Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

過去の実績からうかがえる不吉な予言

2011年05月08日 | Monologues




阪神・淡路大震災のその後の長い経験に照らして、「公的支援」の手はついに「来ることがなかった」現実を報告しておきたい。



阪神・淡路大震災において露呈したことは、災害で人間としての生存の基盤を失った者に対してまで自助、自立が強制された、という現実だ。政府、公がなすべきをなさないまま、やがて個人は「甘ったれるな」と迫られた。



街の風景、マクロの数字からだけでは、到底、とらえ切れない「格差」、「貧困」、「社会的孤立」が (阪神・淡路大震災で家、財産、家族などを失ってしまった) 被災者を見舞ってきているのだ。再起に到らず、挫折を余儀なくされ、景気回復などとは無縁の被災者。震災がなければ平穏に余生を送ることができたはずの被災者が、独居死、孤独死のリスクのなかに今も置き去りにされている。



災害復興住宅での一人暮らし入居者が誰にもみとられることなく亡くなる「独居死」は、2009年の一年で62人。前年に比べて16人も増えている。2000年からの10年だけで680人にのぼる。8割が65歳以上である。



災害復興住宅以外の一般住宅 (被災地の) も含めた独居死は2009年で524人(神戸市内七区) 、うち自殺60人。60歳以上の人が八割近くを占めている。被災地で確実に進む高齢化、その深刻な姿がうかがえるはずだ。



「独居死」は今も続いている現実である。災害から14年も経た2009年のある日、64歳の男性の遺体が発見されたのは死後五ヶ月のことだった。自治体による見回りの対象は65歳以上。男性はただの一歳違いだった。住民の入れ替え (移動) が多くなり、近所同士のつきあいも減る一方だった。



さらに復興住宅から追い出される者、2000年からの11年で五百数十人にのぼる。なぜ追い出されるのかと言えば、家賃未納が理由である。亡くなってから二日~一ヶ月以上放置されていた人が死者全体の9割に近い。圧倒的に高齢者が占める。震災被害の大きかった神戸市兵庫区、長田区、灘区での自殺率がいまも突出している。



「居住安定支援制度」が2003年末創設された。しかし、資金の使途は被災住宅の解体、撤去、整備などに限られる。住宅の再建そのものへの支援制度はついに生まれることはなかった。あくまで「居住関係費」に限定されたままだ。




この点を、今回の東北地方複合大災害において改善は期待できるのか。

 





「一定の環境条件を満たした住居に住む権利は、人間としてもっとも基本的な生存権」だと、国連人権規約第11条 (「社会権」規約) は定めている。この精神も条約も日本では遵守されることがない。阪神・淡路大震災の被災地ではいまも真の復興はなっていない。



その阪神・淡路大震災の直後、被災地で流されたものは「糾弾よりも救援を」の声だった。誰が悪いと糾弾するのではなく、まず「苦しむ被災者を救援する行動を」というものだ。「海外メディアは沈着冷静な日本人に驚嘆している」、「さすが日本人」と、あのとき(阪神・淡路震災時)もメディアは伝えた。いま、そっくり同じ文字、同じ言葉が、メディアに躍る。



被災者ならば、当事者ならば、この空々しいエールに心躍らせているだろうか。いや、まさにそういった災害に見舞われなかった地域の人びとの騒ぎとはうらはらの、苦しく、長く、つらい時間が、今から始まることをうすうす感づきはじめているに違いない。

 

 




「巨大複合災害に思う」/ 内橋克人・著/ 「世界」2011年5月号より



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最後の文章の主語は阪神・淡路大震災の被害者ではなく、今回の災害の被災者です。



ちかごろの日本はやたらと「前向き」、「自助自立」、「自己責任」が美徳であるかのようにこれみよがしに話される。上は小泉純一郎さんを筆頭に、下は曽野綾子や「たかじんの委員会」系の狭量な右派言論人などにいたるまでが、それらの標語を謳う。
 


彼らが言う「前向き」とは問題の真相から目を背けることを意味しており、彼らが言う「自助自立」は人間とじっくりつき合ってゆく能力の欠落した現代人の、他者への無関心という本音を隠す方便を意味する。
 


たとえば、ある人間の集団で「長(おさ)」の立場の人が、若い有能なニューフェースに過酷なイジメを加えているとする。解決するにはその「長」の「長」としての資格を問い、いったんその地位を降りてもらうほうがいいというのが問題の本質なのに、自分もその若い有能な新人にねたみを覚えるし、人間関係に波風を立てるのもなんだし、ここは有能な若者に大人になってもらって、「身の程をわきまえてね」という暗黙のメッセージを送るために、「くよくよしていないで、もっと前向きに考えなよ」と助言する。「長」に原因があるのに、その本質から目をそらすために「前向き」が言われるのです。そして自分は到底あなたの側に立って、真の正義を貫く気持ちはないけれど、そんな嫌なホンネを隠したいから、大人なら自立して、自分の救いは自分で達成してね、というのが「自助、自立」の意味なのです。
 
 
 



「第一の災いは終わった。見よ、第二の災いのラッパが吹き鳴らされようとしている」。聖書の黙示録にはこんな一文があるが、それは今回の災厄の被災者たちにも当てはまる可能性が高い。わたしたち日本人のメンタリティが、阪神淡路大震災のときとほとんど変わっていないのであれば。今年はGWにボランティアで東北へ行った人が多かったようだが、来年、再来年、そのまた来年にも、同じくおおぜいの人がGWに被災地にボランティアに行ってくれるだろうか。阪神淡路大震災が明らかにしたことは、家と家族と職を失った人は、そう簡単に丸く収まったりはしないということだ。長い長い援助が根気強くさしのべられることが必要である、と言うことだ。だが、この国は、政府としても自治体としても、国民一人ひとりとしても、それを行わなかった。「行わなかった」と現在完了形で言ったのは、多くのひとが衰弱して孤独死し、あるいは生き延びたことに絶望して自殺したからです。
 


たいていの人は、自分は人間的にきわめて優れているわけではないが、そこそこふつうの人間で、どっちかと言えばうまくいっているほうで…と自己満足していらっしゃるでしょう。みんな基本的にはいい人なんだよ、自分は人間について悪いほうには考えない、と言うでしょう。たしかにひとりひとりはよきパパ、よきママ、よき友だち、よき隣人でしょう。
 


しかし、阪神淡路大震災の被災者がまっとうな支援を受けられずに死ぬにまかされてきたのは、そんなよき人々の集合であるこの社会で起きたのです。全国の人にもっと身近な例でいうと、イジメにあっている人などが自殺したりするこの社会は、そんなよき人びとの集まりなのです。



ねえ、ちょっと聞いていい?


「いい人」って、結局どんなひとなんですか? ただ単に自分にとって面倒にならないひと、自分とよく似た考えかたをするひと、っていうことでしょう。それって、本質は自己中心的っていうことじゃないでしょうか。わたしのこの見方は、「前向き」じゃないですよね。つまり、ふつうは考えるのをスルーされている問題を、あえて突っ込んで明るみに引き出すのは。カルト後遺症のひとたちは、こういうことを嫌がります。問題の真相からは目をそらせておいて、ネットのなかで、「理想の自分」を演じてご満悦なんです。問題の真相にあえて触れると、「やりすぎだ」とか「思いやりがない」とか言いますが、思いやりがないのは自分なのです。わたしはこの点では、「前向き」になれないです、阪神淡路震災被災者の悲劇と不遇を知ると。みんなが目を背けたがる現実にあえて注意を向けさせる。
 





現に、とくにTVのニュース番組では、やたら、「前向きに生きている」人々の映像ばかり流されるような気がします。マスコミはもうまもなく、被災地の取材から、それこそ潮が引くように撤退をはじめるのではないでしょうか。さあ、それから地獄の第2ステージがはじまる。中高年になった人びとのうち多くが職に就けない日々を長くするでしょう。そのひとが家と家族を失ったひとであれば、もうすでに「独居」人なのです。
 


もしもわたしたち日本人のメンタリティが、阪神淡路大震災のときとほとんど変わっていないのであれば、今避難所にいる人びとのどれほどが孤独死を遂げるのでしょう。自殺者は何名にのぼることでしょう。
 


日本人よ、もっと優しくなろうよ。もっと人間らしい思いやりを持とうよ。なぜそんなに他者の不運に冷淡になれるの? それは自分にのしかかる漠とした不安に、自分自身がまず打ちのめされているので、他者の不運で、「自分と同じだ」いや、「自分より不運なひともいる」という形での安心感を必要としているからか。実は、そうやって他人に冷淡でいることが不安をいっそう大きくする。団結するんです。人と人とが結びつくんです。そのためにも、自分と相手とどっちが上か下かという内心での競争から降りましょう。社会というのは、個々人が結びついた状態のことを言うのですから。
 


お願い、今回の被災者に対しては、復興住宅の家賃は取らないで上げて。半永久的に住まわせてあげて。自分中心的な要求を被災者に推しつけないであげて。右よりの皆さん、弱いものいじめは偉大な国民のすることじゃないですもんね? 外国のメディアは、「真の復興が今もなおなされていない」阪神・淡路大震災の被災者の現状を知ったとき、それでも、「沈着冷静な日本人」、「さすが日本人」と言うでしょうか。言わないと思う。同じ日本人のわたしでも、現代日本人は人間としての重要な部分が壊れている国民じゃないかと思うから。

 

 

コメント (3)
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