Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

「事大主義」という心理

2013年05月05日 | 「心の闇」を解読してみよう







人の深層心理を見極める情報のひとつをスクラップしておこう。



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その日9時ごろ、私は家を出た。学生服の下にパンツではなく下帯をつけていた。これが当時の徴兵検査の “正装” である。検査場は杉並区下高井戸の小学校の雨天体操場、家から歩いて40分くらいの距離である。その古い木造校舎は、戦後もしばらく残っていた。校門の近くの塀に白紙がはられ、筆太に矢印で検査場への道筋が示されている。殆どが学生服の三々五々が、手に書類を持ってその方へ行く。



雨天体操場にはゴザが敷かれ、壁ぎわがついたてで仕切られ、その各区画を順々に通って検査を受ける。周囲をつい立てで囲まれた中央のゴザの広間がいわば待合室で、その正面が講壇、終わった者はその前に裸で並び、順々に呼び出されて壇の上から検査の結果が宣告されるらしい。



そんな光景を、開け放たれた雨天体操場の入り口を通して横目で見つつ、その入り口の横に机を並べて書類の受付をしている兵事係らしい人びとの方へと私は向かった。その前には十数人の学生服が、無言で群れていた。



そのとき私は、机の向こうの兵事係とは別に、こちら側の学生の中で、声高で威圧的な軍隊調で、つっけんどんに学生たちに指示を与えている一人の男を認めた。在郷軍人らしい服装と、故意に誇張した軍隊的態度のため一瞬自分の目を疑ったが、それは、わが家を訪れる商店の御用聞きの一人、いまふうの言葉でいえばセールスマン兼配達人であった。



いつも愛想笑いを浮かべ、それが固着してしまって、一人で道を歩いているときもそういった顔つきをしている彼。人あたりがよく、ものやわらかで、肩をすぼめるようにしてもみ手をしながら話し、どんな時にも相手をそらさず、必ず下手に出て最終的には何かを売っていく彼。それでいて評判は上々、だれからも悪く言われなかった彼。その彼と今目の前にいる超軍隊的態度の男が同一人とは…。



あとで思い返すと、あまりの意外さに驚いた私が、自分の目を信じかねて、しばらくの間ジィーッと彼を見つめていたらしい。別に悪意はなく、私はただ、ありうべからざる(ありえない、の意。自分の知っていた御用聞きと今の彼との落差を見たときの、「ありえない!」といった驚き)奇怪な情景に、われ知らずあっけにとられて見ていただけなのだが、その視線を感じた彼は、それが私と知ると(=いつも御用伺いに行っていた家の子だと気づくと)、何やら非常な屈辱を感じたらしく、「おい、そこのアーメン(この文章の筆者はこのころキリスト教徒だったらしい)、ボサーッとつっ立っとらんで、手続きをせんかーッ」と怒鳴った。



そして以後、検査が終わるまで終始一貫この男につきまとわれ、何やかやと罵倒といやがらせの言葉を浴びせつづけられたが、これが軍隊語で「トッツク」という、一つの制裁的行為であることは、後に知った。



軍隊との初対面におけるこの驚きは、その後長く私の心に残った。






そのためか大分まえ、ある教授に、

 ある状態で、 “ある役つきの位置” におかれると一瞬にして態度が変わる、
…という、この不思議な人間心理について話したところ、それは少しも珍しくない日本人的現象だと、その教授は言った。



(その教授の経験だが、)学生に何とか執行委員長とかいった肩書がつくと一瞬にして教授への態度が変わる。次いで就職となれば、一瞬にしてまた変わる。社員になればまた一瞬にして変わる。それは少しも珍しい現象ではない。



そして…、と教授は続けた、…その人がその後に(再びあなたの家に) “御用聞き” として現れたときは、また一瞬にして変わっていたでしょう、そしてそのことを、矛盾とも不思議とも恥ずかしいとも感じていなかったでしょう、と。



「その通りでした。でも、どうしておわかりですか」と私はたずねた。



「わかりますよ。今の学生がそうですから(この文章が書かれたのは学生運動の最高潮の時代からほんのわずか時期の下ったころ。1974~5年ころ)。昨日まで“テメェ”呼ばわりしていた学生が、平気で、就職の推薦状をもらいに来るんですから。そして就職すれば平気で社長のような口をきくんですから(対等であるかのような口のきき方をする)。この傾向は、一部の人が言うように戦後の特徴ではなく、戦前から一貫しているわけですよ」。



「どうしてそんなふうなのでしょうね」、私は思わず言った。



するとその教授は答えた。

「これが事大主義、すなわち “大に事える(つかえる、と読むらしい=仕える、の意)主義” です。この点で彼ら(先の “御用聞き” と、その教授の言う “今どきの学生” の態度の変化)は一貫しているわけです。



御用聞きにとって顧客は “大” でしょう。だからこれに “つかえる” わけです。ただその頃も彼は、自分より“小”な人に対しては、徴兵検査場であなたに対してとったと同じ態度をとっていたはずだと思われます。



あなたがすごい落差だと感ぜられたのは、御用聞き氏とあなたの立場が逆転したからで、その人の方ではむしろ、事大主義という原則で一貫しているのです。



ですから、徴兵検査場では、徴兵官に対して、かつてあなたに対してとったと同じ態度を取っていたはずです、そうだったでしょう」。






「そういえばその通りでした」、私はあの時の情景を思い出しながら言った。あの時の場で見た、中佐の徴兵官に対する彼の態度はまさに、もみ手・小走り・ごますり・お愛想笑い、と、自分を認めてほしいという過大なジェスチュアの連続であった。



そしてこの、事大主義にもとづく一瞬の豹変は、日本人捕虜にも見られ、また日本軍による捕虜への扱い方にも見られた。したがって、この “素質” を単位として構成された帝国陸軍が、徹頭徹尾“事大主義”的であったのは、むしろ当然の帰結であり、それ以外のことが望めるはずがなかった。

 

 

 

 

(「一下級将校の見た帝国陸軍」/ 山本七平・著/ 第1章より)






 

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あけましておめでとうございます!

2007年01月04日 | 「心の闇」を解読してみよう
昨年、ルナのブログは「マインド・コントロール」というカテゴリーを設けました。今回はその第一号に当たる記事です。

マインド・コントロールというと、すぐにカルト宗教の教団などをイメージして、おどろおどろしい印象を受けますが、マインド・コントロール自体はひとつの技術に過ぎません。時にマインド・コントロールはスポーツ選手のメンタル管理や、軽度うつ病その他の心理療法でも使われることがあります。しかし、一般にはマインド・コントロールは怖い印象を持って受けとめられています。事実、それは悪用されると恐ろしい威力を発揮します。他人の思惑通りに操作されながら、「自分は自らの意思で、自分の命、人生、財産を放棄しようとしているが、それが幸せで名誉なことだ」と信じ込んでいる自分を想像してみてください。鳥肌が立つでしょう?

そこでまず、マインド・コントロールとは何か、ということについて、この問題では第一級の権威書であるスティーブン・ハッサン氏の著作から引用しておきます。

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マインド・コントロールとは、個人の人格(信念、行動、思考、感情)を破壊して、それを新しい人格と置き換えてしまうような影響力の体系のことである。多くの場合、その「新しい人格」とは、もしどんなものか事前にわかっていたら、本人が強く反発しただろうと思われるような人格である。

マインド・コントロールの技術が、すべてそれ自体として非倫理的であるのではない。重要なのはその使い方である。たとえば、喫煙をやめるのに催眠を使うことは、喫煙をやめたい人のその願いとやめるためのコントロールをあくまでその人自身に任せるならば、つまり催眠治療者の意図、目的が一切介入されないのなら、言い換えれば、催眠治療者の意図的な操作が入り込まなければ結構である。

…マインド・コントロールは、露骨な物理的虐待(=身体的虐待のこと。心理的虐待は含まれていない)はほとんど、あるいはまったくともなわない。そのかわり、催眠作用が(わたしたちがふつうイメージするような、両手を前に伸ばして虚ろなまなざしでふらふら歩くというようなものではなく、「思考停止状態に陥る、あるいは陥らせる」という表現のほうが、ここでの「催眠作用」という語の、より正確な理解です)、グループ・ダイナミックス=集団力学(わたしたちがふだん使う、「集団心理の作用」という意)と結合して、強力な教え込み効果をもたらす。

マインド・コントロールを施されている本人は、直接に身体的危害を伴う脅迫を受けるのではないが(*)、だまされて、心理的に操作されて、教団や国家機関によって決められたとおりの選択をしてしまう。だいたいは、自分に対して行われたことへ積極的に応答してしまう。

(「マインド・コントロールの恐怖」/ スティーブ・ハッサン・著)

(*)エホバの証人の場合は、心理的虐待や心理的脅迫は頻繁に受けます。実を言うと一昔前までは身体的虐待も公然と行われていたのです。広島県でせっかん死事件などがあって、今は子どものしつけについての見解に「調整」が加えられています。せっかん死事件については、ものみの当協会の指導に責任が求められず、協会の指導をバカ正直に実行した親の「やりすぎ」で片付けられたものと思われます。詳しくは、「エホバの証人情報センター」のHPをご覧になってください。あったと思うんですが…(^^)。

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マインド・コントロールは、他人の思惑通りの行動を「自発的な意思で」おこなっていると信じ込ませるところに、その真骨頂があります。自分の生命や財産を放棄するところまで行かなくても、国家の指導党を選択する選挙のときに、実際は国民に不幸をもたらす政策を実施しようとしている人が、あたかも国民にとって救世主のような、なにかパーッと派手で胸のすく政策を行ってくれそうな人という「イメージ」を抱かせ、そのイメージによって多くの浮動票を獲得することに成功するとしたなら、そこにはやはりイメージ創作というマインド・コントロールが行われているのです。イメージによって思考を停止させるのです。

小泉さんや安倍首相下の政権は、TVやキャッチ・フレーズをフルに活用しました。小泉劇場とさえいわれましたよね。安倍さんがなぜ総理に推薦されるようになったか、についてこのような記述があります。

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実は、安倍政権というのも、やはりこれの延長上にあって、小泉元首相が歩んできた道をなぞっていくような形で生まれたのだろうと思います。彼の政治経歴を見ると、議員バッジをつけたのは1993年です。…わずか13年にして権力のトップに躍り出たということですが、自民党の派閥活動で実績を上げたとか、あるいは何か派閥の力学に乗じて権力の階段をのぼってきたというのでもない。ある意味では、確たる実体というものを持っていない世論の人気、大衆人気、それのなせる業が結局安倍政権であったということだと思うのです。

彼がこれまでに経験してきたのはせいぜい内閣の官房副長官であり、それから幹事長、副幹事長、官房長官。それもそれぞれ短期間務めただけでしたから、特別の実績があったわけではない。しかし、その間にTV出演を頻繁にして、特に世間の耳目を引く「拉致問題」を彼が先頭に立って引っ張っていった。そしてお茶の間でTVを通じて人気を高めていった。

(「岸信介と安倍晋三」/ 原彬久/ 「世界」2006年11月号より)



「テレビ国家」をここで暫定的に定義しておこう。

「テレビ国家とは、テレビを中心にしてメディアが編成された現代のコミュニケーション社会において、近代民主主義の政治的代表制をバイパスする形で(つまり政治的代表制を避けて通る形で)、メディアを通して世論の支持をとりつけ、(メディアを通して)権力を正当化することを政治過程に組み込んだ政治権力、そういう政治権力による統治の形態である」。

テレビ国家は、大衆を動員する形で映画やラジオによるメディア支配を行った20世紀前半の全体主義国家のような独裁体制とは異なる。小泉やブレア(英国首相)は「独裁者」と言われるが、それはたとえであって、20世紀的な意味での文字通りの独裁者ではない。テレビ国家は、民主主義の「死」をすぐにもたらすようには考えられないが、民主主義の変質をもたらすものであることは間違いなく、事実、各国でそうなりつつある。

テレビ国家は、小泉の「靖国参拝」にみられるような独特の「捩れた(ねじれた)没論理」をいたるところに持ち、そのことによりかえってTV的な「イメージの論理」に従っている。…実際、近年のメディア化した政治家たちの古典的識字力はどう見ても高いとは人々から思われていない。ブッシュJr.がその典型だが、ベルルスコーニ(イタリア首相)や小泉にしてもまっとうな論理力を疑わせる発言を重ねている。

テレビ国家の政治家たちに求められているのは、綿密な論理能力や知識・学識ではなく、プレゼンテーションのパフォーマンスやコミュニケーションにおけるチャーム(魅力)なのである。テレビ国家においては、文字に書かれた一般的な抽象理念(法の普遍性や平等の原理)よりは、個別の具体例が説得力を持つ傾向が生まれる(一昨年の郵政選挙のように、ひたすら郵政民営化だけを叫び続けた小泉首相のように)。そこから生ずるのは、立憲主義や立法主義の原則をないがしろにする傾向である。

(「テレビ国家」/ 石田秀敬/ 「世界」2006年6月号)より。

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TVは民主主義を変質させ、論理や理念というものを没落させ、イメージによって感覚的に合意や世論を形成してゆきます。「TV国家」の政治家たちは、お茶の間に頻繁に顔を出し、チャーミングな側面をパフォーマンスし、「あの人って親しみやすいな」と視聴者に思わせるのです。その演出にはスピン・ドクターという情報操作のアドバイザーたちのアドバイスを受け、そのパフォーマンスには、メディア・コンサルタントの危機管理を受けている、とのことです(上記「テレビ国家」より)。

このように、21世紀は、TV言語という感覚的で非論理的、反理念的なメッセージで世論が形成されつつある時代であるため、わたしたちにはそれに操られないだけのリテラシー(識別力)が求められています。他人から、宗教団体から、反動的国家から操作されないために、私たちの主権と自由と尊厳が剥奪されてしまわないためにもわたしたちはメディアを積極的に読み解いてゆくスキルが緊急に必要です。ただ漫然とメディアの消費者であってはもはやならないのです。そこで、今注目されているのが、「メディア・リテラシー」です。

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わたしたちはさまざまな情報をもたらすメディアに取り囲まれている。わたしたちはこれらのメディアに日々、接触することによって、今、世の中で何が起こっているのか、国内、世界の状況はどうなっているのかを把握しようとしている。

しかし、このメディアの提供する情報は現実そのものではありえない。わたしたちは無限に存在する情報素材のなかから、特定の基準(あるいは「目的」)にもとづいて選択され、編集され、加工された「脚色された現実」を記事やニュースとして読んだり、見たり、聞いたりしているに過ぎない。社会が現在どのような状況にあり、何が重要な問題であるかをメディアが決定し定義しているというのが、文字通り「現実」なのである。

広告やドラマ、バラエティ、アニメなどの娯楽番組、コミック、ゲームなども、メディアのそのテクストを通してわたしたちに、女性であること、男性であること、豊かに生きるということ、社会とは何か、人生とは何かということまでステレオタイプなイメージを植え付け、定義しているのである。メディアはこのように、わたしたちの社会観や価値観の形成に、いまや深いかかわりを持っている。

このようなメディア社会において、メディアが実際にどのような社会観、価値観をわたしたちに「教育」しているかを分析し、明らかにしていくことは、私たち自身の自己認識や社会に対する認識が、何を根拠にどう形成されてきたかを問い直す契機ともなる。こうしたメディア分析を試みるためには、単にメディアを評論するだけでなく、まずメディア内容を客観的に分析し、そのうえでメディア・テクストがどのような視点や価値観にもとづいてつくられているかを一歩はなれたところからクリティカルに読み解き、意識する必要がある。

メディア・リテラシーとはこのように定義される。
「メディア・リテラシーとは、市民がメディアを社会的文脈でクリティカルに(批判的に)分析し、評価し、メディアにアクセスし、多様な形態でコミュニケーションをつくりだす力をさす。またそのような力の獲得をめざす取り組みもメディア・リテラシーという」。

(「Study Guide メディア・リテラシー 入門編」/ 鈴木みどり・著)

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マインド・コントロールは情報を操作することによっておこなわれます。わたしたちは、いまや漫然とメディアの提供する作品群を受動的に消費しているだけでは、私たちの命、人生を他人の思惑通りに利用されてしまいかねない時代に生きているのです。メディア・リテラシーというスキルは、現代を賢く生きていくための、また自分が豊かに生きてゆくための必須の知識であるといえるでしょう。メディア・リテラシーには基本的な概念が設けられています。今回はその基本概念をまず紹介します。

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【メディア・リテラシーのキー・コンセプト】

1.メディアはすべて構成されたものである。
メディア・リテラシーでおそらくもっとも重要な概念は、メディアが外面的現実の単なる反映ではなく、「つくられたもの」を提示するものであり、それは常に特定の内容を持つ、ということである。

これらの「作品」の成功は、どこからみても自然に見えるところにあるが、実際はそうではなく、製作側の多種多様な決定要因と決断に沿って巧妙に構成されている。技術的観点からみても、優秀な作品が多く、そのような作品にわたしたちが慣れ親しんでいることもあって、「作品」を現実の忠実な描写ではない何かとして見るのがほとんど不可能である。

わたしたちがしなければならないのは、メディア・テクスト(ルナ註:活字、映画、TV、オーディオ等のメディアによるコミュニケーションの作品、のこと)の複雑さを暴き出し、現実と「作り出されたもの」との区別をつけることである。


2.メディアは「現実」を構成する。
わたしたちはみな、各人の頭の中で、世界とは何か、それはどう機能しているか、といったような事柄にかんするイメージを思い描く。このイメージは「構成されたもの」であり、自分の観察と経験から得た感覚にもとづいて構成されている。

ところが、「自分の観察、自分の経験」と思っているものの大半が実はメディアから得たものであり、メディアが前もって態度、解釈、結論を決定している。こうなると実際は、わたしたちではなく、メディアが現実を構成している、というのが実情となっている。


3.オーディエンス(マスメディアの消費者の総称。TVの視聴者、ラジオの聴取者、映画・演劇・演奏の観客、活字メディアの読者など)がメディアから意味を読みとる。
メディアの理解で基本となるのは、わたしたちとメディア・テクストとのあいだで起こる相互作用を意識化することである。わたしたちはメディア・テクストを目にすると、各自、多種多様な要素を通して、そこに意味を見出す。

それらの要素には、
① 個人的なニーズや、
② 不安、
③ その日に経験した喜びや心労、
④ 異人種や異性に対する態度、
⑤ 家庭的背景や文化的背景、
…などがあるが、いずれもわたしたちの情報処理の仕方にかかわってくる。

簡単にいえば、わたしたちはそれぞれのやり方でメディア・テクストから意味を見出し、その意味を「読み取る」のである。したがって、メディア・リテラシーを教える教師や、メディア・リテラシーを身につけた人たちは、生徒たちやメディア・リテラシーの訓練のない他の人々が、それぞれ独自にメディア・テクストを解釈し、経験する仕方を受容しなければならない。そこには個人レベルでのさまざまな背景があるからである。


4.メディアは商業的意味をもつ。
メディア・リテラシーには、マスメディアの制作の経済的基盤を意識化し、それが内容、技術、配給にどのような影響を及ぼしているかを知ることも含まれる。

メディア制作は商売であり、利益をあげなければならない。たとえばTV産業界の場合、番組はどんなものであれ、その視聴者数によって判断されなければならない。米国のネットワークのプライムタイム(放送業界にとって、視聴率の高い時間帯。午後7時から午後11時まで)で放送される番組の視聴者が2000万人を割れば、一般的にいって、その番組の放送継続はむずかしい。

視聴率調査や読者調査は広告主に対して、特定のメディアのオーディエンスに関する詳細な人口統計データを提供する。この知識を得ることで、メディア・リテラシー授業を受ける子どもたちは、番組内容と広告主のターゲットとされている彼ら自身との関係を知ることができるし、また視聴者の集団を市場として販売するやり方も理解できる。

メディアの所有と支配、それに関連する問題についても明らかにされなければならない。カナダや他のいくつかの国では、メディアの所有権が一部の少数の人々の手に握られるという寡占傾向が強まっており、しかも複数のメディア間で所有権の系列化が見られる。この傾向が実際的に意味するのは、限られた数の人々の決定で、どの番組をTVで放送するかが決まり、どの映画を上映し、どの音楽を録音・放送するか、どの問題を調査・報道するかが決まる、ということである。たとえば(カナダの)オンタリオ州の多くの市には日刊新聞が1紙しかないし、それらの新聞はどれも同じ新聞の系列下にある。このような状況では賛否両論のある問題の報道、調査報道にとって多くの支障が生じてくる。


5.メディアはものの考え方(イデオロギー)と価値観を伝えている。
メディア・リテラシーでは、メディア・テクストが含み持っている、ものの考え方や価値システムを意識して拾い出す作業が必要になる。メディア作品はある意味ですべて宣伝である- メディアが生産するもの自体を宣伝しているだけでなく、価値観、あるいは生き方を宣伝している。そしてそれらは一般に既存の社会システムを肯定しようとするものである。

たとえば典型的なハリウッド製TVドラマに含まれているイデオロギー・メッセージをとりあげてみよう。それは北アメリカの人々の目には見えなくとも、開発途上国の人々が見れば明白である。

北アメリカの典型的なマスメディアが伝えているのは、「よい生活」とは何か、豊かさの役割、「消費主義」の利点、女性の望ましい役割、権威の容認、不問に付される愛国心、というような数多くのイデオロギー・メッセージである。

わたしたちに必要なのは、これらのメッセージや価値システムを解読するテクニックである。メディア・リテラシー授業の教師にはメディア・リテラシー・テクニックと価値教育の方法をも知ることが求められている。

*価値観: 個人や社会的集団にとって何が大切で、何が大切でないか、についての信念。世の中の事象を評価し、判断する基準となる。


6.メディアは社会的・政治的意味を持つ。
メディア・リテラシーの重要な側面のひとつは、メディアが生み出す社会的効果および政治的効果を意識させることである。この二つの効果は明確には区別しがたく、互いに重なり合っている。

メディアの効果は、家庭生活の質的変化、余暇時間の使い方の変化といった形であらわれるが、子ども(あるいはメディア・リテラシー講義の生徒)はそのことに気づく必要がある。

マスメディアは価値観や態度の形成に直接的に関与していなくとも、それらを正当化し、強化する役割を果たしている。

メディアのこの役割を知れば、子どもの世界に、なぜメディア作品を消費する集団にはまらせるような、いくぶん強制的なプレッシャーがあるのかということも理解できる。若者はしばしばマスメディアを母体としてポピュラー・カルチャーや友人との関係を規定している。

より広範にみると、メディアは今日、政治の世界や社会的変化と密接につながっている。TVが、主としてイメージにもとづいて国家の指導者を選出する。同時にTVは、わたしたちを市民権問題、アフリカの飢餓、あるいは国際テロなどの関与させてしまう。よかれ悪しかれ、わたしたちはみな、自国の関心事とグローバルな問題のいずれにも深く関与するようになっている。

カナダの人々にとっては、アメリカのメディアによる支配が明らかに(カナダの)文化的な問題となっている。カナダ人としての明確なアイデンティティの確立は今後も困難な問題であり続けるが、メディア・リテラシーのプログラムでも、この問題を挑戦と受けとめて、真剣に取り組む必要がある。


7.メディアの様式と内容は密接に関連している。
子ども、生徒はこの関係を理解しなければならない。その際に基本となるのは、マーシャル・マクルーハンによって理論化された概念、すなわち、メディアはそれぞれ独自の文法を持ち、それぞれのやり方で現実を分類する、ということである。したがってメディアは同じ出来事を伝えても、それぞれに異なる印象を生み出し、そのメッセージも違ったものになる。

8.批評的にメディアを読むことは、創造性を高め、多様な形態で、コミュニケーションをつくりだすことへとへとつながる。
マクルーハンは、「メディア・リテラシーは単にクリティカル(批評的、批判的 *参照)な知力を養うだけでなく、クリティカルな主体性を養うことを目的とする」と述べている。

メディア・リテラシーに取り組む者は、メディアをクリティカルに読み解く知力を育成するなかで、メディアにアクセスしたり、主流にない情報を自らつくりだしたいと望むようになる。それが「コミュニケートする権利」の自覚である。

その権利をオルターナティブ・メディア活動(*)によって実現していくことも、メディア・リテラシーの目標である。主流メディアの模倣ではないオルターナティブ・メディアによる実践が可能になることは、メディア・リテラシーの中心的課題である、「多くの人が力をつけ(エンパワーメントされ)、社会の民主主義的構造を強化すること」につながってゆく。

(*)批判的: メディア・リテラシー教育における「クリティカル=批判的」という語は、日本語のニュアンスにあるような、「否定的に批判する態度・立場にあるようす(岩波国語辞典)」といったようなネガティブな意味合いではなく、むしろ「適切な基準や根拠にもとづく、論理的で偏りのない思考(「クリティカルシンキング 入門編」/ E.B.ゼックミスタほか著)」という、建設的で前向きな思考を指していう。…この(*)部分は(「メディア・リテラシー」/ 菅谷明子・著)より。

(*)オルターナティブ・メディア: 産業的・文化的に優位な立場にある主流メディアに対して、そこでは扱われない視点や、主流メディアの押しつける視点に対抗する見方や見解にもとづいて、自分たちの表現を行ってゆこうとする人たちがつくるメディア。



(「メディア・リテラシー」/ カナダ・オンタリオ州教育省・編/ FCT-市民のテレビの会・訳/
「Study Guide メディア・リテラシー・入門編」/ 鈴木みどり・編)

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テレビから 考えもらう テレビ漬け 

毎日新聞に掲載されている「毎日川柳」に載せられていた一句です。年末のものでした。わたしたちはいま、どんな考えをテレビから教育されているでしょうか。もっと怖いことに、いまや教科書さえ、偏った歴史観を植えつけようとしている時代なのです。

エホバの証人は、エホバの証人のあり方や教理を批判的に読み解くことを禁じます。情報を制限されているのです。ですから、輸血拒否をあそこまで徹底して、貫徹するのです。みなさんはエホバの証人を非知性的な生き方をする人々だと思いませんか。でもそういう情報操作を行うのはエホバの証人だけではありません。いまや国家機関が公然と行っているのです。タウン・ミーティングのやらせがその具体例です。

みなさん、教育基本法のような重要な理念法を変えたければ、いえ、変える必要があったと思うならそれはそれでいいことです。民主主義的な手順を踏んで行ったことであれば。しかし、現実にはどうでしょうか。綿密な議論を積み重ねた結果だったでしょうか。わたしはそうは思いません。あきらかに誤った情報や偏った情報にもとづいており、審議もきわめて非民主主義的な手順で行われていました。わたしたちは操作されているのです。このままこの流れに身を任せていては、私たち自身をイギリス国民の二の舞に導くことになるでしょう。
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