心がけましょう。なぜかというと、それらのことばは敗北・失望・失敗・不安・心配といったマイナスのニュアンスを意味するため、そういうことばばかり口にしていると、できることまで不可能に思えてくるようになり、ものごとに挑む前から自信を喪失してしまうからです。

そればかりではありません。マイナスの自己暗示となってしまって潜在意識にインプットされてしまうために、実力が十分に発揮できず、ほんとうに期待はずれの結果に終わってしまうのです。言い換えれば、信念を強めるためには、ものごとに対して自信を持つことが重要なのであり、じつは自信の有無というものは、日ごろの言葉遣いによっても大きく左右されるのです。

そこで、まずはそういうことばを口にしないように努めましょう。だれかと会話している最中に口にしそうになったら、意識的にスイッチ・チェンジを行うように心がけてください。そしてそれがある程度、習慣として身についたら、今度はウソでもいいから
「できます」
「だいじょうぶです」
「何とかやれそうです」etc...
…というプラスで元気が出ることばをできるだけ多く用いるように心がけてください。
しょく
初めのうちは、抵抗を感じたり、戸惑うことも多々あるかもしれません。でも一ヶ月、二ヶ月と続けていけば考えかたや行動もしだいにことばと馴染むようになり、いつしか、今までできそうになかったことがほんとうにできるように思えてきます。そうなれば、少しずつですが自分の信念が強まっていると考えてよいでしょう。

意識した「肯定的な言葉遣い」が自信を養い、引いては信念を強めるポイントになるのです。

また、
「私の手に負えない」
「私には無理だ」
「できません。不可能です」
「もうダメかもしれない(おわりだ…)」
…というようなことば遣いばかりしていると、そのことばの印象がそのまま自分というひととなりの印象につながってしまうため、人から疎まれてしまうのです。早い話、相手は「この人と話していると、こっちまで気分がふさいでしまう」、「気が重くなってくる」、「不快になる」という気持ちを抱くため、相手は好感を持たなくなってしまいます。わかりやすい例を引き合いに出しましょう。

男性:ねえ、この夏休みに海水浴に行かない?
 A子:泳げないから海には行きたくないわ。
 B子:あたし泳げないけれど、ビーチでマリンスポーツをするのも悪くないわ。

人はこういう場合には、B子さんのほうに好感を持つものです。それどころか、A子さんに対しては不快の気持ちをさえ抱くようになり、「もうあの人を誘うのはやめにしよう」と思うかもしれません。

そこで、「できない」、「むりだ」、「不可能だ」ということばを会話の中でどうしても使わなければならないときには、B子さんのように、返事に工夫を凝らしてみてください。つまり、マイナスのことばを口にしたあと、少しでも相手の気分がよくなったり、なごんだりするプラスのことばを意識的につけ加えるのです。

「ゴメン! 今日残業なの。だから今日の食事会は欠席するわ。
でもこの借りは返すからね。来週イタメシ奢るね」

「すみません、課長。この仕事を今日中に済ませるのはムリです。
明日のお昼まで待っていただけませんか」

いわんとする中身は同じであっても、このようなことばをさりげなく付け加えるだけでも、自分の印象、自分に対する評価はガラリと変わってくるはずです。

要約
1.「私の手に負えない」
 「私には無理だ」
 「できません。不可能です」
 「もうダメかもしれない(おわりだ…)」
…ということばは人生に不幸をもたらします。心ではそう感じていても、口に出して言うのは慎みましょう。

2.ことば遣いに工夫を凝らすだけで、相手のあなたに対する印象は180度違ってきます。



(「気になる『あの人』に好かれる90の法則」/上西聡・著)
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「心配」は人生最大の敵です(2)

2005年09月17日 | 一般
わたしがいつもの「過敏性腸症候群」の症状である、腸痙攣に苦しんでいたときのことです。現役のころの話です。病院から帰るときに弟が送ってくれたんですが、そのとき弟はこう言うんです。

「姉さんこの前、便秘や下痢が繰り返したって言ってたなあ…」

ふつう急病に苦しむ人に、こんな不安なコメント入れないですよね? 腹の中じゃむかっときたものです。この、「便秘や下痢が繰り返される」というのは大腸ガンの症状でもあるのです。嫌なヤツと思いましたが、いま振り返ってみると、弟は心配性なのです。何かマイナスの状況が起きると、ものごとの悪い面をまず思い起こすのです。弟というのは権力に盲従的で、環境の変化に順応するのが下手です。いつも不安なのでしょうね、自分で考えて、失敗を重ねながら試行錯誤するという経験のない人ですから。ボンボンなんです。何でも両親が過干渉してくれていた人なんです。表情も貧しく、どこか茫洋としています。わたしの結婚を妨害したにっくきヤツですが、いまとなってはかわいそうなヤツなんだなあと思っています。

組織を離れると、友人がいない、世間の常識にも疎い、学歴もないし、貯蓄も少ない。現役の人は状況が整っていないし、条件もそろっていない、だから2世が世に出るのは難しいものがあるんだ、といいます。これも心配性のひとつの形態に違いありません。自分の独創で切り拓くという経験がないので、自信がもてないのです。自信が持てないだけなら、個人の問題です。だもこういう輩の中には、他人の自立を非難する手合いが多いのです。「…のくせにいきがっちゃって」とか「でも資格とか学歴とかないでしょう」とか嫌みったらしいこと言って、自立してゆこうとする人の意気を阻喪させます。他人に迷惑をかけているのです。困った人たちです。今回、心配にさいなまれて萎縮してしまっている人のものの考え方を探った記述を紹介します。心配で、何か変化があると、パニックに陥る人の思考の正体をお見せできると思います。

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《 否定的想像は「心配」の好物 》


心配を木にたとえると、それは否定的想像という栄養によってむくむくと成長してゆきます。それはちょうど、ガン細胞が新生血管によって栄養を取り込み、増殖してゆくのに似ています。栄養をとり込むことがなければ、ガン細胞も成長できずに死んでしまいます。死んだ細胞は健康な細胞に取って代られるのです。

同様に、心配の種にも栄養を与えなければ、それは大きくなってゆくことなく消滅するのです。人間の持つ想像力は偉大です。しかし、その力が否定的に用いられるとき、それこそあなたを破滅へと導く原動力となるのです。否定的想像とは、あなたが願っていないことを想像することに他なりません。日ごろ、創造的な仕事に従事していることがない人でも、不思議なことに、心配から来る「否定的想像」では驚くほどの独創性を発揮します。

「悪い病気だったらどうしよう」と心配しはじめる人は、次に何を思うでしょう。その人は決まってどこかで見聞きした悲惨な場面を思い描くものです。ほんとうはちょっと腹痛があるだけなのに、不治の病を宣告されている自分の姿を想像します。そうするとお腹の痛みのほかにも、そういえばしばらく前までお通じがゆるかったことがあったとか、ふつうなら気にしないようなちょっとした出来事をいちいち思い出して、否定的想像を自ら支持しようとするのです。

こうして巨大に膨らんだ心配は大きな心理的ストレスを生みます。ストレスは免疫力を低下させ、本来であればすぐ治るはずの腹痛も、長引いてしまったりします。そうすると、その人の「やっぱりガンかもしれない」と思い込みがますます本当らしく思えてきます。否定的想像の膨張にますます拍車がかかるのです。いちど否定的想像にとらわれるとなかなか抜け切れません。渦を巻く水にのみこまれるときのように、どんどん深みに引きずりこまれてゆくのです。





《 そこにある事実を見ることで「心配の種」はみるみる小さくなる 》


しかし大事なことは「事実」なのです。想像はあくまでも想像にすぎません。それは「作りごと」なのであり、事実の反映ではないのです。もし自分の心に心配が押し寄せてきたら、まず最初に自分に向かって問いかけてみましょう。

「そこにある事実は何か」と。そしてそこにある事実だけに着目するのです。

入籍を直前に控えたカップルがカウンセリングにやってきました。かれは温厚で、著者は彼が感情的になったところを見たことがありませんでした。ところがその日、ふたりは到着して席に着くやいなや、興奮しながらなにやら言い合っているではありませんか。
「だから今日は君も疲れていたし、感情が高ぶっていたんだろうから」
「いや、そうじゃないの」
珍しく彼の声のトーンが高くなっています。一体どうしたんだろうと思っていたら、ふたりが事の次第を説明してくれました。

前日は結納だった関係で、夜遅くまでいろいろと忙しく、この日はふたりとも非常に疲れていたといいます。それでも、入籍前に最後の確認をしたいという願いから、ふたりは電車を乗り継いで、京王線沿線の著者のカウンセリングルームまでやってきたのです。ところが、駅の改札口を目前にして、彼女の様子が激変してしまったのです。そして思いつめたように、こんなことを言ったといいます。
「私、やっぱり今日はこのまま帰る」
びっくりしたのは彼のほうです。
「えっ! 何言ってんだよ。せっかく着いたのに、このまま帰るだって!?」
彼女は明らかに取り乱していました。そしてため息混じりにこう言ったのです。
「切符がないの。きっと乗り換えのときに取り忘れたんだわ」
「なんだ、そんなことか。じゃ、お金を払って出ればいいわけだ。さあ、もう時間がないから行こう」

なんだ、そんなこと…。きっとあなたもそう思うでしょう。彼もそう思いました。遠い地方から来たわけではないのだから、代金を払ったってものの数百円です。しかし、我に返ってみれば「そんなこと」なのに、そのときは「そう思えない」というところに心配の魔力があるのです。否定的想像という栄養をたっぷり吸収した彼女の心配細胞は、容赦なく心を蝕んでいったのです。彼女はこう言いました。

「そのとき、彼は『切符くらいどうってことはない。お金を払って行こう』って言ってくれたんですけれど、
私はそのことばを素直に聞けなくて」
「なるほど、で、どう思ったの?」
「彼はほんとうはすごくがっかりしているに違いない、って思っちゃって。
どうせ後で誰か友だちにでも、私のことで文句を言うに決まってるって思ったんですよ。
私の前では『気にするなよ』って言ってますけど、
でもあとで、『うちの女房はこうなんだ』って、友達にでも言うに違いないって…」
「なるほど」
「それに私、今日はすごく体調が悪くって。
この人は私を、これからずっと変わらずにケアしてくれないに違いない、
こんな私に嫌気がさすに決まってるって思って、
彼にそう言っちゃったんです。
そうしたら、彼も腹の虫が治まらなくなってしまったみたいで、怒っちゃって」

著者は彼女にひと言尋ねました。
「ところで、そこにある事実は何ですか?」
「え? 事実ですか? えっと…。それは私が切符をなくしたということですね」
「それだけですよね」
「え、ええ、それだけです」
「じゃ、切符代を払えばすむ問題ですよね?」
すると、彼が口を挟んですかさず言いました。
「それだけでしょ? 何も問題じゃない」
「そうですよね。でも私、妄想癖があるんでしょうか。
いろいろと想像しちゃって。いま考えれば、何でもないことなのに…」

彼女の心の動揺のすべては、「否定的想像」の結果、または産物でした。事実は「切符をなくした」という、ただそれだけだったのですから。事実でないことで心配して心を乱し、「免疫力」を低下させ、自分と自分の人間関係を蝕む、「心配」という「病」に膨張する機会を与えているとしたら、これほど割の合わないことはないのではないでしょうか。そんなことに時間を費やすのは無駄です。もっと有益なことに時間を使うべきです。


(「なりたい自分になる教科書」/石井希尚・著)
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否定的想像の背後にあるものは、人生や社会への不信感ではないでしょうか。自分が何をしても悪いこと、とんでもなく怖ろしいことが世の中には満ちている、と思い込んでいるのです。エホバの証人の教育で、エホバから離れると、聖霊の援助がなくなるのでものごとは悪くなると精神に叩き込まれることも影響しているのかもしれません。波風の立たないことが「成功」であり、そういう「成功」を得るためには、組織に留まって、おとなしく服従していればいい、という信念があるのです。波風に立ち向かい、切り拓いてゆくことこそが「成功」なのに。変化があるということは、改善されるとか、成長するとかいうことでもあるのに。心配性を乗り越えるには、「そこにある事実」だけを見ることだということです。そのとおりですよね。常識に疎くても、友人が少なくても、それで自分が破滅するわけではないのです。それなのにそういう要素がなにか取り返しのつかない事情であるかのように解釈してしまう。おおげさな解釈がさらに心配を大きくする。こんな思考を叩き込むエホバの証人教育ってほんとうに罪深いと思います。次回は「否定的想像」の呑み込まれないようにする、もうひとつの方法を引用します。
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男性の心理

2005年09月14日 | 一般
* * *

男はなぜ嘘をつくのでしょうか。

男の嘘、女の嘘、子どもの嘘は、それぞれ違います。

女の嘘は自分を飾るためです。

子どもの嘘は母親に好かれようとするからです。

しかし、男の嘘は自分を守るためです。



(「なぜか運を味方にする女の習慣」/大原敬子・著)

* * *
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自民党大勝に思ったこと

2005年09月12日 | 一般
今回は自民党優勢が予測されてはいましたが、それにしても295議席はちょっと勝ちすぎですよね。

わたしは今回まで、「構造改革」とか政治的なことには全くといっていいほど、深く考えてきませんでした。いい年して恥ずかしいことだと思いますが、今回自民党に投票した人たちもひょっとしたら、わたしと同じように、いま日本が進んでいる方向について、深くは考えて来なかったのではないでしょうか。

「改革」ということばの持つイメージに惑わされているのかもしれません。わたしもついこの間までは、「改革」で暮らしがいい方へ変わる、というように受けとめていました。でも、経済構造改革がめざすのは、競争回避型の日本の制度、慣行を撤廃して、アメリカ型の強競争型の仕組みに変えようということです。アメリカ型の市場主義というのは、「適者生存」の考え方を基底に据えているものです。競争に勝った者だけが生活に益を受ける、というものです。競争に敗れた側には救済は微小でいいのです。なぜなら、競争に勝った者は「適者」であるので生存していい、不適者は「淘汰」されるのが掟である、という考えなのです。これを「社会的ダーウィニズム」と言うそうです。

市場主義というのは、「国家の活動、介入はごく狭い範囲に限定するべきであり、経済生活は可能な限り規制せず…(中略)…個々の市民の手腕と良識に委ねるべきだとする教義(「自由放任の終焉」/J.M.ケインズ・著)」というものです。経済効率にとって障害となるものはみんな取っ払えということです。これは企業にとってはとても都合のよい考え方です。しかしそれがもたらす実は、「市場主義改革の断行は、所得分配の不平等、公的医療・教育の荒廃などの『副作用』を不可避的にともなう(「市場主義の終焉」/佐和隆光・著)」というものです。現に医療負担はわたしたちにとってたいへんに重くなったのです。年金は受給額が引き下げられ、負担額が引き上げられました。こういう事態はイギリスではすでに起きてしまって、だからサッチャーさんは敗北したのだそうです。佐和教授は、だから日本がいま目指している「改革」を、「20年遅れのサッチャリズム(前掲書より)」と評しておられます。

「街の声」というのが新聞に載っていますが、国民の声には、年金問題を何とかしてほしい、というものが多いのです。ではなぜ「市場主義改革」を推進する党に票を入れるのか。それはわたしとおなじく、「改革」の意味するところを詳しく知ろうとしなかったからではないでしょうか。みんな新聞で読んだことだけで判断しているのです。新聞は経済官僚の側に立ってでしか書きません。ものみの塔の出版物と同じなのです。経済大国でなければならない、という使命感に踊らされているのです。「自己栄光化」にうつつを抜かしているか、そういう人たちの考えに染まりきっているとしか思えません。

どこの新聞が他にも進む道があるということを真剣に取り上げたでしょうか。「定常型社会」とかいう考え方を現実に検討した記事を、どこが取り上げたでしょうか。福祉の話などすると、「女子どもの低級な関心事」程度にしか見ないのではありませんか。みなさんの中にもそう思う方がおられるかもしれません。国際政治は高邁複雑だ、しかし暮らしは低級なレベルの問題だって。わたしたちは何のために働くのでしょうか。生活のためではありませんか。自殺者が増え、うつ病者も増え、若い人たちは暴力的になるか無気力になっている、こんな事件がおきたらああだこうだと井戸端議論を楽しむのに…。

今回落選した、栃木1区の元民主党衆議院議員水島広子さんは、8月8日の解散時に、ご自分のHPでこのように述べておられます。

「少子高齢化時代の社会保障制度の維持、子どもを産み育てやすい社会の実現、子どもたちが重大事件に巻き込まれてしまう現状の解決、児童虐待の防止、7年連続で3万人を超える自殺者、若者の就労支援、医療提供体制の整備など、国政には喫緊の重大な課題がたくさんあります。それなのに、郵政「民営化」がここまで政局の中心になり、時間が浪費されている、というのは、あまりにも国民不在の政治だと思います」。

わたしたちがほんとうに関心のあることって、こういうことではありませんか。国際的な地位の方が重要だと思えて仕方がないのなら、加藤諦三先生の著作をひとつでも読んでいただきたいです。

選挙は今回だけではありません。次回まで、この国の行方とか、「改革」の中身とかをもっとよく調べて、自分たちが生きるこの社会をよくしようと真剣に考えたい、とわたしは思いました。
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「第三の道」改革って?

2005年09月11日 | 一般
みなさん、投票はもうお済みでしょうか。「構造改革」がもたらす危険についてはこれから少しずつご紹介しますが、「構造改革が目指すもの」シリーズの最後として、イギリスも目指す「第三の道」改革について、「日本の構造改革」から、佐和隆光教授の提案を示しておきます。みなさんが、これからの暮らしのために政治的意見を吟味される際の参考にしていただきたいと思います。

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【平等な福祉社会をめざして】




《平等な社会とは何か》

「平等な社会」とは、「排除」される者のいない社会、社会を構成する人々のすべてを「包含」する社会のことをいう。一本やりの市場主義改革は、多くの「排除」される人々を生む。たとえば、失業は排除の典型例である。なぜなら「働く意思がありながら、働く場所の与えられない」人々のことを、失業者というのだから。従って、失業率を低下させることは、「第三の道」改革において最優先されてしかるべき課題である。

アメリカは「豊かな」国であるにもかかわらず、17%ものアメリカ人が健康保険に未加入である。もちろん、健康に自信があるから健康保険に加入しない人もいるにはいる。とはいえ、そういう人はあくまでも例外であって、未加入者の大部分は高額な保険料が支払えないからである。したがって、17%ものアメリカ人が医療サービスから「排除」されているという意味で、アメリカは不平等な社会である。

サッチャー時代のイギリスでは裕福な家庭の子女は、私立学校で良質な教育を受けることができた。他方、貧しい家庭の子女は、荒れすさんだ公立学校にしか通えず、良質な教育から「排除」されていた。その意味で、サッチャー時代のイギリスは不平等な社会であった。

いわゆる民族学校の卒業生を国立大学の入試から「排除」するという不平等が、長年にわたり、日本ではまかり通ってきた。2003年度末の入学試験から、こうした「排除」をなくする国立大学が増えたのは、この国が「平等な社会」へと一歩前進したことを意味する。



《ポジティブな福祉社会へ向けて》

これまでの福祉は、高齢者、失業者、病人、身体の不自由な人など、社会的にネガティブな立場に立つ人々に対して、生活費を、そして必要に応じて医療費を給付するという意味で、「ネガティブな福祉」であった。21世紀の福祉は「自分という人的資本に対して投資するための原資を提供する」ことをその主旨とする「ポジティブな福祉」でなければならない。人的資本の「質」を向上させることは、経済成長率を高めるための決め手のひとつである。

経済成長とはGDP(国内総生産)の増加のことをいう。GDPとは、1年間(あるいは四半期間)に国内で生産される付加価値の総和である。付加価値を生産するのは、資本設備(工場や商店など)と、労働(そこで働く人びと)である。言い換えれば、付加価値は資本と労働により生産され、その成果は資本と労働に分配される。

働く人の数が増えれば、生産される付加価値も増える。しかし付加価値を増やすためには、働く人の技能を高めることが欠かせない。いいかえれば、労働力の質の向上が経済を成長させるのである。人的資本への投資の原資を提供する役割を担う福祉は、経済成長に貢献するという意味で「ポジティブ」なものとなるのである。

例を挙げてみよう。わたしたちは、10代後半に、大学に進学するか否か、進学するならどういう学部を選ぶのか、そして20代前半に、大学を卒業する前に、社会人としての進路を選択する。誰もが後悔しない選択をするわけではない。自分の進路選択を後悔している人も多いに違いない。今現在、自分が就いている職業は、決して「適職」ではない。自分にとっての「適職」は別にあることを身にしみて感じている。しかし「適職」に就くためには、いったん退職して大学に学士入学するか、大学院の修士課程に入学するか、職業訓練学校に入学するかして、数年間、新たな知識また技能を身につけなければならない。

そこで著者が個人的に思うのだが、自分という「人的資本」への有意味な投資を目的としており、有期限であるという条件を満たせば、彼また彼女が30歳代であれ、40歳代であれ、年金を受給する権利を発動することを許してはどうか(ルナ註:ドイツでは職業技能を修める間は失業保険etc..を数年にわたって受給できるシステムになっている。しかも職安が就職先へも紹介状を書いてくれる。「豊かさとは何か/暉峻淑子・著」より)。その投資のおかげで、彼また彼女が、念願の適職に就くことができれば本人にとってもハッピーであるし、適材を適所に配置しなおすことにより、国全体の生産性は向上し、潜在的な経済成長率も高まろう。これはあくまで著者自身の提案である。

福祉は「依存の文化」を生むとよくいわれる。福祉に依存して、勤労意欲を失う人が増えるという意味である。たしかに、これまでのようなネガティブな福祉は「依存の文化」を生みやすい(エホバの証人には生活保護に寄生する“働き盛り”の人びとが現存する。わたしもそういう人を知っている)。なにもしなくても生活費が支給されるというのでは、働きたくない人は働かないであろう。

しかし、「依存の文化」を生むのはネガティブな福祉に限っての話である。「人的資本への投資の原資を提供すること」に、福祉の重心を移してゆけば、福祉は「依存の文化」を生むどころか、適材を適所へと配置しなおすために必要な原資を提供するという、ポジティブな社会的役割を担うようになる。

(「日本の『構造改革』/佐和隆光・著」)

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以上が「第三の道」という進路の考え方です。みなさんはどう思いますか。詳しくは、「人間性回復のために」シリーズで、少しずつご紹介します。エホバの証人から出てきた人が、企業の論理によって国民を経済効率の部品にしてしまおうとする流れにのみ込まれてしまうのではなく、自分を、人間としての人生を、生き生きとせいいっぱい謳歌してほしいし、わたしもそういう生きかたをしてゆきたいと強く決意しています。
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「構造改革」の目指すもの(2)

2005年09月10日 | 一般
【道路公団の民営化】




道路公団の民営化も、小泉構造改革の一環をなしている。これまでの体制が好ましいという人は一人としているまい。しかし、仮に道路公団を民営化して、採算を重視する民間企業並みの経営を可とするならば、人口過疎地帯の住民は、未来永劫、高速道路の便益を享受することを望めない。のみならず、民営化された道路公団が個別の道路ごとの採算を保つためには、新設の高速道路の通行料は途方もなく高額になるだろうし、全国料金プール制(総括原価主義)となると、既設の高速道路の通行料もまた大幅に引き上げられることとなる。ヨーロッパ諸国では、高速道路の通行料は原則無料である。要するに、高速道路は国が建設し、通行料を無料にしている。

2003年11月の総選挙における民主党のマニュアルのなかに、高速道路の無料化が謳われていたが、必要な高速道路の建設費を税金でまかない、通行料を無料にするのは、欧米先進諸国では当たり前のこととされている。日本の税制は「受益者負担」の原則へのこだわりが強く、ガソリン税や自動車税の一部を道路特定財源化し、一般道路の建設・整備費をまかなっている。一方、高速道路の建設費は財政投融資を原資としており、一般会計からの補助金をも受け入れている。一般道路の建設・整備が一段落したいまなお、道路特定財源の使途が「特定化」されているのは、どう考えても財政硬直化のそしりを免れえまい。

高速道路を無料化して、債務の返済に道路特定財源を充てるのは、受益者負担の原則に多少もとるとはいえ、「合理的」な戦略として高く評価するべきであろう。高速道路が無料化されれば、宅配便などの値下がりを通じて、ほとんどの納税者に恩恵は及ぶのである。




【国立大学の法人化】




国立大学の法人化は2004年度から始まる。国鉄・電電公社の民営化は成功したと言ってよい。しかし、なんでもかんでも民営化すればよいというものではない。政府のやるべきこととやらざるべきこととを、何らかのルールに従って仕分けしなければならない。たとえば、博物館・美術館を法人化するとか、国立大学を法人化するといったことの利害得失について十分な吟味をすることなく、やみくもに推し進められたことに対して、かねてより私は警鐘を打ち鳴らし続けてきたが、政府も政治家も聞く耳を持たなかった。

第4章であらためて述べるように、日米を比較すると、大学教員の数は日本が圧倒的に少ない。しかも、公務員の定員削減の一律適用の結果、国立大学の教員数をさらに減らすことが、現在、進行中である。それにしても、教員一人当たり学生数が極端に多い日本の大学の教員数をさらに減らすことが、なぜ必要なのであろうか。「必要性」よりも「画一性」を重んじるのが、この国の政府の基本方針のようである。

大学教員は、教育に従事するだけでなく、研究にも従事している。その研究成果が、必ずしも産業界の目先の要請に応じたものでないにせよ、長い目で見れば、企業の研究所における研究を下支えする基礎研究は、大学の研究者に委ねられているのである。また日本の行政の不備を補うに足る社会科学の研究が、そして人類の知的財産ともいうべき人文科学の研究が、大学という聖域で日々行われている。ただでさえ、数少ない日本の国立大学の研究者の定員削減が、公務員の定員削減の名の下に、悪しき「画一主義」の原則に従い、長年にわたり続けられてきたし、いまもなおそれは現在進行中なのである。

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構造改革により、市場主義を純化してゆこうという考えかたは、レーガン米大統領やサッチャー英首相の取った舵取りでした。一方北欧諸国やドイツ、オランダ・ベルギーなどの高福祉国家は経済成長と言う目標を野放しにせず、社会資本を整備することとバランスを取ろうとしてきました。ここには国民ひとりひとりの生活を向上させようという明確な意思、目標があるのです。しかし、高福祉国家の財布も苦しい。ソ連や東欧での共産主義の崩壊により、市場主義がグローバル化したことが大きな契機となったのです。ドイツでも、暉峻(てるおか)教授が「豊かさとは何か」を書く動機づけとなった高福祉も見直される向きが出てきているようです。それでも、サッチャー構造改革によって教育現場、労働状況が荒廃してしまったイギリスでは、市場主義と福祉政策の微妙なバランスを求めて、新たな「第三の道」を模索しているのです。

小泉構造改革が目指すものは市場主義の純化により、国家経済の効率を高めようとするものです。画一化が隅々までいきわたらせるのは、管理がしやすいようにするためです。「日本の構造改革」をお書きになった佐和隆光京都大学教授は、市場改革は好景気のときにこそ行われるべきもので、今日本が手をつけなければならないのは景気対策である、景気対策のためには、競争に敗れた側を排除するのではなく、失業対策や再教育の機会を(ドイツ並みとまではいかないにしても)充実させ、労働者の質をより高め、敗者復活の方途を開いておくことである、学校教育を見直し、色んな個性を重視し、経済効率性という観点から裁いて、役に立ちそうな子だけを拾い上げるという偏った方法はやめるべきであるetc...、などわたしたちに頭から冷水をかぶせるような提案をされています。

明らかに日本人の頭は戦前から変わっていない。「富国強兵」の「強兵」を取り去ったものを意地になって追い求めている。欧米列強に肩を並べるという、いったいそれに何の意味があるのだというような目標を追い求めている。中国に追い越されたくないというが、その競争にどんな意味があるのだろう。ただ単に経済力順位にこだわっているだけなのです。

「無名兵士のことば」のなかで、加藤先生は「自己栄光化」を追及する人は自分と言う存在に自信が持てない人だと言われていました。

「自己栄光化は弱さの象徴である。人が力を求めるのは弱さからである。内面の力を感じられない人が、その代償として脅迫的に社会的力を求める。カレン・ホーナイは、人が力を求めるのは弱さからであると言っている。が、また人が力を求めるのは憎しみからであると、私は思っている。

しかし、力を持って人の上に立っても安全ではない。憎しみがあるから人に寛容になれない。憎しみがあるから人にやさしくなれない。だから、力による安全は、その人の想像上の安全である。安全は愛し、愛される関係の中で成立するものである(「無名兵士の言葉」/加藤諦三・著)」。

経済力第2の立場にしがみついても安全は保障されないし、信用も得られない。そこまでして「世界第何位」が大切なのはなぜか。加藤先生のお話をあてはめれば「自分の弱さを補おう」という努力があるからです。しかし内面の弱さをみくびられまいとして世界第何位という順位を得ても、「(子どもの頃からありのままの自分を認めてもらえなかった、という)憎しみがあるから、人にやさしくなれない」。だから経済効率に役に立たない人間(老人、障害者など)への福祉は切り捨て、現在はほとんど「自己責任」となっている。愚かな! あなたたちもやがて年老いるのだ。

福祉を考慮に入れるのは、人間はいつもいつも順調であるわけではないからです。自分だって、失業することもあれば、病気でリタイヤすることもある、生きかたを自分の向いている方向へ切り替えたいと決心することもある、エホバの証人から立ち直った人々のように。どんな状況にあっても、自分という存在は貴重だと思うから、自分が生きていることには意味があると思えるから、またやり直せる仕組みを設けたいと思う。それが福祉の基本だとわたしは思うのです。

ところが世界第何位という目標を追い求めている人たちは、名声や力がなければ自分はダメになると思い込んでいる。自分の内面の弱さを見くびられるのを怖れている。弱さがあらわになれば見くびられると思い込んでいる。だから意地になって経済力を高めようとする。そのために人間がどれ程犠牲になってもよい。力を追い求める人たちは、他人にやさしくなれない人たちでもあります。

「カネを貯めることには限りがないが、人生の時間は有限である。そればかりではない。他人や世界に対しても、ライバルか、損得の対象か、利用する手段と考えるようになり、万人は万人の敵となって、頼りになるのはカネだけ、という悪循環に陥る。西ドイツのシュミット元首相が、『経済大国日本は軍事同盟国を持っていても、本当の友人を持ってはいない』と言ったのも、経済至上主義の日本の姿を言い当てている(「豊かさとは何か」/暉峻淑子・著)」

日本の女性は晩婚さでは世界で一番なのはご存知ですか。子供を産みたがらないという面でも世界でもっとも高いのをご存知ですか。人間が巨大な生産マシーンの一部としてでしか生きていけない社会に絶望しているのです。そして世界第何位という肩書きを意地になって追い求めている人たちはまもなく報いを受けるでしょう。子どもが減っていっているのです。労働力が落ちれば生産力も落ちる。外国人労働力に頼らざるを得なくなる。日本は混血していくでしょう。子どもを安心して生めないのは福祉を軽視したからです。経済効率を上げるには福祉など足手まといでしかなかったからです。

過去は変えることはできない。でも今日という日は変えることができる。今日が変われば明日も変わる。わたしたちの明日を作るのはわたしたちです。今日何ができるのか、自分の持つ投票権で発言を行うこともできるのです。好い加減には扱いたくないですよね。明日の選挙にはきっと参加しましょうよ、ね。
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「構造改革」の目指すもの(1)

2005年09月10日 | 一般
「人間性回復のために」シリーズにあたって、いま経済学者が著された小著を数冊、買い込んで読んでいる最中です。ちょうどいま、「構造改革」の章に差しかかっています。よく、小泉流構造改革は弱者排除の政策だと言われていますが、その意味が少しわかるようになりました。日本が目指しているのは、国力の強化であり、国民の生活向上ではありません。国が豊かになることと、わたしたちの暮らしが豊かになることとは違います。「人間性回復のために」シリーズはこの点に注目してもらおうと思って始めました。困難ではありますが、やり抜きます。「面倒くさい話はご免よ」なんて思わないでください。これはわたし達に関わる重要な問題です。わたしたちは日本を動かす人々に「マインド・コントロールされている」と言っても過言ではない状況にあります。新聞でさえ、国力強化と国民の生活向上とを混同しているのです。

中国が宇宙へロケットを飛ばすとなったときに、やれ経済ではまだ負けていないとかいう無意味な主張が政府からさえ話されました。ロケットを飛ばす技術で先を越されたからといって、わたしたちの生活に何か困ることがあるのでしょうか。親が子どもを虐待して死なせ、子どもがティーンの頃から快楽殺人に溺れ、高校生が平気で売春し、子どもたちはカッとなって親や教師を殺害する世相なのです。まず最初にやらなければならないことがあるでしょうに。ほとんど優生学的とさえ言えるほどの、選抜式の学校教育、社会の部品を作る目的であるかのような画一的な教育、こうした非人間的な「調教」が、個性豊かな個人を押し潰していることが子どもたちを疎外している現実も、このシリーズで紹介するつもりです。わたしたちがいま進むべき道は、現在省庁の官僚たちの青写真が進もうとしている道とは異なっています。

でもこのシリーズを進めてゆく前に、選挙も近づいていることですし、なぜ小泉構造改革が「弱者排除」の非人間的(つまり、国民ひとりひとりの暮らしよりも「国体」強化優先、という意味合い)な方針であるかを、郵政改革、道路公団改革、国立大学の法人化の3点から見ていただきたいのです。「日本の構造改革・佐和隆光・著/岩波新書」からダイジェストで引用してみます。みなさんがお持ちの一票を、未来を見据えた方法で活用していただきたいのです。

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日本に限らず、ほとんどすべての先進諸国で、電気通信事業は国営化されていた。なぜなら、全国くまなく電気通信網を張り巡らせるというインフラづくりのために、巨額の初期投資が必要だからである。鉄道網しかり、電力会社しかり、多くの先進諸国で国営化されている。インフラが出来上がってから、これらのインフラを共有するような形で民営化・自由化が始まるのである。

小泉内閣の金看板は郵政事業の民営化である。郵政事業もまたネットワーク産業のひとつに数えられる。二、三の例外を除いて、全国の3190(2003年4月現在)ある市町村に少なくともひとつの郵便局がある。全国くまなく、それだけのネットワークを張り巡らせることができたのは、郵政事業が国営だったからである。

【郵政事業の民営化】

郵便事業の公社化により、「郵便」事業はかなりの程度まで緩和された。郵政公社はライバルの宅配業者との熾烈な競争を繰り広げることとなった。宅配業者の方が、郵便よりも利用しやすい。宅配業者は自宅まで集配に来てくれるし、こちらの希望時間に届けてくれる。しかしこの便益は都市部においてである。人口過疎地帯に行けば、とてもそんな手厚いサービスを提供するわけには行くまい。

〈困難な郵貯・簡保の民営化〉
郵政公社には、個人の貯金にのみ「特化」するよう、また貯金の上限を1000万円とするよう規制が課されており、貯金残高は財務省の財政融資資金に預託して、財政投融資の原資として活用されてきた。政策投資銀行、中小企業金融公庫、住宅金融公庫などが郵貯の貸出業務に当たっている。なお最近では、郵貯残高の一部が日本郵政公社の自主運用に委ねられるようになった。預金と貸し出しの両面で、郵政公社と政府系金融機関が、多かれ少なかれ、民業を圧迫していることは紛れもない事実である。この意味では郵便貯金と政府系金融機関の廃止は、市場主義的な観点からすれば、文句なしに望ましいということになる。

とはいえ、個人預貯金の31.5%、
     個人金融資産の16.8%(2002年速報値)
のシェアを持つ郵便貯金がそのままの形で民営化されれば、巨大銀行の誕生ということになり、銀行業界全体にとっての脅威となろう。地域分割して民営化されれば、地方銀行にとっての脅威となろう。そもそも、巨額の個人貯金を預かっていること、そして民営化した郵貯に対してのみ特別の規制を課することが非現実的であることからすれば、郵貯の民営化は、国鉄や電電公社の民営化とはまったく異なる問題点をかかえている。簡保の民営化についても、ほぼ同じことが言える。

国債残高の24.4%にあたる130兆円(2003年6月現在)を郵貯と簡保が引き受けているという事実が、事態をいっそう錯綜させている。民営された郵政公社が、民間企業としての自主的な資産運用を行えば、新規国債の未消化、既発国債価格の暴落、長期金利の急騰という事態が招来されかねない。

民間の銀行や保険会社と比べて、郵政公社員の給与水準が相対的に低いこと、全国的なネットワークが完備していること、地域密着度が高いことなど、銀行や保険会社と比べて、郵政公社の側が並々ならぬ「比較優位」を有していることは紛れもない事実として認めざるを得まい。一方、銀行側の比較優位は、融資業務のエキスパートを多数かかえていることなのだが、民営化された郵政公社は大手銀行から、融資エキスパートの引き抜きをやるに違いない。

国鉄や電電公社の場合には、国が作った可視的なネットワーク(線路、電線など)があった。しかし、郵政公社の場合には必ずしも可視的ではない。「全国くまなく」ある郵便局の配送網が、郵政ネットワークである。国鉄の赤字ローカル線は廃止されても、バスを走らせることにより、なんとか鉄道に代替することができた。しかし、過疎地帯の郵便局の廃止は、書信や小包の配送、預貯金、保険というサービスから、過疎地の住民、とりわけ高齢者を「排除」することになる。国鉄の赤字ローカル線の廃止以上に、「排除」される者のいない社会を作るという「第三の道」の価値規範に照らせば、深刻な問題が潜んでいるのである。

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問題は、過疎地の郵便局は保護するという口約束などではありません。「排除」される人々への保護がないということなのです、小泉「構造改革」は。この「排除」の範囲、実体は空恐ろしいものです。とくに教育、高齢者、退職者、失業者、病気の人、障害者、在日外国人にとっては。これらの点は可能な限り(とくに教育については必ず)、「人間性回復のために」シリーズでご紹介します。日本は今、国民を部品のように見なして、国家経済をのみ活性化させようとしています。国家経済をのみ潤そうということなのです。国が潤うというのは、国民の生活が向上するということではありません。ごく少数の人々のみ潤うということなのです。




「真の民主主義国なら、収益を無視して生産力の無限の拡大を国家の最優先課題としつづけることなどできないはずだ。少なくとも日本で実際に行われているほど長くは続けられないだろう。そのために日本の人々の幸福がはなはだしく犠牲にされているからだ。“ 富める国の貧しい国民 ”ということばが日本人の実感を表している。

「もし日本人が自分の運命を自分できめる手段を持っていたなら、そんな実感を持ちながら、自分たちのエネルギーや社会資本や知的能力をひたすら産業に捧げることを許さなかっただろう。文明国の市民なら、人間としてできることは他にもたくさんある。経済活動以外のことをする機会に恵まれた北欧・西欧諸国の人たちは、それだけ今日の日本人よりもずっと幸福でいるのだ (「人間を幸福にしない日本というシステム」/.カレル・V・ウォルフレン・著)」。

ぜひみなさん、この最後のことばの意味をいちどじっくりと考えてみてくださいませんか。

つぎに道路公団の民営化と国立大学の法人化における排除の実相を示します。
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あゆさんへ(^^)

2005年09月09日 | 一般
あゆさん、こんばんは。

見ていて気の毒になる「困った人」ですね(^^)。

でも「人の忠告を聞かない」のは「困った人たち」だけじゃなく、誰にでも共通することじゃないでしょうか。忠告するときの言い方とかも関係するでしょうし、ね。わたしの場合、人づき合いの基本は相手を変えようとせずに、そのまんまで是とすることです。つき合いを3種類に分けます。自分にとってのキーパーソン=重要な他者、よくおつき合いする人たち、そして社会上のおつき合い、です。会社でのおつき合いとか行きつけのお店の人とかなら、あんまり深入りしませんし、気に入らないことがあっても、こちらが無理を聞いて譲ります。自分にとってのキーパーソンであるなら、こんなことはしません。でないと孤独になります。(以上、「自分でできる対人関係療法」 / 水島広子・著 : 衆議院議員の水島広子さんです)

エホバの証人にとって聖書は、文字通り手垢のつくくらい使い込む本でしたが、わたしがJW後の人生で、かつての聖書なみに使い込んできた本からちょっとたのしい情報を引用してみます。

〈不安障害〉と〈強迫性障害〉の観点に立って、以下、「難しい性格の人との上手なつきあい方」/ F・ルロール&C・アンドレ・共著 より引用します。





【心配性の性格の人びととどうつきあうか】


☆したほうがいいこと
1.ものごとを相対化して見られるように手助けをする。

たとえば、車の渋滞に巻き込まれて予定の列車に乗り遅れそうになったとき、心配性の性格の人が「どうしよう」と心配しはじめたら、こう言ってやればよい。

「時間が押してきてるね。でも列車は一本だけじゃないよ。それよりも遅れたときどうするか、決めておこう」。
そうやって、気持ちに余裕を持たせるようにしたあとで、〈次の列車に乗る〉、〈待っている人に知らせる〉など代案を示してやればよいのだ。そうすれば、心配性の性格の人の不安はかなりやわらぐだろうと思われる。

2.やさしいユーモアで答える。

心配性の人がそばにいると、うっとうしいことがある。親である場合などがそうだ。そういったときにはいらだちをあらわにして相手の心配を退けようとしてしまいがちだが、それでは人間関係を良好に維持できない。

実例:下宿して大学に通っている男子。

母親がうるさくてね、ちゃんと食事をしているか、夜更かしはしていないか、しょっちゅう電話をしてくるんです。こっちはもう独立した気分でいるから、うんざりしています。で、ちょっとからかうつもりで、「一週間前から食事をしていない」とか「今年は昼寝て、夜起きる生活をするように決めたんだ」と返事をすると、もう向こうで騒いじゃって、延々と説教するし、「何一つ満足にできない子どもだ」なんて言われちゃって、腹が立つばっかりだった。

だからこの頃では、母親のいうことにいちいちマジに相手せずに、やんわりとユーモアで返すようにしているんです。たとえば、「ちゃんと食事のことはできてる?」と訊かれたとすると、ぼくのほうは笑いながら、「うん、お母さんほどじゃないけれどね」って答える。そうすると母もうなずいて、自分から話題を変えるんです。

☆してはいけないこと

1.相手の言うなりになる。

心配性の人は、自分が心配だからといってまわりの人の行動を縛る傾向にある。たしかにそれは好意から発したものだし、言うとおりにするのはある意味では簡単な方法だろう。だが相手の言うなりにばかりなっていると、こっちは動きが取れなくなるし、息詰まってくる。自分としては「ものごとを相対化して」考え、うまく行かなくても次善の策を設けておいて、そんなに心配するほどのことではない、と考えている旨を伝える。

2.びっくりさせる

心配性の人はビックリするのが嫌いである。それはそのビックリすることの原因がよいことであっても同じである。心配性の人びとは、どんなものであれ、大きな変化を伴うこと、何か思いがけないことが起こると、強い感情的なショックを受ける習性になっているからだ。

そうだとすると、心配性の人を驚かせるようなことを話すのは、意地の悪い楽しみとなるかもしれない。だが、この誘惑に負けてはならない。それは心配性の人に対してはあまりに思いやりに欠けたことになるからだ。

3.自分の心配ごとを打ち明ける。

心配性の性格の人は自分の抱えている心配ですでにあたまがいっぱいになっている。心配を打ち明けることによってほんとうに助力を得られる場合は別だが、一般に言うと、そんな人には自分の心配ごとなど打ち明けない方がいい。世の中は、自分が思っていたよりもさらに危険なところなのだ、というふうに、相手の不安をさらにあおるだけである。その相手が、職場の同僚や上司なら、「あの人はいつも心配ごとを持ち込んでくる」と、あなた自身のことが相手の心配の種になって、関係がおかしくなる怖れがある。

4.不安になるような話題を口にすること。

私たちのまわりは危険に満ちている。外に出れば交通事故、家にいてもガンが発生して、静かに増殖を開始しているかもしれない。そんなことをひとつひとつ挙げていけば、私たちの人生と言うものは綱渡りのようだ。

だがふつうの人はあまりそんなことは気にかけない。だが、心配性の人はそういった危険から目を逸らすことができない。彼らにとって危険を思い浮かべるということは、すなわちそれを体験するということであり、大きな不安に苦しむということなのである。

したがって、心配性の人とうまくつき合おうと思ったら、同僚の一人が脳腫瘍で入院したとか、知り合いにエイズを心配している人がいるとかいった話題は避けるほうがいい。新聞の連続殺人事件の記事とか、大量虐殺のドキュメンタリー番組というような、新聞やテレビで得た情報も話さない方がいい。そういった出来事は「世界は危険に満ちていて、いつ怖ろしいことが起こるかわからない」という心配性の人の思い込みを強めてしまう。実際、医者によっては、心配性の性格に悩む患者には、テレビのニュースを一切見ないよう禁じている人もいるくらいなのだ。


【強迫性の性格の人とどうつきあうか】




強迫性の性格の人は不完全であることを極端に嫌う。だから細部にこだわる。確信が持てない状態を怖れる。だから何度も確認する。その基本的な思い込みは、「規則に従っていれば、すべてはうまくいく」ということであり、裏返して言えば「百パーセントうまくいかなければ、それは完全な敗北だ」ということである。そして、強迫性の性格の人が「困った人」なのは、その基準を自分だけでなく、他の人にも適用するからだ。そも結果、「他人は信用できない」とか、「他の人のしたことは必ず確認しなければならない」という信念に至る。

☆つき合う際にしたほうがいいこと

1.相手の行動に理解を示す。

強迫性の人は家族なら家族に、会社なら会社の利益のために自分が貢献すべく行動していると考えている。そこでもし、あなたがその行動を見て行き過ぎだと思っても、真っ向から批判したとしたら、相手の方は、あなたは全体の利益を考えない分からず屋だと評価するだろう。逆に、あなたがまず相手の行動に理解を示し、全体の利益のためにしているのだと分かってあげれば、相手のほうもあなたの批判に耳を傾けやすいと思われる。

2.計画は早めに決めて、突然の変更をしない。

強迫性の人は思いがけない出来事が起こったり、突然計画が変更されたりするのを嫌う。一定の順序にしたがって、規則正しくものごとを片づけていく性格からすればきわめて当然のことである。したがって、強迫性の人に対しては、できるだけ不意打ちを食らわせないほうがいい。また、何かを依頼するときも、完全にやりたいという相手の気持ちを大切にして、あまり急がせないほうがいい。

3.あいてが行き過ぎたら、時間をかけて具体的に説得する。

強迫性の人が行き過ぎた行為をしたら、頭ごなしに批判してもしようがない。そうするのは強迫性の人を頑なにさせるだけだ。彼らは全体の利益のためにはそうするほうがいいと固く信じているのだ。それよりも、「全体の利益を考えて行動している」という相手の気持ちを利用して、「その行為を続けたら全体の利益を損なう」ということを具体的な証拠を挙げて説明しよう。

例:
ある工場の仕入れ部長が、「工場で使う資材はどんなに安いものでも無駄なく使うべきだ」と考え、購入した資材の利用状況をチェックするきわめて複雑な管理システムをつくりあげた。だが実際にその作業を行おうとすると膨大な手間がかかるので、肝心の生産業務のほうに遅れが出始めた。そこで、現場の職工長たちの苦情を受けた工場長がこの管理システムを中止するよう、仕入れ部長を説得することとなった。

工場長は仕入れ部長を部屋に呼ぶと、まず会社のために力と才能をつくすその真摯な態度をねぎらった。
それから、今度のシステムによって、どれくらい「人件費」がかかるか、その場で計算をして見せた。仕入れ部長はその計算の過程を熱心に見守った。

さて、その計算が終わると、工場長はこんどは新しい管理システムによって「会社が得る利益」を計算し、先ほどの人件費と比べてみた。結果は人件費による損失の方が管理システムによる利益よりも多かった。

そうなったら、仕入れ部長を説得するのに時間はかからなかった。話合いの最後に、工場長は「今度から新しいシステムを導入するときには費用のほうの計算もしてみるように」と言った。仕入れ部長は喜んでそれを了承した。



この例では、仕入れ部長本人を非難していない点がいいな、とルナは思いました。わたしたちって、こういう場合、得てして「君のやり方はあたしたちにすごい負担だ」とか「君は考えが狭い」とかいうふうに、相手自身のプライドを攻撃してしまいがちですよね。不備だったのは仕入れ部長の人間に備わる性質とか才能ではなく、あくまでこの管理システムにある、という言い方が人材を活かすんだと思いました。

4.自分が信頼できる人間で、行動を予測できる人間であることを示す。

強迫性の人と上手につき合おうと思ったら、時間に遅れたり、ほんの小さな約束でも破らないようにしたほうがいい。そうでなければ、たちまち無責任な人の仲間に入れられて、信頼を失ってしまうだろう。強迫性の人びとは、皆が約束を守ったら、世の中はもっとうまくいくはずだと固く信じているのだ! (そしてそれは間違いだというわけでもないのだ) したがって、約束を守れなくなった場合は、できるだけ早めに知らせてあげて、はっきりと謝ること。強迫性の人には、彼らにとってあなたが信頼できて、あなたの行動が彼らの予測できる人間だと感じさせることが大切である。

5.リラックスする楽しさを味わってもらう。

強迫性の人はいつも緊張している。自分のすることがいつも完璧でなければならず、そのために絶えず注意を払っているのだから、当然である。だが強迫性の人も、心の中では、もっとリラックスしたいと思っている。ただその勇気が出ないだけなのだ。したがって、そういう機会があれば、積極的に声をかけて誘ってみるとよい。

6.強迫性が長所となるような仕事を任せる。

強迫性の人には、会計事務や法律の手続き、商品管理など、特別に向いている仕事がある。そういった仕事に就かせれば、強迫性が長所となって作用し、彼らはすばらしい仕事をしてくれるだろう。


☆してはいけないこと


1.皮肉を言ったり、からかったりする。

強迫性の人が頑なになって自説を主張しているのをみると、まわりの人はつい皮肉を言ったり、人格攻撃をし返したりしたくなる。だが、その誘惑に負けてはならない。強迫性の人は、自分のやり方が全体の利益になると固く信じている。だから、まわりから口撃されても、その理由がまったくわからないのだ。

それに、あなた自身も、皮肉を言われたり、人格攻撃をされたり、からかわれたりしたとき、そのことばを聞いて、率直に反省できるだろうか。相手の悪い部分を指摘するのにユーモアが役立つのは、相手との間にすでにしっかりした信頼関係ができあがっていて、そのユーモアが善意から発せられた場合だけである。たとえ、ユーモアのつもりでも、皮肉を言ったり、からかったりするのは避ける必要がある。

2.相手のペースに巻き込まれる。

強迫性の人は、秩序を大切にし、全体の利益を図ろうとする気持ちから、自分が正しいと思ったことを他の人にもさせようとする。その結果、職場や家庭で暴君と化しやすい。というのは、自分の言うことに反対する人間がいると、細かい例を挙げながら、平板な口調で自分の意見を何度でも繰り返すので、しまいには反対している方が根負けして、つい言うことを聞いてしまうからである。

だがそこで相手の言いなりになってはならない。秩序や規則を大切にする気持ちは尊重しながらも、ストップをかけなければならない場合もあるのだ。以下に挙げるのはその例である。

例:
強迫性の夫がいて、彼は妻が調理をする際に台所を汚しっぱなしにするのに耐えられなかった。だから彼は調理している妻のそばに立つと、材料を入れた皿が空になったり、汚れた鍋やフライパンが出るたびに、かたっぱしから洗っていった。妻のほうとしては、そんなことをされると、自分が非難されたり、監視されたり、子ども扱いされているようで、「そんなことをするんならもう料理はしないから、代わりにあなたがやってちょうだい」と宣言した。

夫はそれを承諾した。自分ならもっときちんとしたやり方で料理ができるという自信があったからだ。しかし、実際に始めてみると、思ったように料理ができないばかりか、時間がかかりすぎて、本当にやりたいこと(部屋の整理をするとか、小遣い帳をつけるとか)ができなくなってしまうことがわかった。そこで夫婦は話合いを行い、妻が台所にいる間はそこに入らない、そのかわり食事の準備がすべて終わったら、夫の思う存分片づけものをしていい、という協約を結んで合意に至った。


この例は話合いで解決を図った見事な例である。この夫婦はお互いに相手のやり方を変えようとはしていない。自分が受け入れられるところで妥協を図ったのである。





…いかが?
けっこうおもしろい話でしょ? でも実用的なんですよ、これ。ぜひお試しあれ。
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心配は人生最大の敵です(1)

2005年09月06日 | 一般
お堅い話ばっかじゃ、疲れるでしょうから、柔らかい話もします。以下は「なりたい自分になる教科書」、石井希尚さんの著書からの引用です。

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【心を不安でいっぱいにする魔力に負けない】




もしあなたが、人生をしあわせで満たそうと思うのなら、「心配」という敵と闘う術を身につける必要があります。「心配」ほど人生を台なしにする力を持っているものは他にありません。「心配」は実るはずのものさえ、つぼみになる前に腐らせてしまう害虫のような存在なのです。人がつぶれてゆくとき、それはその人が心配や怖れに支配されてしまったときです。

しかし、人の心が「平安」で満たされているなら、その人はどんな問題も試練も乗り越えられるのです。問題や試練が人を押し潰すのではありません。問題や試練を前に心配してすくんでしまうことが人を押し潰すのです。人生にとって最大の問題は、人の心から「平安」が取り去られるということなのです。「心配」こそが人の心を不安でいっぱいにする敵なのです。不安でいっぱいになった心は、本来備わっている、「乗り越えさせる」力を萎えさせてしまうからです。

                                  *

結婚カウンセリングを受けに来たカップルのケースです。

女性のほうの表情からは、明らかに心配ごとを抱えていることがわかりました。不安な気持ちを打ち明ける必要があると思われたので、わたしはこう尋ねました。
「いま、心配していることがありますね。それは何ですか?」

すると彼女はこう言うではありませんか。
「あの…、彼ってすごくやさしいんですけど、でも、やさしすぎるから…。子どもが高校生とかになって、非行とか、悪いほうに言っちゃったとき、ちゃんと叱ってくれるかなあ~って…」

わたしはあっけにとられてこう答えました。
「それって、最短でもいまから16年後のことですよね!?」

「はあ…」

ふたりはまだ結婚もしていないし、子どももできていません。しかし彼女はとんでもない先のことをいまから心配しているのです。16年もあれば、どんな未熟な男性でも「父親」としてのイロハを学ぶには十分です。きっといまよりも成熟した男性になっているに違いないでしょう。しかし彼女はいま現在の彼を見て、16年後に「強い父親」になっている姿が想像できないから、心配だというのです。

それにしても、いまから16年も先のことの心配が原因で、結婚に二の足を踏まれたのでは、彼としてもたまったものじゃありません。このときは、彼女もいっしょに大笑いして終わったのですが、ここに心配の性質がよく現れています。

心配は時間を越えるとうことです。一度心配しはじめたら、それがたとえ16年後のことであろうと過去のことであろうと、関係なくなるのです。まるでそれがいま起こっているかのように感じられるのです。そしていつの間にか心を蝕んでいくのです。それが「心配」というものの性質です。

                                 *

【心配しない、と決めることが第一歩】




わたしは(著者)あなたに言いたいのです。心配してもいいことはなにもない。心配しないほうがいい。なぜなら心配はあなたの願っている結果をもたらすものではなく、むしろその逆だからです。

心配したら、あなたの問題は解決するでしょうか? いえ、心配しても問題は解決しません。解決するどころか、余分な問題を背負い込むことになるのです。あなたは精神的にも肉体的にも病んでいくだけです。この事実に今すぐに気づくべきなのです。

末期がんを宣告されていながら自然治癒してゆく人、というのは事実います。そういう人は精神的に安定した人で、心配や不安に心が支配されない人に多いといいます。

「免疫療法を研究する流れの中では、心の持ち方を穏やかで豊かな方向に導く心理カウンセリングが、医学的な数値として免疫力を高めることさえ確かめられています。(お腹から笑うことはもっと免疫力を高めるそうです) / (「AHCCならガンとここまで戦える / 北廣美・山田義帰・著」)」

心配や不安、思い煩い、あるいはストレスなど、精神的な要因が人の持つ免疫力を低下させ、逆に、心配や不安から解放されている穏やかな心が免疫力を高める、ということが免疫力を高める、ということが医学的に立証されています。心配は「身体を蝕む敵」でさえあるのです。百害あって一利なし、これこそ心配の正体なのです。

心配は人類の敵です。何も良い結果を生みだすことはありません。ですから、心配を考え続けないほうがいいのです。これほど単純でわかりやすい「真理」はほかにありません。
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人間性回復のために(9)

2005年09月05日 | 一般
「豊かさ」とは「ゆとり」を持つことができるということであり、「ゆとり」とは畢竟、自分にとって有意義な時間を過ごす、ということ。わたしは「ゆたかな人生」とはこういうものである、と考えます。20世紀の終わりになってからこっち、多くの在野の経済学者たちも同じようにおっしゃておられます。

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山崎正和はその著「柔らかい個人主義の誕生」のなかでこう書いている。

「消費とはものの消耗と再生をその仮の目的としながら、じつは、充実した時間の消耗こそを真の目的とする行動」である、と。

「充実した時間の消耗」をもたらす手段としての財(ルナの註:商品等を指す経済学用語と思われる。「思われる」ですよ、あくまで…)・サービスという発想は、それを可能にするような環境への関心を呼び起こす。

…(難解な数行をカット)…

逆に、そうした環境を欠いたとき、財・サービスの増大そのものは、何ら豊かさを保証するものではないかもしれない。それにもかかわらず、戦後の経済成長の過程を通じて、われわれは財・サービスの生産増大こそが豊かさの実現であるとする思考のスタイルを、ほとんど疑うことなしに持ち続けてきたようである。

ここに、興味深いひとつのデータがある。朝日新聞社がこの数十年にわたって行ってきた世論調査によれば(「ザ・ニッポン人」 / 朝日新聞社世論調査室編・1988年)、

「日本は豊かか?」という問いに対しては、「豊かである」と答えた人の比率が、
1971年の   35%  にはじまり、
1977年には 64% でピークに達し、
1986年には 56% と若干下がっている。

一方、「あなた自身の暮らしは豊かか?」という問いに対しては、「豊かではない」という答えが、
1971年の 38% から、
1987年の 62% へと急上昇している。

「国」の豊かさと「個人」の豊かさとの、この際立ったギャップは果たして何を暗示しているのであろうか。財・サービスの生産増大といった、国の富の成長は必ずしも国民個人個人の「充実した時間の消耗」に結びつかないということではないか。豊かさの問題を「充実した時間を過ごすこと」という発想を軸として、あらためて問わなければならない状況が生まれているように思うのである。
…(中略)…
戦後四十数年(1945年から上記の統計が取られた1987年まで)、経済成長は社会に豊かに財・サービスをあふれさせることに成功したものの、われわれに生活の豊かさ、会社から離れた個人としての充実した時間を過ごさせることには成功していないのである。

(「豊かさの孤独」 / 中村達也・著)

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この本は言い回しが難しいので、ナカナカですが、要するに金は稼げても、それで家族との時間が取れなかったり、家・土地が高くてもっと労働に時間を割かねばならないので、「時間のゆとり」は失われる一方である。それはけっして個人としては豊かではない、という趣旨です。時間にゆとりがなければ生きていることにしあわせを見出せない、という感想はエホバの証人の出版物でも取り上げられたことがありました。


*** 目88 2/22 25ページ しあわせを求めた漫画家 ***

人気が出るにしたがって,生活の仕方も変わりました。上京してアパート暮らしをするようになってからは特にそうでした。仕事が終わるとバーやクラブへ行き,明け方まで遊んで,昼間は寝ているという生活の売れっ子漫画家たちをすっかりまねるようになっていました。

人気を維持するためには,より刺激的なものを描くと同時に,より多くの仕事をこなす必要があります。仕事が速いほうではないうえ,納得のゆくまでやるほうだったので,時間はいくらあっても足りませんでした。幾日も入浴しなかったり,1か月間部屋の掃除をしなかったりすることなど日常茶飯事でした。締め切り前には,30時間も40時間も続けて仕事をすることもありました。仕事のためにはどんなことをも犠牲にしました。

その結果,お金はあるのに,それを使う時間がないという欲求不満に陥りました。その反動でむだ遣いをするようになり,あまり着ることもない新しい服を毎月のように買い,どこへ行くにもタクシーを使い,一度にレコードを何万円も買ったりしました。それは空しさを強めたにすぎませんでした。

人気が物を言うこうした世界では,人気が上がるにつれて強烈なライバル意識がいやがうえにも強くなります。だれかが上がれば,だれかが下がります。ひとたびトップの座に就くと,他の漫画家は,自分をそこから落とそうとねらう敵にほかならなくなります。人気が落ちるとどうなるでしょうか。普通,一度上がった原稿料が下がることはないので,人気がなくなったのに原稿料だけ高い漫画家には仕事が来なくなります。忘れられてゆくのです。

私の味わった充足感はすばらしいものでしたが,華やかな漫画家の世界に私が見つけたのは,心の中を風の吹き抜けるような空しさや焦燥感でした。しかし,それを認めたくはありませんでした。

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この経験談の語り手は藤井由美子さんとおっしゃる漫画家です。じつは小学生の頃、わたしもこの方の「この」作品を愛読していたので、この経験談は親近感を持って読みました。この頃日本人の経験談というのが珍しかったのかもしれません。

ここにあるように、「お金はあるのに、それを使う時間がないという欲求不満に陥る」、つまり、エホバの証人ふうに言えば、「財産を持って自分を誇れるようにしても」生活を豊かにはできないということです。中村達也教授のご意見にしたがえば、豊かさとは「充実した時間を過ごす」ことにあるからです。しかも藤井由美子さんはゆっくりした時間を割くことはできなかったのです。人気を維持するためにはどんどん書いてゆくしかなかったのです。自分の書いた作品が評価されるという仕事上の成功は得られ、それはうれしいものの、商業の流れに乗っかっていたために、マイペースで仕事ができなかったため、仕事の成功に手放しで喜んでいられなかったということです。

しかも1980年代に入って、長時間労働はたいへんな社会問題にもなってゆくのです…。
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人間性回復のために(8)

2005年09月04日 | 一般
エホバの証人として生きてきた…。多くの貴重なチャンスを見逃してきた…。自分のほんとうの意欲を押し殺して、「エホバの喜ばれる」選択を取って生きてきた…。もっと正確に言えば、「組織の言うがままに」、「熱心なエホバの証人の親に受け入れられるようにするために」生きてきた。でももう「自分」を放棄するような生き方はできない、限界に達した…。人によっては、不幸にも「うつ」をわずらってしまった、人によっては、人づき合いがうまくできず、孤独に苦しんでいる…。でももうおしまい、こりごり!

そして今、バプテスマの水を逆にくぐり抜けて、「世」に飛び出してきた。「世」という世界は広い、ちっちゃな、ちっちゃな自分はこんな世界で生きてゆけるんだろうか…。幸せになれるだろうか、「しあわせ」ということが何か途方もないことに思える。

「でも生きなきゃ!」

しあわせになるって、どういうことなんだろう。
こんな生き馬の目を抜くような世界で、どうやったらしあわせを勝ち得るんだろう…。
あたしには、あんなすごい競争を勝ち抜くなんて、とてもできない…。
多少不満があっても、だれかリードしてくれそうな人に寄りかかるのが最善の策かな…。

いいえ、それではエホバの証人時代とおんなじことになってしまいます。世の中の流儀は人間をしあわせにしない構造になっています。わたしたちは「人間」というよりは単なる「労働力」という一面でしか評価されないのです。十分働けなくなれば容赦なく切り捨てられるのです。小泉首相が「構造改革」の旗揚げをしたとき、首相は「構造改革に伴う痛みに耐えよ」といい続けてきました。しかし「痛み」はあまねく社会全体に及んだのではなく、退職者世代や病人や障害者や少数の在日外国人、「効率性の低い」業種に携わる人々にのみ押しつけられているのです。30代40代になって、いえ、たとえ20代でも、世の中を「神」に見立ててそこに精力のすべてを注ぎ込むと、エホバの証人時代と同じネガティブな報いを刈り取ることになりかねません。

わたしはまず、「しあわせとは『ゆとり』にある」という考えに立って、今の日本の社会の実情と、こういう社会にしてしまった構造上、思想上の欠陥を学者たちの小著から拾い出し、また自分個人がどんなペースで、どんな方針で生きてゆくことができるか、そのモデルを示してみたいと思います。このブログ始まって以来はじめて、「テーマ」というものを持って、記事を出してゆこうと思います。

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【豊かさって何だろう…女たちの生活実感】





「ミセス」1988年2月号で、読者である100人のミセスの声を集めて「豊かさって何だろう」という特集が組まれたことがあった。

「ウサギ小屋に住み、満員電車に長時間ゆられて通勤し、夜遅くまで働く日本人。豊かな生活とは、どんな暮らしを言うのだろう。『豊かさ』をお役所の統計や数字ではなく、ミセスひとりひとりの肉声で、台所からの視座で、身近で具体的な生活実感から捉えると」
…と前置きしたその特集はミセスたちの声を次のように紹介している。


「きれいな空気と豊かな自然。近所には図書館、保育所があり、ミセスも安心して仕事ができる。受験競争もなく、子どもたちはのびのび学び、遊ぶ。老後はのんびりと年金生活。ひとり暮らしになっても福祉サービスが行き届いていて安心」。


つづいて『あなたにとって豊かな暮らしとは?』という質問に対してミセスたちは、

「日の当たる家に住み、家族そろって夕食をとり、日曜日には近くの公園や郊外に足をのばしてスポーツに汗を流す。年に一度くらいは家族でバカンスを楽しむ」。
「平均的サラリーマンにも、通勤時間が1時間くらいのところにマイホームが持てる」。
「子どもが家の中で、TVやファミコンで一人遊びをするのではなく、元気に外で走り回って遊ぶような社会」。
「平和であること。老後に不安がないこと」。
「多少不便でも、公害、農薬、食品添加物がない生活」。
「公害をなくし、緑をふやす。子どもを塾から解放し、まじめに働く者に住宅を与えることができる国」。
「規則だらけではなく子どもが生き生きできる国」etc...。



次に、『あなたの欲しいもの、必要なことは?』の質問に対しては、

「自由な時間」(この答えは圧倒的に多い)。
「有給休暇」。
「将来の生活に対する不安を取り除くことが、今の生活にゆとりを生む」。
「まじめに働いた人なら、老後の生活の心配をしなくてもすむような制度」。
「私立学校の授業料への補助」。
「勤務時間に見合う収入」etc...。


さらに、『日本人の豊かさの象徴は?』との質問に、

(この引用は1989年上梓の著作から、だからバブルの頂上期のアンケートです)
「海外での不動産の購入」。
「ゴッホの『ひまわり』の取得」。
「40グラムそこそこで5万円もする化粧クリーム」。
「成人式の振袖、海外旅行の女子大生の華やかさ」。
「粗大ゴミ捨て場」。
「子どもの受験、進学にかける親の熱意と金と暇」。
「不動産広告に億単位の数字が並んでいること」。
「商品の過剰包装」。
「石原裕次郎の告別式」etc...。



最後に、『日本の貧しさを象徴するものは?』の質問に対して、

「画一化されて個性のない教育」。
「国民年金の少なさ」。
「税金が高いこと、つめこみ教育」。
「道端でゴルフの素振りに熱中しているお父さん。ラッシュアワーにもまれるお父さん。単身赴任のお父さん。カラオケバーで、ささやかなストレス解消をするお父さん」。
「農薬づけの野菜、薬づけの食肉、加工食品」。
「台所の窓から、隣の家のトイレの窓がすぐ目の前に見える住宅」。
「住宅ローンの破産急増」。
「民間の高金利金融の広告、看板があまりに多いこと」。
「人口あたりの公園の少なさ」。
「病人を詰め込むだけ詰め込んだ老人病院」。
「高額なお金を出さなければ入れない老人ホーム」。
「特別養護老人ホーム入所希望者の順番待ち」。
「年収が800万円あっても家が買えない」。
「銀座セゾン劇場、六本木シネ・ヴィヴァンのトイレ。GNPに直接結びつかないものはなおざりにされている」。
「今の日本の豊かさは、ひとたび社会的弱者になるや、ただの幻に終わってしまう。弱者として生活するにも、ほとんど自分で対処するしかない現実では、『今』を切り詰め、万一に備える負担の大きさに人々は苦しんでいる」。

ミセスたちの生活実感は、日本の豊かさの本質をみごとに言い当てているように思われる。



(「豊かさとは何か」 / 暉峻淑子・著)

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当時の主婦たちが「豊かになること」に対して望んでいたことは、ゆったりした生活空間そして家族の生活の時間、まじめに働いていれば安心できる老後の生活でした。しかし、当時にも現在にも、国民ひとりひとりが望んでいたものは手に入らなかったのです。当時も今も豊かさとは、そういう生活に密着したところにあったのではなく、生活とはかけ離れたところでの、華やかで高額な消費の行為でした。日本が得意の絶頂にあった頃から、すでに住宅や老後の生活、日常生活にはゆっくりした気分になれないものがあったのです。「ほしいものは?」と訊かれたら「自由時間」が圧倒的に多かったのです。

わたしが興味深かったのは、

「台所の窓から、隣の家のトイレの窓がすぐ目の前に見える住宅」
「銀座セゾン劇場、六本木シネ・ヴィヴァンのトイレ。GNPに直接結びつかないものはなおざりにされている」

…ということでした。装飾的で表面的な華やかさを「豊かさ」と見なしていて、生きている人間の生活というものがなおざりにされていたのですね。日本人が追い求めてきたものが何かを、たしかに的確に言い表していると思います。身を粉にして、家族も放置し、睡眠も健康もなおざりにして働いてきたエコノミック・アニマルたちは、その生きる人生そのものにはほとんど何の配当もないのです。

2005年の今日から振り返ってみて、過労死した労働者、うつ病から自殺した労働者、バーンアウトした労働者、あれよあれよという間に財産を失った労働者たち、彼らの労働はいったい何だったのでしょうか。そんな報酬を得るために働いていたのでしょうか。

労働って自分の生活のためにするんじゃないんですか? 
あなたたちはいったい誰のために働いてきたの?

この疑問は実はエホバの証人の頃に、わたしが感じていた疑問です。

時間の入れ方をあれこれ細工して、報告用紙に振り回されて、これがほんとうに「神」の求めることなのか、自分は神に何を期待しているのか、自分の幸福ではないか、でもこんな「奉仕」に充実感が見いだせない、何のための奉仕? 誰のための宗教? 日本の社会ってまるでエホバの証人の応用編のようだと感じます…。


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