Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

「青空の翳り」

2019年03月27日 | 脱アダルトチルドレン!自由に生きる!

 

 

 

 

うらうらに 照れる春日に 雲雀(ひばり)あがり 情(こころ)悲しくも 独りおもえば

                                            大伴家持・作 万葉集

 

 

--------------------

 

 

 

作者はなにを思い悩んで悲しんでいたのかは知らないですが、

2019年3月27日の春の陽気と柔らかな色の青空をみていると、

わたしはふと寂しくなりました。

 

気持ちはいまでも若いつもりですが、

年齢を重ねて、今は、やがて自分も死んでゆくんだということに気づくからです。

太田裕美が「青空の翳り」という歌で歌ったとおり、

春の空は、ひとに寂しい気持ちを起こさせる。

 

ちょっとした病床に就くと、生計を立てるためだけに生きていることが

どうにも耐えられなくなる。

悔いのない人生をおくるためには、

わたしはもっともっと余暇が欲しい。

生きている間に読んでおきたい本が山ほどある。

そんな暮らしができるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会をディストピア化させようとする現代人たち

2009年05月23日 | 脱アダルトチルドレン!自由に生きる!

わたしは改めて、太陽の下で行われる虐げのすべてを見た。
見よ、虐げられる人びとの涙を。彼らを慰める者はいない。
見よ、虐げる者の手にある力を。だから虐げられる者たちには慰める者がいない。

(「伝道の書」/ 聖書/ 新共同約/ 一部ルナによって加筆)

 
*ディストピア:ユートピアの反対 



「安穏」さんという、「unknown」をもじったと思われるHNの方とのやり取りがいま続いているのですが、とうとう今日はルナも切れちゃったんですが、そこで感じたことをつれづれ、書きます。


つきつめてゆくと、人間はみな孤独です。生まれてくるときから、人間はひとりの人に一つの意識を与えられています。そしてその人の意識がどういう状態にあるかなどということは、たとえその子を産んだ母親にさえ、完全に理解することはできないのです。さもなければ、お母さんは、赤ちゃんを泣かせたままにすることはないはずです。赤ちゃんの泣くのをなかなか止めることができない、ということは、人間はみな、自分を完全に相手に理解させることが不可能であるということを示しているのです。

人間はみな、基本的に孤独であるからこそ、人間とつながろうとします。孤独を癒すものは、自分への正当な評価であり、自分を受け容れてもらうことです。ですから、人間は自己中心的な人、一方的に押しつけてきて、こちらのことを受け容れてくれず、それどころか否定してしまうような人間を避けるようになります。そういう人とは人間関係を持とうとは感じられないのです。なぜなら、そういう人と人間関係を持っても、孤独を癒すことができないからです。孤独を癒すには、否定ではなく肯定を、見下しではなく良い面への注目=プラスの評価を必要とするのです。

相手に対し、否定的、侮辱を加える仕方で接する人=高圧的に接する人は、相手の人格的存在、人格的価値を低めることで、優越感を得、その優越感により、自分の存在に意味を見いだそうとするのです。その人は孤独を癒すのに間違った方法を取っています。そんなことをしていれば、人から遠ざけられて、かえって孤独を深めるだけなのです。しかも、その人が、たとえば地位にともなう権力を使って相手の人を低める作戦を、集団の中で行った場合、低める対象となった人間は、人格的価値を公然と否定され、執拗に否定されることにより、自分への自信を失ってしまいます。物理学的作用ではありませんが、心理的な作用ですが、こういう力の作用は現実に存在します。これを、心を傷つける、と言います。

自信を失わされた人は、以前のように屈託なく人生に取り組むことができなくなるかもしれません。あるいは人間に傷つけられることへの恐怖から、引きこもるかもしれませんし、逆に、自尊心が不当に低められ、しかもそれを正すことができない力関係に怒りと恨みを抱き、暴力的な生き方を選択するようになるかもしれません。



たいていの場合、人を不当に低める立場の人たちは、つまり権力(=他の人びとを従わせる特権)を自分たちに集中させている人たちです。そういう人たちは、その不当に人を傷つけ、低める特権を正当化し、自由に使用する社会的な仕組みを作りあげています。

その仕組みには、「伝統」といった権威がありますし、伝統にもとづいた道徳があります。道徳は自動的に「よいもの」と思わないでください。人間が人間を不当に支配する仕組み・考え方の枠組みが「道徳」として権威づけられている場合が多いからです。また人間と人間を分断するための身分制度や序列制度、性差別なども「正当な」道徳的権威を与えられていることも多いです。不当な強制でも、年長の者や家督の男子からの命令であったなら従うのが道義的正義とみなされたり、国家のために国民の生命・財産を放棄するのが美徳とみなされたり、etc...。道徳というのは「良きもの」では決してないのです。

むしろ道徳は人間を支配するための心理的な枠組みです。法律のように論理によって裏づけられてはいませんが、よく理由が解からなくても、道徳だから、日本人だから、ということだけで従わなければならないもの、とされるのです。

このような強制的な力にもとづく社会的な仕組みがなぜ、いつの時代にも慕われることがあるのか、というと、そういう枠組みによって人間関係が「自動的に」仕立てられるからです。

縦の序列が無条件に受けいれられていれば、親方と弟子、父親と妻と子どもたち、上司と部下をなど、人間関係が容易にできあがります。そういう縦の序列が道徳的に良いものとして受け容れられている場では、相互的なコミュニケーションによって人間と人間を結びつけるための粘り強い、また面倒な努力をしなくてもいいのです。

序列が伝統であるということで、親方は弟子を、父は妻子を、年長者は新参者を従わせることができるのです。それぞれ親、子、妻、親方、弟子、教師、生徒、という、「分」あるいは「本分」と呼ばれる役割を果たすことが道徳的によいことであり、「本分」より以下でも以上でもなくふるまうことが道徳的に良いことであるなら、有能な親方、有能な上司、有能で愛情深い父親、有能な教師となる努力をしなくてすむのです。その立場、地位に人を従わせる力が備わっているからです。

逆にいえば、立場や地位に座ってさえいれば、理不尽な支配によって人を必要以上に低め、侮辱し、排除させるようなイジメ行為や、心身両面への虐待行為をしてもなお、支持と尊敬を受けることを、被支配者たちに要求できるのです。これが集団主義の魅力と映るでしょう。



集団主義には静かな落ち着きのような雰囲気があります。しかしその静けさは、「被支配者の抗議が抑圧されている」静けさであり、がんじがらめに束縛されているがゆえの落ち着きなのです。人間関係を営むのに、理解してもらい、理解する、民主主義的な、対等な関係に立ち、譲歩と要求という交渉によって打ち立ててゆく、コミュニケーションというダイナミックなものがないことが、集団主義、全体主義の人間関係を静かなものにしているのです。そして、そういうダイナミックなコミュニケーション・スキルが未熟な人たちが、こういう集団主義的→全体主義的な関係の社会を望むのです。


エホバの証人に嫌気がさしてやめてきた人たちの一部が、右翼的な団体に加入したりするようになるのは、おそらくこういう理由でしょう。エホバの証人という、まさに家父長制の純粋な集団主義社会で育ってきた彼らは、人の気持ちに配慮したり、言うべきときに毅然と交渉するということができません。コミュニケーションスキルが育っていないのです。つまり相手の気持ちになって考えてみるという精神態度が十分に育っていません。だから権力に迎合しやすく、強いもの、序列と枠組みの堅牢な集団主義的な体制を捜し求めるのです。自分の要求を通すのに、道徳や枠組みというハードによって無理やり通す方法に頼ろうとするからです。




*補足
「あたしは母親として、一生けんめいやってきた。それなのに子どもはわたしのいうことを聞かず、悪い仲間といっしょになって、こんな犯罪をしでかしてしまった…」

 りっぱに自分の役割をやってきたつもりでしょうけれど、それはいわば、集団主義社会の用意した母親像をこなしてきただけだったのです。エホバの証人の世界でもそうですが、全体主義社会では、母親はこうすべき、父親はこうあるべき、子どもはこうあるべき、男子はこうあるべき、女子はこうあるべき…といった、決められた「像」があるのです。その「像」をりっぱにこなすことが道徳的に善とされています。

 しかしそこには、相手がどう思っているのか、人間はどういう感想や感じを抱いているのかということは考えません。相手の意向に耳を傾け、相手の気持ちをも拾い上げてゆこうという心の姿勢がないのです。そういう家庭環境では、子どもは、実は親が期待するのとは異なる目標を熱望しているのかもしれませんが、子は親に従い、親に服することが「道徳」、「道義」とみなされる社会では、「…すべき」が絶対的に要求されるのであり、「個人としては…したい」ということは「わがまま」、「自己中心的」とかみなされてしまいます。

 こういう点から見ても、集団主義社会の思考枠は非人間的であり、個人の内心の自由など集団の結束を維持すると言う目的の前には一顧だにされないのです。冒頭のような仮の例のようなことが起こるのは、子どもに「…すべき」を押しつけ、また母親として「すべき」役割を果たすことしか考えなかったため、両者に気持ちのふれあいがなかったのです。だからこの母子はまったく理解しあえないのです。

 個人主義の考え方では、まず、相手がほんとうはどう思っているのかを知ろうとします。個人主義社会では母は、子は、男子は、女子は、それぞれ「…すべき」という枠組みを否定します。人間は個人として尊重されるので、人それぞれ異なっているのは当然なのです。ですから、相手がどう思っているのか、そして自分は本当はどう思っているのか、それを両者の間でつまびらかにして、オープンに協議します。親と子であれ、人間同士の対等の協議を行うのです。だから気持ちが通じるのです。良好な人間関係というのはつまりは気持ちを通わせることなのです。

 未成年による「凶悪事件」が起こるたびに、戦後民主主義教育が間違っていた、という言説が右翼から話されますが、正反対なのです。民主主義的なオープンな話し合いが行われておらず、伝統的な役割を有無を言わさず押しつけてきたことが子どもたちの気持ちを荒ませてきたのです。集団主義社会は、「…すべき」を押しつけ、「…したい」を抑圧するものです。この点で、それは非人間的な管理である、と言えるでしょう。

 日の丸訴訟の問題もここに原因があります。個人の尊重と言う原則を、じつは真っ向から否定したい集団主義者たちの反動的巻き返しが問題の全体像なのです。日本人が「すべき」だと旧憲法時代に教えられていたことを絶対視し、旧憲法体制の過ちに向き合いたい、という市民の「…したい」は抑えこまれるのです。抑えこまなければならない、というのが集団主義の考え方です。ちょっといまやっている議論に戻ると、それは、「安穏」という方や、同様の意見の人たちの、個人の主張がある場合に集団にとって危険で脅威になる、とぬけぬけと言ってのけることにありありと表れており、それこそ個人を尊重するより、集団の結束を最優先させるファシストの発想そのものなのです。そして腹立たしいことに、そういう人たちが、学歴を積み上げ、日本をリードしていこうとしているのがいまこの時代なのです。(補足終わり)



ですから、集団主義は人間を痛めつけることはあれ、向上させたり、有意義な人生を送れるような環境を与えたりはしてくれません。集団主義は、あるいは政治的な政策として採られる集団主義=全体主義は、一部の少数者が多数の人間を搾取し、消耗する、非情な支配のための仕組みです。日の丸・君が代弾圧事件に見られるように、人間の個人的な感受性や考え、個人的な好みも、集団の結束を維持する道徳上の規律や秩序を弱めてしまう危険なものとみなされるなら、それは否定され、強制的に排除されるのです。その社会で生きる場から出て行け、と言うようなことを堂々という仕組みなのです。

集団主義では、集団に所属する個々人の権利や福利は集団が賦与します。ですから、権利や福利の要求は、集団の許容する範囲内でしか認められないのです。また、集団によって権利や福利が与えられるということは、集団の結束力がゆるむと、権利を与える能力も弱まることになります。集団主義社会が規律だの秩序だのを重要視するのは、集団内の人びとの権利・福利が集団によって与えられる仕組みだからです。明治憲法の権利規定がそのようなものでした。



一方、日本国憲法の人権規定は、個人主義にもとづきます。「すべて国民は個人として尊重される」のです。集団の一員であるあいだは尊重される、ではないのです。権利は憲法によって与えられており、個々人が自分でそれを守り、自分で主張して行くのです。そのためにはコミュニケーション能力が求められます。相手の自分との利害を調整し、お互いが納得のゆく第三の道を探り出す。こういうことを可能にするのは、コミュニケーション能力です。コミュニケーション能力とは意思を疎通させること、気持ちの交通です。自分の意向と相手の意向を両方とも立ててゆこうとするものです。

集団主義社会では、地位にともなう権力が有無を言わさず人間たちを従わせます。そこでは身分制や序列制度、家父長制度といった、有無を言わせず人を従わせる制度によって、人間関係がつくられます。立場や地位、性別などによって、それぞれ役割が定められており、それぞれの立場の人はその役割以上でもなく以下でもない仕方で行動することが美徳であり、善であり、義務なのです。いわば社会での人間関係は、立場にともなう役割をこなすだけで成立したのです。相手と意思を疎通させなくても、立場や地位に座れば自動的に人間関係が成立したのです。



例をあげて考えてみましょう。個人主義に立つと、人間関係はコミュニケーションによってつむがれてゆきます。不誠実なコミュニケーションが行われると一方が他方を傷つけてしまいますが、誠実なコミュニケーションが積み重ねられてゆくと、そこには信頼が生まれます。信頼は尊敬という感情の土台です。誠実なコミュニケーションによって、信頼や尊敬が醸成されてゆくのです。「醸成」ということばを選んだのは、信頼や尊敬は一方が他方に要求したところで一朝一夕にできあがるものではない、と言う意味を伝えたいからです。信頼と尊敬は誠実なコミュニケーションを地道に根気強く積み重ねてゆくときに、ちょうどお酒が蒸留されてゆくようにして徐々につくりあげられてゆくものです。

ところが、厳格な伝統に裏づけされた身分制度や階級制度、そのほかあらゆる序列制度によって人間関係がつくられる環境では、「長」の肩書きを有した者がヒラの成員に尊敬を要求するのです。そしてヒラたちは互いに牽制しあって、敬語の言葉や恭しいあいさつなどの態度によって尊敬の証拠をいつでも示すようになります。そうしなければ命さえ奪われる社会もありました。戦前の日本でしたら、天皇は戦争責任を取れ、とデモを行うと、特高警察につかまって、小林多喜二のように性器への拷問を受けるというような身の毛もよだつ方法で殺害されます。

もちろん、ことば遣いや腰のまげ方などの外形的な態度だけでは、本心から尊敬しているかどうかはわかりません。猜疑心の強い独裁者なら、そういう不安から、無理難題な命令や要求を出して、配下の人びとがそれに従うかどうか試したりします。

エホバの証人が時折、締め付けを強くして、高等教育をうけること、二十代で結婚すること、子どもをもうけることなどを禁止同然にしたりするのは、裏にはそういう動機もあるんじゃないかと、わたしは、自分のエホバの証人時代後期にはひそかにそう考えていました。

話が逸れそうですが、集団主義→全体主義の社会での人間関係はこのように、力で人間関係がつくられてゆくので、ぎごちなくて息苦しい人間関係になります。

こういうような人間関係、つまり、立場や地位によって自動的に人間関係が営まれるためにはルールを用意し、厳密に守られる必要があります。年下の者は年長の者にたとえ年長者が明らかに間違っていても、口ごたえせず、絶対に服せねばならず、女性はその能弁によって男性を論破してはならず、部下も上司に無条件に服従しなければならない、そういう序列の決まりやマナーが定められ、それを厳守しなければならないのです。いろんな習慣やマナーや規律が作られ、それを守るよう要求されます。さもなければコミュニケーションに拠らない人間関係は維持できないのです。これが集団主義の人間関係です。

ただそこでは感情や自由な意思表明が抑圧される代わりに、争議、論争、対立などは存在しません。そして実はこの点が自己評価の低い人間たち=自分に自信が持てない人たちには「平和な人間関係」のように映るのです。

カルトの本質はファシズムであり、ファシズムは全体主義を性質として有しています。したがってカルトは全体主義社会です。そういうカルト宗教に入団する人には、こういう見せかけの平和に惹かれていることが多いのです。しかしそれは平和ではなく、人間性の否定なのです。感情や自由意志が抑圧させられているから争論がないのです。人間社会に争論や対立がないというのは実は不健全なことなのです。

一方、個人主義社会では、個々人の意思を交渉の場で明らかに提示することにより、個別に契約を結んだりして、対等な立場で、人間関係は創りだされるのです。そこでは活発に議論が交わされ、時には激しい対立も起こります。しかし、「戦争・殺し合い」という手段が憲法によって禁じられているなら、争論は怖れる必要はないのです。そしてこの、「意思をオープンに提示して両方が納得に行く方策を新たに創りだす」という手順はそのまま民主主義の手法につながってゆくのです。

一方それは、コミュニケーションが下手では個人主義社会では生きてゆけないかもしれないと、そういうこともありうるということです。現に、コミュニケーションが下手なためにいつまでも独身でいる人がいますし、コミュニケーションをとろうとする誠実さがないために、結婚関係を続けることができず、離婚してゆく人もいます。コミュニケーション能力で人間関係をつくり、維持していくということは、集団主義的手法に較べると手間と工夫と譲歩が求められる、面倒なものです。しかし、自由と民主主義はそういう手順を丁寧に踏んでゆくことで達成されることなのです。



…こういう、集団主義的な、力によって人間を萎縮させ、搾取するような仕組みではなく、すべての人が自分の言い分や要求を最大限に通し、しかも自分とは利害が対立する相手側の要求も最大限通せるような仕組みが捜し求められ、それを近代民主主義のうちに包摂しようとしたのが20世紀後半の西側世界の挑戦でした。



しかし、アメリカの経済学者たちの一部が打ち出した新自由主義的な考え方に沿って、アメリカがマネタリズムに走り出すようになってから、利己主義が大手を振ってまかり通るようになりました。変動相場制に切り替わってからドルが過剰にあふれ、バブルが波のように周期的に世界各地を襲う現象が見られ、バブルがはじけるたびに労働者たちの生活が深刻な打撃を受けるようになりました。そんな景気の変動によって暮らしの安全が左右される、非常に不安定な社会に長年暮らしていると、人びとはより安定した社会、動揺の少ない堅牢な社会を希望するようになります。ここへきて再び、集団主義社会への回帰が始まったのです。

また財界も、労働者の抗議や、経営が労働者への保護的な政策によってがんじがらめにされるのを嫌う気持ちから、国家主義によって労働者に「身の程」という「本分」内で満足して生きろ、という暗黙のメッセージをこめて、国家主義を煽る動きを見せ始めました。歴史には色々皮肉があります。ヒトラーとスターリンの協定もそうでしたが、グローバル経済推進者たちが、排他的な国家主義者と結びつく、というのもグロテスクな組み合せです。一方の極端から他方の極端へと世の中は振り子のように振り回されています。現実の状態としては、経済政策は政府が行うことで、国民は提言や監視くらいしか関われません。

しかし、地域の暮らし、地域社会ということになるとわたしたち個人個人もできることが大いにあります。わたしたちにも今すぐできる重要なことのひとつに、コミュニケーション・スキルを身につける、ということがあります。わたしたちがコミュニケーションによって人間関係を築けるようになれれば、集団主義的な、身分制度や家父長制度の道徳的な掟によって人間をしばりつけて人間関係をつくるのではない、より自由で、意思的で、意思的というのは自分で自分の人生をコントロールできる自由意志的、と言う意味で使ったのですが、そういう活き活きとした自由な人生を享受できるのです。またコミュニケーションによって人間関係ができれば、そこには愛情とか、思いやりとか、相手の立場に立つ視点が生まれますから、経済的に苦しい時代が来ても助け合いによって、地域全体が有機的に結びついて危機に対処するでしょう。「有機的」というのは集団主義的社会の、規律や道徳によって意志に関係なく動かされる仕組みではなく、他者への関心や配慮といった、人間らしい愛情にもとづいた社会の結びつき、という意味をこめて使いました。


こういう気持ちから、コミュニケーション・スキルをまとめるカテゴリーを立てました。「脱アダルトチルドレン! 自由に生きる」というカテゴリーです。カテゴリーばっか増やしても、書くことがなかなか追いつかないのですが、元エホバの証人のような人たちや、ネトウヨのみなさんもおそらくは人との関係を作り、維持するということが下手だろうとうかがわれるので、 (なぜって、人間関係で満足しているなら、匿名で荒っぽい思想をうっ憤晴らしのようにばらまくようなことはしないでしょうから。人に対してもっとやさしくなれるでしょうから、ね) きっと役に立てる知識をご紹介してゆこうと計画しています。参考にしていただければうれしいです。なによりも、コミュニケーションによってつくられる人間関係の温かさ、豊かさ、自由さというのを感じてもらいたいです。こういう草の根的な地道な努力が、アメリカ追従に乗っかって憲法改正へと至る反動化を防ぐ強い力となると思います、というか、なってほしい。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする