不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

「凶悪犯には死刑を!」の深層心理

2007年12月23日 | 一般
大阪府知事選に、死刑執行を急ぐ橋下弁護士(*)が立候補することになりました。橋下氏の言説と行動には共感を示す声は非常に多いことをわたしは知りました。今回は、ちょっとこの厳罰化擁護論の深層を調べてみました。

(*)光市事件弁護団最高裁欠席についての関連記事はこちら

--------------------------

ただ、ひとつだけ不思議なことがある。それは、この「被害者やその家族に配慮しよう」という動きは、なぜか「加害者の人権には配慮しないでおこう」という動きとセットになっている、ということだ。

単純に考えれば、被害者や家族の心情に思いをはせ、なんとかしたいと思う豊かな想像力や繊細さがあれば、「なぜこんなことをしたのか、今はどういう気持ちなのか」と加害者やその家族の心情にも想像が及ぶはずなのではないか。

ところがそうではなく、「被害者を思う」ということは「加害者は思わなくていい、思ってはならない」ということと連動しているのだ。




とくに少年事件の加害者に対して「厳罰化」を求める声は大きく、この動きを受けて、2000年には刑事罰を加える年齢を下げるなど、少年法の一部改正が行われた。現在(2005年)も、より厳罰化の方向へと検討が行われている。

京都医療少年院で、長く「罪と病」という二重の試練を背負った子どもたちのケアにあたってきた精神科医・岡田尊司氏は、その著書『悲しみの子どもたち-罪と病を背負って』(集英社新書、2005年)の中で、問題は決して「厳罰化」だけでは片づかない、と強調する。

大人も息を呑むような犯罪を犯し、反省のそぶりさえ見せない、こういう子どもは「回復不能の冷血モンスター」と捉えられがちだが、岡田氏は「そうした子どもに実際に会ってみると、『冷血』とは正反対の、気弱で過敏な子どもであることが多い」とした上で、こう言う。

「どうして、この子にあんな残酷なことができたのか、そんな疑問をもって、子どもの気持ちに向かい合ってゆくと、必ず浮かび上がってくるのは、その子自身が、気持ちを汲み取ってもらえずに、大きくなってきたという状況である。大人の身勝手や社会の醜さによって、傷つけられ、壊されてきた道のりである」。

そこで起きた結果だけを厳しく咎めたところで、「原因の部分に手当てを施さなければ、悲劇を本当に防ぐことにはならない」と少年犯罪現場の臨床家(香山氏もそのひとり)は訴える。


(「いまどきの『常識』」/ 香山リカ・著)

--------------------------

「その子自身が、気持ちを汲み取ってもらえずに、大きくなってきたという状況である。大人の身勝手や社会の醜さによって、傷つけられ、壊されてきた道のりである」…

一般の人々はここの点をなかなか理解しようとしません。

「そういうことはその子だけの問題じゃない、みんな多かれ少なかれ親によって傷つけられる経験はしている、子どもを傷つけてしまわない親なんて一人もいない、なのにその子は空恐ろしい犯罪を犯した、他の多くの子はそんなことをしないのに。だから問題はその子自身にある、甘えか先天的な異常か、何かその子独自の欠陥があるのだ」…というのがおおかたの感想です。

こういう人々は、その子だけがおかしいと主張する根拠として、

「むかしはそんな凶悪な事件を起こす子どもは今ほど多くはなかった」と言います。

これはウソです。

--------------------------

ここでひとつ、ある事件の記事を紹介します。



「母親から叱られたのを根に持って、夕食の雑炊に亜ヒ酸を混入して、妹ふたりを殺した三女エツ子(15)-仮名-は、12日朝大牟田市署の取調べに、犯した罪のこわさも知らぬような笑顔で次のような犯行動機を申し立てた。

…(中略)…

同女は大牟田市立新制第六中学2年生で、成績も中以上でバレーボール、卓球の選手だが、放課後練習し、帰りが遅れると、母は遊んでいたのだろうと平手でなぐって叱りつける。犯行の前々日にもなぐられたので、この上は一家みなが死んだ方がよいと決意、小屋の中に隠してあった殺虫用亜ヒ酸を5日の日曜日に探し出しておいたが、6日の朝も叱られたので、いよいよ決行しようと雑炊に混入した」(1948年12月13日付け毎日新聞西部版)。



この事件は、もし今の時代に起こったら、たいへんセンセーショナルな報道がなされるだろうことは想像にかたくありません。(旧)教育基本法を攻撃したい人が飛びつくであろう事件です。

しかし、実はこの事件が起きたのは、1948年12月6日、敗戦3年後なのです。この少女は1948年に15歳ですから、1933年生まれ、国民学校で少国民教育を受けた世代です。最近の少年犯罪が(旧)教育基本法のせいだというなら、この事件は教育勅語のせいだとでもいうのでしょうか。

要するに、こうした少年犯罪と教育そして(旧)教育基本法との相関関係は単純に言えるようなものではない、ということです。かつて起きた事件と似た事件は今でも起こりうるし、現在の事件もそうめったに「前代未聞」のものとはいえないのです。

むしろ、わたしたちが注意しなければならないのは、こうしたショッキングな事件を持ち出して教育を論じようとする人たちが、何を目的にそうしているのかということです。


(「教育と国家」/ 高橋哲哉・著)

--------------------------

この文章はすぐる一年前、強行採決によって「改正」された教育基本法を擁護する目的で書かれたものですが、今日のエントリーでは教基法のことをは棚上げします。論点は、「むかしは今より犯罪は少なかったか」ということです。この文章では特に少年による犯罪に注目しています。

1948年というと、その頃に生まれた人々は来年2008年で還暦を迎えます。死刑などの極刑によって犯罪を抑制できると主張する人々はそれよりずっと若い世代です。ですからそれらの人々がいう「むかしはもっとよかった」という時代は1948年以降のことでしょう。著者の高橋さんは、戦後の少年犯罪の発生件数のデータを紹介しておられます。

それによると、
① 少年による殺人事件は1946年から1969年まで200件以上発生していた。
② 1970年に戦後はじめて198件となり、200件を割った。
③ その後、70年代前半に激減し、75年についに100件を割り、95件に減る。
④ 75年以降現在(2004年)に至るまでほぼ100件前後で推移している。
⑤ 戦後、少年による殺人事件が多かった時代は、
  1951年が448件
  1954年が411件
  1959年が422件
  1960年が438件
  これ以降、現在に至るまで少年による殺人事件は際だって減少してきている。
⑥ 戦前については、
  1936年、153件、
  1937年、155件、
  1938年、161件、
  1939年、123件、
  1940年、146件、
  1941年、107件、
  1942年、126件、
  1943年、 94件、
  1944年、 97件、
  1945年、141件…
…とこの時期はほとんど毎年100件を越えている。戦前の日本の人口が現在の約三分の二であったことを考えれば、人口比の発生率は戦前の方がもっと高い…

…ということです。つまり、むかしはもっとひどかったのです。ではなぜ事実を確かめもせずに、短絡に「現在はむかしより悪くなっている」、というのでしょうか。それは高橋さんの言葉を使えば、「ショッキングな事件をことさらに取り上げて、何かの目的を達成しようとしている」ということです。高橋さんのこの著作では、教育基本法を反動的に改定しようとする意図を暴いていますが、このエントリーでは「刑罰を厳しくし、国民への監視を強化したい」という意図に注目します。

新自由主義を強力に批判し続けるルポライターの斉藤貴男さんが好んで引用するある小説の一節がわたしにはとても印象深く残っています。それはこういうものです。

「飛行機の速度=0なら、飛行機は飛ばない。
 人間の自由=0なら、人は罪を犯さない。
 これは明白である。
 人間を犯罪から救い出す唯一の手段は、
 人間を自由から救い出してやることである」
(「われら」/ ザミャーチン・作)

安全を求める日本人の要求は、人間から自由を奪い去ることで犯罪を減らそうとするのですが、それは経団連をはじめとする独裁的企業層の狙いとピタリ一致する、と斉藤さんは訴え続けておられます。

利益をあげるために労働者の福祉をカットする、そういう方針を法制化してスタンダードにする。その結果が国民の非正規労働化→ワーキング・プアの激増、医療厚生、福祉の大減退…とつながってきているわけです。

こういうような扱いを労働者層にさせておきながら、労働者層の不満を爆発させないようにするために、「国家・国益のため」ならよろこんで自分を犠牲にする精神の涵養を図りたい、だから教育基本法を変え、学校で国家・国益のために個人を犠牲にする生き方を美化して教えておく、という政策が実施されるにいたる。また便宜的な「モノ・道具」扱いされる国民の大多数の不満が蓄積し、それが大規模な抗議行動につながらないように共謀罪を制定させ、希望を失った国民が無軌道な行動(犯罪など)に出ないよう、厳罰化による恐怖でそれを抑えこもう、とするのです。

ここでまさに、安全を希求する国民の利益と産業=官僚=軍部の連合体の意図が一致するのです。

どうしてこういう方法になるのでしょうか。

犯罪を起こらないようにしたいという願いは、人間であるなら自然な感情でしょう。ならなぜ、もっと犯罪が起こる事情を多角的に検討しようとしないのでしょう。なぜ短絡的に厳罰主義、監視社会の形成という方向へ進もうとするのでしょうか。わたしはここに、日本人の民主主義への理解と意欲の欠如がかかわっていると考えるのです。

だから個々人の事情や感情を理解しようとするよりも、規律の力によって人間の行動や思考に制限を設けようとするのです。これは全体主義→ファシズムの発想なのです。民主主義の理解の欠如は、個々人の事情を考慮しようとする粘り強い努力をするのを面倒がります。犯罪を阻止し、安全な社会を築くには、自分たちの社会、そしてその社会の成員である自分個人の考え方や行動を調整していく必要があるという事実から目をそむけようとするのです。香山さんはそのへんのことをこのように明らかにされています。

--------------------------

しかし、安易なヒューマニズムからではなくて、実際の経験の積み重ねから発せられているこの声が、どれだけの人の耳に届くだろう。

いや、もし届いても、多くの人は「聞こえないふり」をするのではないか。「少年事件の本質は、その少年にあるのではなく、大人や社会にある。間違っていたのはあなた自身なのだ」と、自分たちの方に “お鉢が回ってくる” のは、何としても避けたいからだ。

誤解を招く言い方かもしれないが、被害者に対して「気の毒に」と同情・共感している間は「やさしさを持った自分」でいられるが、加害者やその家族について想像を始めると、自分の中にもある「あやまち」や「不実」にも向き合わなければならなくなる。

それを避けるために、つまり少年犯罪という問題を、自分と切り離すために、「被害者は気の毒、加害者はモンスターだ(つまり死刑にするのがふさわしい、という考え)」と短絡的に決めつけている人はいないだろうか。


(「いまどきの『常識』」/ 香山リカ・著)

--------------------------

少年犯罪を生じさせる大きな要因として「社会の構造と家庭環境の機能不全」を無視することはできません。

でももし仮に、いいですか、「仮に」ですよ、ここでいう「社会の構造と家庭環境の機能不全」ということが、わたしたちがあたりまえのことと受けとめてきた社会規範のことだったとすると、この仮定をわたしたちはふつうどう受けとめるでしょうか。

こんな話があります。

--------------------------

ある日本の心理学者が、夫婦関係を測定する尺度(心理学の実験でふつうに行われる方法)を開発して、その(つまり、夫婦関係の)日米比較を計画した。その尺度を英語に翻訳して、アメリカ人の研究者に見せたところ、そのアメリカ人はこう質問した。

「これは何の病理の尺度ですか? 共依存ですか?」

言うまでもなく、日本文化においては “良好な夫婦関係” を意味する項目が、アメリカ人には “共依存” の病理に見えた、というお話である。


(「依存と虐待」/ 野口裕二・著)

--------------------------

日本人にとっては当たり前に見える「良好な夫婦関係」がアメリカ人には病理と受けとめられるのです。実例を挙げてみましょう。

--------------------------

由紀子(仮名)は父親がサラリーマン、母親は教師という家庭で育ちました。学校では有能な先生である母親は、テキパキした性格で、家のことをすべて取り仕切っています。

由紀子には順一(仮名)という弟がひとりいますが、喘息持ちなので、母親の注目はどうしても弟の方に向かいがちです。子どものころ、由紀子はよくこのように言われるのでした。
「順ちゃんは病気だからやさしくしてあげないといけないけど、あなたはがまんするのよ」。

由紀子がなぜかと聞くと、
「あんたはちょっとやさしくすると、すぐつけあがるからよ。根性が悪いんだから」。
そう言われると、なにも言い返せませんでした。

また、ひとりで何かをしてうれしがっていると、
「あんたはそうやって、いつも目立ちたがるんだから。少しは順ちゃんのことも考えなさい。順ちゃんはそんなふうにはしゃぎたくてもできないのよ」。

母親からいつもいつもこのような言動で接せられているうちに、由紀子は、子どもながらにも、できるだけ目立たないように、周囲に気をつかいながら暮らすようになっていきました。

由紀子が「バレエを習いたい」というと、母親は「バイオリンを習いなさい」と、自分が子どものころにやりたかったことを強引に押しつけました。しかも由紀子がバイオリン教室に行こうとすると、聞こえよがしにボヤくのです。
「由紀子にはほんとにお金がかかるわ。そのくせこんなにぜいたくをさせてやっているのに、ちっともありがたいと思わないんだから」。

そのたびに由紀子は罪の意識に駆られ、バイオリンを習っていても少しも楽しくありません。ときには無意識のうちに拒否反応が起きて、教室に行く時間になると頭痛がするようになりました。そこで「お稽古を休みたい」というと、「あんたは、いつもそうやって仮病をつかって怠けようとする。いったい、いくらかかっていると思うの。つべこべ言わずに、早く行きなさい」。

もちろん、こんな精神状態で習い事をしても上達するはずもなく、自分が無駄金をつかっているかと思うと(母親がいつもいつもそのようなことを言うので、子どもはこう思い込んでいる)、罪の意識はつのるばかりでした。

しかも、これまでにかかった費用のことを考えると、自分からもうやめたいと言いだすこともできず、どんどん落ち込んでゆくばかりでした。

こうした家族関係の中で成長した由紀子は、大人になっても、うつに落ち込むことが多く、自分の子どもを育てるのが重荷になってしまうまでになったので、私(著者である西村和美さん)のところに相談にやってきたのでした。

*** *** ***

由紀子の母親の言葉をひとつひとつ見ていくと、誰もが無意識のうちに口にしそうなものばかりです。しかも教師という指導力を要求される仕事をしているうえ、自己中心的で優柔不断な夫にかわって家庭も切り盛りしなければなりません。

おまけに下の子が喘息の持病を持っているという、なかなかたいへんな環境を抱えていますから、つい由紀子にきつい言葉を浴びせてしまう気持ちもわからないではありません。私も母親ですから。

由紀子の母親に限らず、どんな母親でも一度は、子どもなんて手のかかることばかりだとか、いなければいいのにと思ったことがあるのではないでしょうか。しかし、一時的にそう思ったり感じたりすることと、それを子どもの前で口にすることでは、もたらされる結果はまったく異なってきます。それが子どもに与える影響というものを、よく考えてほしいのです。


(「機能不全家族」/ 西尾和美・著)

--------------------------

みなさんがもし会社の社長で、従業員に由紀子さんを雇っているとします。由紀子さんがやってきて、これこれこういう事情で気分が沈みこんでいるので、一週間ほど休ませてください、と言ってきたら、どう反応するでしょう。

そんな人材は要らない、もう来なくていいよ、というのがふつうです。健康上の問題を抱えているのならそれは致し方ないでしょう。では、由紀子さんの事情には、みなさんはどう反応するでしょうか。甘えるな、そのくらいで心にダメージを受けるなんて、人間として未熟だ、というのが日本人の反応です。

「親にも問題はあるだろうが、それはあんたの家庭だけのことではない、おおかたの人は多かれ少なかれそういう経験はしているものだ、第一、あんたのお母さんは立派じゃないか、学校の先生という仕事を有能に務めながら、家庭の仕事も立派に切り盛りしてきた、それだから多少のきつさも出るだろう、親の大変さというものにあんたはむしろ感謝をせねばいかんのではないか!」

少年犯罪の厳罰化を支持する態度を強力にささえる思想がここにあります。子どもは親に服すべし、という考え方です。これは美徳として日本人に受け継がれてきた考え方です。いつから受け継がれてきたかというと、武家出身者では徳川時代から、しかし庶民にとっては明治時代からです。明治天皇によって「教育勅語」を「賜って」以来のことです。

教育勅語は、天皇制国家を支える思想を国民(大日本帝国憲法下では “臣民” =主権がないから)に心に刷り込んできました。その思想は、天皇は国民の父親のような神である、父親は敬わなければならない、これは儒学の教えるところでもある絶対的な道徳だ、これに逆らうのは不道徳で恥だ、人間は親には絶対に逆らってはならないのと同様に、日本臣民にとって親のような天皇にも絶対に服従しなければならない、というのが主要な要旨でした。これが日本国家の大黒柱でしたから、何が何でも徹底させられたのでした。こういう絶対的な縦の序列意識がいまだに日本人を捉えて離さないので、少年の精神医学的な事情は裁判においても、世論においても、社会一般の意識においても擁護されないのです。そしてアメリカ人の感覚からすれば、これは病理に見えたのです。
(「共依存」について書くとまた長くなるので、またの機会に譲ることにします。)

そしてそういう考え方が日本では標準なので、アダルト・チルドレンとか共依存とかいうことは軽蔑すべきこととされているのであり、親や社会の側に重大な問題があるという問題提起はまじめに受けいれられないのです。ある社会学者はこういう日本の現状をこう述べています。

「共依存ということばはどこかアンビバレント(好きだけど嫌いというような、相反する態度・感情を有すること)な響きがある。つまり、何かとても本質的な問題を言い当てているようでもあり、当たり前のことをおおげさに言い立てているようでもあり、といったところである。アメリカでは1980年代後半から、一般の人々にもかなり受けいれられるようになった概念だが、日本ではまだ浸透していない。臨床家(臨床心理学者、治療家など)の中にも、この概念を使うことにためらいを示す向きが多い(「共依存の社会学」/ 野口裕二)」。

日本ではカウンセラーや精神科医、学者でも共依存という概念をつかうことにはためらい、ある時はそれ以上の「抵抗」すら示すのです。なぜなら、それは「何かとても本質的なことを言い当てているようであるが、しかし、当たり前のことをおおげさに言い立てている」ようにも感じられるからです。

「何かとても本質的なこと」というのは、日本人の深層意識に横たわる、教育勅語に由来する人間関係のありようについての標準的思考様式=親子、上下関係の縦構造への執着のことだとわたしは考えています。そしてそれを疑問視するよりはむしろ当然のこととして受容するのです。だから「当たり前のことをおおげさに言い立てているに過ぎない」ということで決着をつけたがるのです。ところがこれは実は全体主義をささえる思考でもあるのです。それなのに、それを医師や学者たちは「あたりまえのこと」と見なすのです。

そんなことだから、少年による凶悪犯罪には厳罰を持って処理してしまうべきだと考えるし、全体の前には個人の都合など取るに足りないと(教育勅語では、いったん危急の事態が起これば、自分の身を挺して天皇家の繁栄を守れと教えていたし、軍人勅諭では一兵士の命は国家=天皇にとっては鴻毛のごとく軽いものだ、と教えていた)いう考えが深層にあるので、社会が矛盾していようと、社会の仕組みが個人を軽視していようと、社会を脅威にさらす犯罪者の方を処刑してしまえ、という思考に落ち着くのです。

新聞をはじめマスコミは、被害者へ過剰に感情移入し、加害者を過剰にふてぶてしく報道します。そうして日ごろ、非行少年や暴力団のまえに窮々としており、時に彼らに公衆の面前で辱められている国民の感情的な怒りを呼び起こさせます。また国民としても、これまで自分たちが従ってきた思考・行動規範を疑問視し、自分たちのほうに重大な間違いがあるのではないかと反省するよりは、ああいう犯罪を犯す人間の方が「おかしい」のだと考える方が気がおさまるわけです。

でももし、凶悪犯罪が社会の構造にゆがみあることと家族のあり方、人間関係の捉え方に問題があるのだとしたら、犯罪者をいちいち処刑したところで、根本的な解決にはならないのではないでしょうか。わたしは、最近の傾向をみていてひしひしと感じるのは、むしろ人々は問題の本質的解決などを望んでいないのではないか、ということです。あるいはそれをじっくり考えて理解しようという気概ももてないほど心に余裕がない状態におかれているのではないかということです。とにかく短絡的に処理してしまおうという気持ちで、先ほど引用した、ザミャーチン式の思考様式、自由をなくすことで、つまり決められたとおりに心と考えと行動を動かすことで、ちょうど小学低学年の子が点線をなぞって字を書くようにして生きることで、軌道を外れた人間が出ないようにしようという方向に同意をし始めているのではないか、と感じるのです。

そして国民のこういう傾向は、経団連にとっても国家主義者にとっても、アメリカ右翼政権にとってもたいへんに都合のいいものなのです。限られたエリート層の利益のために、国民の生存権を縮小して道具のように使うことを正当化できる傾向でもあるからです。つまりは全体の前には個人の命・存在など鴻毛のごとく軽いものだという考えに国民が同意し始めていることは!


コメント (11)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アメリカに後押しされる日本再軍備

2007年12月16日 | 一般
戦力を海外に派遣したところで、日本が再び侵略戦争をするなんてありえない、国民にはそんな意図も意欲もない、という向きは多いです。

でもアジア諸国にとっては、日本はすでに巨大な軍事的脅威なのです。こんな一文を見つけました。アジアの観点から見た日本像がよく分かります。

----------------------

朝鮮戦争のさなか、トルーマンが米軍支援のための日本軍再建を命じて以来、歴代の日本政府は、米国に促され、軍事力を経済と同様に再建した。

日本はこの10年のほぼすべてを通じ、9条に完全に違反して世界屈指の軍事費を使っている。東京とワシントンが、北朝鮮のミサイル計画におびえたそぶりを見せるかたわらで、日本は、H-2型などのロケットを使えば中国と朝鮮をやすやすと攻撃できるという、遠慮がちとはいえないメッセージを発信してきた。日本は、世界最新鋭の駆逐艦を持つだけでは足りずに、初の戦力投射用小型空母を製造中である。

しかも、1996年、日本の防衛白書の主要執筆者が筆者に語ったところでは、自衛隊は過去30年間(2007年現在では、いまや40年であるが)その権利こそ行使していないが、戦術的核兵器(広島級)を製造・配備する権利は「平和憲法」のもとでも認められていると、解釈しているという。目下のところ、自衛隊はまだこの権利の行使に踏み切っていないが、将来的に積極的な政策に転換される可能性はある、と彼は言った。

日本が、兵器利用可能なプルトニウムを大量に抱えているという事実は、近隣諸国が、軍国主義的な国家主義者の出現は言うに及ばず、自衛隊の存在を深刻に受け止める十分な理由になる。ワシントンが北京を手なずけるに当たり、日本の核武装という脅しを使ったということも報じられているのだ。

日本の核武装という脅威を、アジア諸国は深刻に受け止めている。南北朝鮮は、自国にとって最大の潜在的脅威は、両国のどちらか(北朝鮮・韓国)でもなく、中国でもなく、米国でもない、それは日本だと考えている。

2004年にムンバイで開かれた世界社会フォーラム(WSF)では、インドの核専門家が、日本の反核運動が自国の核武装を防げなければ、核兵器の拡散とそれに続く黙示録的な戦争を食い止める望みはほぼ絶たれる、と警告した。日本の運動家はこれを聞いて衝撃を受けていたようである

世界の多くがイランの核計画を心配する中にあって、一部の者たちは、日本の指導者層が核武装は「国益」にかなうと決めたときには、核保有国となるための技術・資源開発を進めることが「日本の選択」となると主張している。




1960年、かつてのA級戦犯でCIAが養成した岸首相を、安保条約改定の強行採決に利用したのと同じように、米国は日本における軍国主義の高揚を演出・助長している。「郡の旗を見せろ」と迫り、日本の支配者層に憲法改定を強く促すことで、ワシントンは、民主主義的な日本人や近隣諸国を震え上がらせるという罪を進んで犯している。

米国の支配者層は、憲法を変えさせるには、その前に社会的、知的、政治的な深い変化が必要であることを知っている。だからこそ、自民党の年長組が支援する右翼イデオローグが歴史教科書を書き換え、日本の15年戦争は犯罪的侵略ではなく、南京大虐殺は起こらなかったし、沖縄の住民が日本軍に自決を強制されたこともなかったのだ、と子どもらに教えても、米国は沈黙を守っているのだ。

教師たちが、天皇を讃える歌詞の国家を歌うことを拒否したり、戦争の記憶を引きずる旗を掲揚しないために処罰されても、彼らは沈黙を守っている。首相や閣僚が靖国神社を参拝し、1895年の日清戦争から破滅的な15年戦争に至るまでの、日本の帝国主義と軍国主義の伝統を礼賛しても、ワシントンは目をつむっている。

それだけでなく、ワシントンも東京も、失敗に終わった北朝鮮のミサイル発射実験や、成功とは言いがたい核実験を、日本国内の政治的ヒステリーを煽り、日英両国の軍国主義を支持させるために利用しているのである。




日本の国民と国家は半世紀以上にわたり、自分たちだけでなく、アジア、そして世界に9条の存在を示してきた。繰り返し侵犯されているとはいえ、9条は日本の軍国主義に重要な一線を引き、日本と東アジアの戦後の平和と繁栄に不可欠な役割を果たしてきた。地球上のすべての人に希望と勇気を与えてきた。

最近の世論調査でも、日本国民の70%が、9条は変えるべきではないと答えている。それなのに、米国に促され、自民党、民主党、読売新聞や、かつての軍国主義の系譜に連なる政治エリートたちは、軍国主義と金儲け、そして米帝国と共通の利害に奉じるために、日本の民主主義を破壊する道を邁進している。

アジアと世界の多くにとっての希望の綱は、民主的で平和を志向する日本のカウンターパートである。われわれにとっての闘いでもある日本の皆さんの戦いに、どうか智恵と力が授けられますように。


(「米国が後押しする日本再軍備」/ “帝国の中国包囲網と憲法9条”より / ジョゼフ・ガーソン・平和運動家。1947年にノーベル平和賞を受賞したAFSC;アメリカ不レンズ奉仕委員会の平和経済安全保障プログラム部長/ 「世界」2007年12月号より)

----------------------

このまえの自民=民主大連合構想を仕掛けたのが、読売新聞社主の渡辺恒夫さんでした。新聞社が政治に食い込んでゆくなんて、まるでソ連みたいなことを日本は今しているわけですが、こうした一連の動きにはアメリカの後押しがある、ということをこの記事は伝えています。それはここ数年に目立つようになった動きではなく、1950年の朝鮮戦争当時からの粘り強い工作だったのだそうです。

それはかなわない、などと思ったりしないようにしましょう。国民はそう易々と自民党の思惑に乗せられてきたわけではありませんから。ただ最近は、小泉政治によって生活の基盤が破壊され、将来への不安にさいなまれ、すでに生きていくことができなくなっている人々も増え、強い不安に動揺させられていることもあってか、強い日本というアイデンティティーにしがみつこうとするひとが、とくに若い世代に増えているそうです。雨宮処凛さんの言うところでは、若い人たちはおおむね、小林よしのりさんの「戦争論」や「ゴーマニズム宣言」に同調しているそうです。

不安を解消し、安定を取り戻すために、「秩序の回復」という方法に急ぎ、監視社会、厳罰化社会が形成されてきています。でも国民の荒れの原因はまさにそういう抑圧路線の人間管理によって生み出されたものです。民主主義の未発達さが引き起こした事態なのです。それなのに、さらに民主主義の息の根を止め、全体主義による力ずくの「安定」を日本人は選ぶのでしょうか。そういう管理は、人間から人間性を奪い去り、檻の中の動物のように扱われることになるのに。

もっと視野を広げましょう。与えられる情報ばかりに頼っていないで、自分から情報を探していきましょう。わたしたちひとりひとりが、当たり前の人生を、精いっぱい充実させて生きるために。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「愛国心」についてのある定義とカルト宗教、そして将来への展望

2007年12月10日 | 一般
愛国心は、
 危機や争いの時代に勢いを増す感情である。

 愛国心は、恐怖や不安に直面した際に、 
  一体感を示すことで、癒しの感情をもたらす。
  また、弱くて孤立した個人に、大きな自信や力を授け、
  帰属の感情を与える。


(「愛国心を考える」/ テッサ・モーリス・スズキ・著)

------------------------

最近流行りの国家主義志向やカルト宗教というのは単純な二元論を基礎としています。エホバの証人もそうですが、カルトは「絶対観」を持っています。道徳でもなんでも、なにかひとつ、「絶対」的なものがある、と考えるのです。そしてその「絶対」なるものに反するものごとはみな「悪」とか「非」という概念で裁いて退けます。だから排他的になります。

カルト宗教の教団員だった経験から、わたしはカルトの本質はファシズムだと考えています。ですから、カルトの問題は、カルト宗教信者とその家族だけの問題ではなく、そういうカルトを生みだす社会全体の問題だと考えています。

カルト宗教の団体ももちろん問題ですが、それよりずっと重要なのは、そういうカルトを支持する信者こそもっとも重要な問題点です。冷静になって考えてみれば突拍子もない教理を真剣に信じ、カルトの基準で考え、生活する人々、つまり、カルトを必要とする人々こそ問題点だということです。

なぜなら、カルトの絶対主義はひとつの宗教だけでなく、国家主義や民族主義にも通底している考え方だからです。カルト宗教の本質をファシズムだとして見るとき、自国の文化・思想・血を絶対視し、排外主義に走る思想とそれを支持する国民意識も、同じものとして扱うことができます。

今ちょうど沖縄の集団自決について、裁判が行われていますが、歴史を修正する自由主義史観を強迫的に擁護する人々と、カルト宗教のとっぴな教理・世界観にかたくなにしがみつくカルト信者たちの心理は同じものなのだと、わたしは考えています。どんな心理でしょうか。

テッサ・モーリス・スズキという学者さんが、「愛国心を考える」というブックレットの中でこのように述べておられます。

「愛国心は、危機や争いの時代に勢いを増す感情である。愛国心は、恐怖や不安に直面した際に、一体感を示すことで、癒しの感情をもたらす。また、弱くて孤立した個人に、大きな自信や力を授け、帰属の感情を与える」。

スズキさんのこのことばを使って言うと、カルト信者と歴史修正主義者やネット右翼たちの心理というのは、「恐怖や不安」におびえていて、「孤立」しており、その上「弱い」ので、なにか強力で強いものに一体化することで「癒しの感情」を得ようとしている心理、大きな木陰に寄ることで「大きな自信」を得ようとする心理…です。

エホバの証人は太古のパレスチナという風土の文化の特徴であった、強力な家父長制度という人間関係の中に安定したものがある、と信じています。エホバの証人はどんな「安定」を求めているのでしょうか。それは「人間同士のつながり」です。スズキさんは「孤立して弱い」人々が愛国心によって国家に帰属し、それによって大きな自信と癒しを得ようとする、と述べていました。カルト宗教にしがみつく人々は孤立していて弱く、自信を持てないでいるのです。だから「制度」あるいは「伝統」といった外部的な力によって人間同士が結びつこうとするこのカルト宗教にしがみつくのだと、今現在、わたしはこう考えています。そしてこの心理において、カルト信者とファシズムを支持する人々とはまったく同じだとわたしは思うのです。

今日本に巣くう反動的な国家主義への憧憬は、主に人間関係の崩壊に起因しているとわたしは考えています。そして、そうした人間関係の分断を生じさせたのは、高度経済成長期に男たちが家族・家庭を犠牲にしてきたことにあるのだと、そういうふうに思うのです。

したがって、今現在の私たち日本人に必要なのは、経済成長をさらに追及することではなくて、「経済大国」を放棄し、家庭に帰り、家庭を基盤に新しい社会をつくっていくこと、経済はその新しい社会を持続させるに必要な程度に建てることだと思うのです。もうひとつ、コミュニケーションの方法を、わたしたち日本人は学ばねばならないでしょう。人間関係が崩壊したのはなんといっても、コミュニケーションが失われた、ということなのですから。

人間をほんとうに結びつけるのは家父長制度といった「伝統」や「制度」ではありません。それらはむしろ人間の自然な感情を抑圧し、とても息苦しい人間関係を生み出してしまいます。個々の人を不自然に束縛せずに結びつけるものはやはり人間個々人への「愛情」であり、それは互いのプライバシーを束縛せずに、むしろ尊重することによって結びつく思想、つまりは民主主義を基盤としたところにあるのです。民主主義は互いが人間として対等な立場で意思疎通を行おうとするものです。階級による格差も、年齢による序列も放棄し、互いが互いを尊重するそんなコミュニケーションこそ、いまわたしたちがどんな学問よりも率先して学ばなければならないことだと、わたしは強力に主張します。

そうやって、真の民主主義に立脚したところで、コミュニケーションが取り戻され、人間関係が家庭から社会へと構築されてゆけば、そのときにはファシズムとは違う仕方で、国民は一体化されるでしょう。そうなればたとえ経済力がダウンしても、「助け合い」によって、国民は財政破綻を乗り越えられると、わたしは確信しています。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もうマスコミには騙されない、自民党に投票してはならないこれだけの理由

2007年12月09日 | 一般
若者たちの中には、日本に見切りをつけて海外へ出国する人が増えてきているそうです。若いからできることかもしれません。家庭や子どもを持つ人たちには中々できることではないでしょう。

日本は、今国民を見限ったからこんな現象が起きはじめているのでしょう。日本にとって私たち国民はもう「国民」ではなく、「奴隷」なのです。元気に働ける間は低賃金低福祉でこきつかって、使い物にならなくなればさっさと死んでくれ、と要求しているのです、日本はいま。

次の選挙は、ほんとうに自民党に勝たせてはならない。さもなければわたしたちは殺されてしまう。これは決して大げさな表現ではありません。わたしたちはウソの「映像」、つまり「ビジョン」を見せられている。新聞やテレビはわたしたちをコントロールしているのです。その内実をルポした記事を今回ご紹介します。どうか今回のエントリーが多くの方の目に留まりますように。

--------------------

日常の報道についてもメディアの劣化、危機を指摘したい。たとえば、福田政権下でにわかに浮上してきた消費税の増税問題である。

きっかけは、07年10月17日に首相官邸4階の大会議室で開かれた経済財政諮問会議だ。内閣府の試算として、医療などの社会保障制度の給付水準を現状のまま2025年度まで維持するためには、消費税でまかなうとすれば、現在の5%を最高で17%までアップしなければならない、と報じられた。

しかし、メディアの多くが強調しなかったことがある。この試算は同会議の4人の「有識者議員」である、
○御手洗富士夫・キャノン会長、日本経団連会長、
○丹羽宇一郎・伊藤忠商事会長、元経済同友会政治委員会委員長、
○伊藤隆敏・東京大学大学院経済学研究科教授、
○八代尚宏・国際基督教大学教養学部教授
…が会議に提出した文書にある。

小泉政権時代から露骨になっていたことだが、財界首脳とそれに近いわずかな学者が、全国民の生活や人生にかかわる重大事を経済財政諮問会議で方向づけてしまう。それが福田政権になっても少しも変わっていない。

なるほど毎日新聞は07年10月5日付けの「福田首相はどう使うのか」という同諮問会議を論じた社説で「新自由主義的な性格が色濃い」民間議員(上記4人など)の見直しの必要を指摘し、「多様な考え方の反映も必要である」と主張していた。しかし同紙の報道ではこうした疑問はあまり反映されていないし、他の全国紙にいたっては民主主義から遠く離れた、比ゆ的に言えば民主主義国家では異常な「寡頭政治」(*)にほとんど疑問を呈していない。

(*)「寡頭政治」…少数者によって多数の人間を指導・統治する独裁政治。民意、個々人の要求や必要はあまり顧みられず、指導部の意向だけが押し出される傾向に堕しやすい。エホバの証人の指導方法がその「堕した」タイプの典型。




これは序の口で、主要メディアの報道から抜け落ちていた真実がほかにもある。

たとえば、欧州の先進諸国の多くでは、税率は高いが、食料品、子どもの衣類、薬局で買う薬品など広範な生活必需品は消費税が免除されているか、あるいは低率になっている。

経済協力開発機構(OECD)加盟の30カ国で生活必需品にゼロ税率と低減税率の双方の制度がないのは日本だけである。消費税の報道というなら、国際比較を落とせないはずだ。

OECDの『消費税の傾向』2006年版によると、統計の揃う2004年において、税収全体に占める消費税の割合は、
消費税率5%の日本は15.4%。
これは消費税率20%のイタリアの14.3%よりも高い。

その他の欧州諸国を見ても、
消費税率19.6%のフランスが17%、
消費税率16%のドイツが18%、
消費税率25%のスウェーデンでも18.3%である。
(つまり、日本の消費税率はヨーロッパよりもずっと低いのに、消費税率の高いヨーロッパ諸国に匹敵するほどの、ものすごいたくさんの税収となっている=日本では生活必需品に課税されているからだ、ということ)

だから、「欧州の消費税は10%台後半から20%台だ。だから日本の消費税を大幅に引き上げるのは当然だ」という政財官や一部の学者の声高な主張は、有り体にいって為にするウソである。なぜメディアはこのように批判しないのだろう。

それに「4人組」の試算には、上げるのは消費税ばかりで、このところ財界が主導して下がり続けてきた法人税、所得税(*)、資産課税などが除外されている。メディアに、「これでは不公平ではないか」という当然の疑問もろくに見当たらないのはなぜなのか。



(*)法人税はようするに、企業などが得た収入に課せられる税金。所得税と並んで、国税の中の主要な部分を占める。したがって法人税が下がれば税収も下がる。その代わり国民の暮らしに課税して補おう、という発想。所得税は国民全体にかかわる税ですが、企業のオーナーにもかかわってくる税ですから、増税の対象に上っていない、ということ。まるで子どもの政治ですね、これは。つまりは現在の政財界の人間には「社会性」の発達が見られない、ということです。言い換えれば「公共心」というものが欠落しているのです。自分たちだけで現在彼らが持つ富を築き上げてきたんだと思い込んでいるのでしょう。その富は実は社会の多くの人々がかかわることで集まったものなのです。そこのところが理解できない。だからこんな自民党政治には、もう投票してはならないのです。



この消費税の国際比較について不思議な報道があった。消費税増税論の日経の07年11月6日付け朝刊の国際二面に、「税収割合、消費税高まる」、「主要国二割近く 05年OECD調査」、「『経済効率化や成長』に効果」という見出しが躍った。

OECDの本部のあるこのパリ電は、OECD諸国の平均で「歳入全体に対する消費税の割合は2005年に、1995年より1.2ポイント高い18.9%に上昇した」と強調している。

しかし、日本で手に入る最新の上記の『消費税の傾向』でも、2002年にすでにOECD加盟国の平均が18.9%になっていた。それに「消費税高まる」という見出しと違って、この報告によれば、1965年の13.5%から1995年の17%まではほぼ一本調子で上昇してきたが、2000年の18.5%からは頭打ちになっている。

この記事は「日本と米国は05年度でそれぞれ9.5%(日本)、8.0%(アメリカ)。(歳入に占める)消費税の割合が二桁に満たないのは日米だけだ」と強調している。

日経の増税路線を裏づける格好な統計のようだが、ここで引用している『消費税の傾向』によれば、2004年で日本は、(歳入に占める消費税の)割合が15.4%で、米国は8.4%だった。同報告書のミスプリントなのか、同紙の社論に沿うための「デタラメ記事(=捏造記事)」なのか、読者はとまどっただろう。



日経新聞はかつて、日本の公共事業を小さく見せるために、欧州諸国で日本より大きな公的な住宅建設投資を差し引いた財務省のでっち上げ統計を、それと知りながら引用した「前科」がある。同紙に限らない。霞が関は各種国際統計やさまざまな予測についてしばしば「加工」を行っているが、日本のメディアはそのまま伝えていることが多い。




小泉首相や竹中平蔵前経済財政担当相が叫びつづけた「改革なくして成長なし」という米国直輸入のグローバリズム、市場原理主義のスローガンに、多くのメディアが同調してきた。しかし、その構造改革路線では、小泉政権の03年度から福田政権の07年度の5年間で、中央社会保障推進協議会の計算によれば、国民への税負担は、
配偶者特別控除の一部廃止、
老年者控除の廃止、
公的年金控除の縮小、
高齢者の住民税非課税限度額の廃止、
低率減税の半減から全廃
…などで約5兆2000億円の大増税となっていた。

一方、大企業や富裕層への減税は、主なものを拾っても、
研究開発費減税、
IT投資減税、
連結納税制度の創設、
欠損金の繰越期間の延長、
株式配分などの減税、
相続税・贈与税の減税、
減価償却費制度の見直し、
証券優遇税制の延長など、
減税のオンパレードで総額は約4兆6000億円である。

国民への税負担がそっくり大企業や富裕層の減税分をまかなった構図が浮き彫りになっている。

しかし、それだけではない。

社会保障制度の分野で、国民の負担増と給付抑制政策の結果、これも中央社会保障推進協議会の集計では、02年度から06年度までの間に、多くの国民に7兆2050億円もの負担増が襲い続けた。

その中身をあげると、あらためて負担増の情け容赦のなさに驚く。いちいち年度をあげないが、先からの順に書いてゆく。

 1.医療保険改定で世帯主本人の窓口負担を2割から3割に引き上げ、
 2.雇用法改定で保険料値上げ、給付減額、
 3.介護保険法改定で保険料値上げ、
 4.年金保険法改定の物価スライド制導入で年金額引き下げ、
 5.年金保険法の改定で厚生年金、共済保険料値上げ、
 6.生活保護法の改定で、老齢加算縮減、
 7.さらなる年金保険法の改定で、厚生年金と共済保険料の値上げ、
   国民年金保険料値上げと給付減、
 8.さらなる雇用保険法の改定で保険料値上げ、
 9.さらなる生活保護法の改定で老齢加算廃止、
10.さらなる介護保険法の改定でホテルコスト導入、
11.さらなる介護保険法の改定で母子加算縮小、
12.障害者自立支援法の改定で応益負担化、自己負担の強化、
13.この期間で3度目の介護保険制度の改定で保険料値上げ(全国平均で約24%)、
…と際限もなく続いた。

こうした負担増は高齢者や障害者など、国家がもっとも手厚い保護を差し伸べなければならない、いわゆる「社会的な弱者」に、もっとも激しい打撃を与え、また与えようとしている。これが先進国なのだろうか。



(「メディア批評宣言」第1回/ 神保太郎/ 「世界」08年1月号より)

--------------------

最後にあげられているリストをもういちどご覧になってください。これが小泉=安倍の人気政権が行ってきた立法なのです。ソフトなイメージ、改革的なイメージに踊らされて自民党に政権を担当させてきた私たちが自分自身に招いた地獄の報いです。大企業と富裕層には減税させて「この世の春」を謳歌させておきながら、自分たちの生活をデッドラインにまで追いつめているのです。

こうまでして自民党へ票を入れるのはなぜでしょうか。左翼的な人々への反発でしょうか。それには理解はできます。左翼と言うのは、自分のインテリをひけらかしますし、大学へ行っていない私のような人間を見下します。左翼の人たちにとっての「運動」は自己顕示の延長でしかありません。それに比べると右翼の人たちのメッセージはずっと分かりやすいのですが、彼らが訴えるのは、国家に殉ずることです。自分を犠牲にして天皇家と国家の中枢部の人々の生活を繁栄させることを求めるのです。

とくに国家とか国民意識というものに自分を同一化させることは、孤立し、弱い自分に自信を与えてくれます。でも自信を得ることができるからってどうして私たちを踏みつけにする人たちのために、わたしたち自身の命と生活を放棄させねばならないのでしょう。わたしたちだって人間として生まれてきたのだから、自分の可能性を精いっぱい試してみたいじゃないですか。そうやって生きているうちに人間の能力を楽しみたいじゃないですか。そうでしょう? 読者の方々にはかわいいお子さまをお持ちの人もおられるでしょう。お子さまにはそういう人生を送らせたいのではありませんか。

自民党は国家国民意識を持ち出して、実はアメリカの権益のため、そこから来る利益に群がる大企業のエリートたちの大儲けのため、わたしたちを道具として使っているのです。わたしたちはもはや人間扱いされていません。牛馬のように、用済みになったらされるのです。わたしたちの生活の保障は何もありません。これがあの弱々しいけれどけなげな安倍さんやリーダーシップに溢れているかのような小泉さんが行ってきたことなのです。政治家を選ぶ際には、その人のイメージで選んではいけないのです。その人の思想、政策をよく聞いて選ぶべきです。

これと言った人がいなければ、とりあえず独裁者たち以外の人に票を入れます。そうすれば独裁色は薄めることができるのです。さらにもっと自分たち国民の要求を気にかけてくれるよう、人や党に働きかけ、選挙を求め、自分たちの要求にかなった政府を作り上げてゆくのです。

いいですか、ここが肝心です。政治を行うのは政治家の専権ではありません。わたしたち国民が主権者なのですから、政治を行うのは私たちなのです。ですからわたしたちは無関心であってはならないのです。多少の労を提供しなければなりませんが、それこそ民主主義を擁する市民のそれは義務なのです。この義務を怠ると現在の生活苦と将来の不安を身に招くのです。わたしたちが今抱いている将来への不安は正真正銘、本物の不安です。つまり私たちが心配しているとおりのことが自分に臨むようになる、ということです。そしてそれを招いたのは、政治を監視し、参加する義務を面倒がったわたしたち自身の責任なのです。

考えることと社会への参加を他人任せにしたくなったとき、その面倒な義務を買って出るのはたいていファシストです。ファシストはとにかく全部自分たちに任せなさい、あなたたちは一切口を出さなくてもよいのです、と言います。ある日、自分たちの生活が困難になっているのでクレームをつけようとすると、そのときにはファシストの顔つきは変わっていて、獰猛で暴力的な本性をむき出しにしているのです。

ですからみなさん、今からやり直しましょう。もはやマスメディアは世の中の真実の姿を私たちに見せることはしません。マスコミが率先して階級格差社会、つまり「新時代の封建制度」を作り上げようとしているのです。それは彼らも封建階級の上部に位置できると、彼らは見て取ったからです。正しい情報は、あまり売れ行きのよくない雑誌や地方新聞などに見いだされます。もう自民党政治には「NO」を突きつけましょう。わたしたちが生きるために!



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国民を欺き、裏切り続ける政府とそして国民自身

2007年12月02日 | 一般
ここしばらくばたばたすることばかりで、なかなかブログを書く時間がとれず、欲求不満状態です。今週はトリビアとして、イラク特措法関連のニュース解説を書き写します。かなり怖ろしい内容です。

----------------------


テロ特措法は、2001年11月、つまり「9・11事件」の2ヵ月後につくられた法律である。

米国ではブッシュ政権が誕生して1年ほどの時期で、その国務長官であったアーミテージが事件から4日後に、「ショー・ザ・フラッグ(旗を見せろ)」と日本政府に迫った。アーミテージは、2000年の米大統領選挙のときに超党派の日本通のシンクタンクや戦略家たちを組織し、「アーミテージ・レポート」と呼ばれる対日政策を提案した中心人物で、後にブッシュ政権に入る。

「日米の安全保障に関する協力を強めるためには、自衛隊は国際的に自由に活動できる仕組みをつくらねばならない。その際には憲法も制約になる。PKO法(国連平和維持活動法)の中で凍結されていた軍事力行使に関わるPKF(国連平和維持軍)も早期に凍結を解除する」-

-というように、「アーミテージ・レポート」は日本の国内政策に踏み込む提言内容で、当時の日米関係を象徴的に示すものだった。



実際、「アーミテージ・レポート」が出されて間もなく、PKFの凍結が解除され、自衛隊はPKF活動のすべての範囲において関与できるようになった。いくつか憲法下の制約はあっても、まずそういう枠組みがつくられたことが(9・11テロ事件の)前段にあった。

そして「9・11事件」が起こった。そこで出てきたのが「ショー・ザ・フラッグ」で、この機会に日本は一歩進んだ形で国際貢献をするように、という強い圧力が加わった。

湾岸戦争のときに日本はお金を出したけれども貢献が認められなかった。このことを湾岸戦争の「トラウマ」と称し、それを克服するのだといいながら、「国際貢献」で自衛隊の姿を見せる必要性を政府は強調した。

米国からの強い圧力と日本政府の思惑の中でテロ特措法がつくられたということだ。

この法案が通って、01年11月からインド洋での活動が始まったが、03年3月にはイラク戦争開始。次にアーミテージが言ったのが、「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」、地上に軍歌を響かせろ、だった。

「ショー・ザ・フラッグ」の求めに海上自衛隊が主として対応したのに対して、今度は陸上自衛隊の派遣を要求され、イラク特措法がつくられていった。





わたしたち “ピース・デポ” (梅林宏道代表)の調査で明らかにしたのは、「キティホーク」への給油の詳細でした。

まず「ときわ」が給油した相手は「ペコス」という米国の補給艦でした。「ペコス」の航海日誌を見ると、受けた給油量は20万ガロンではなくて80万ガロンであった。米国の司令官が言っていた量で(2003年5月、イラク戦争終了後、横須賀に帰港したキティホーク司令官の凱旋記者会見で、司令官が、日本からの80万ガロンの給油への感謝を述べたコメントをさす)、そのまま「ペコス」から空母「キティホーク」に渡ったことが分かりました。

第二に、給油した場所です。「ときわ」から「ペコス」に給油した場所をピンポイントで特定することはできませんでした。日本が情報公開をしていないからです。しかし、「ペコス」から「キティホーク」に給油した場所は特定できました。ペルシャ湾入り口のホルムズ海峡付近でした。その場所から逆算して「ときわ」が給油した海域を分析すると、オマーン湾の外のほうで、そこからアフガニスタンへの作戦に参加するのは考えにくい場所でした。

第三に、給油を受けた「キティホーク」がその後17時間くらいでホルムズ海峡を通ってペルシャ湾の中に入り、アフガニスタンと関係ないイラク「南方監視作戦」に直行したことが具体的に分かりました。

わたしたちが当時の流れから考えていたことが、米軍の資料で証明されたわけです。



(解説)
テロ特措法に基づく給油は、アフガニスタンにおける「不朽の自由作戦」に対する強力支援であって、海上阻止行動に従事する艦船を対象とする。

しかし事実は、そう説明してきた政府見解とは違う使われ方をしていたことが「ピースデポ」の調査で明らかになった。

このことは違法行為であるばかりか、自衛隊が、イラク・アフガニスタンの戦争に対して、国民への説明とは異なる関わり方をしてきたことを示すものだ。

米軍が「イラク作戦、アフガニスタン作戦、対テロ海上作戦の三つの戦争を進めている」と繰り返しているように、これらは一体のものであり、自衛隊が給油している米軍艦艇も三つの作戦を兼務している。つまり、自衛隊と日本はイラクやアフガニスタンを空爆し、多くの市民を殺傷し続けている作戦を支援してきたことにほかならない。




防衛省が当初発表の4倍の給油をしていた事実を認めたのは、「ピースデポ」のこの発表のための記者会見の翌日、9月21日のことだった。公表された「海自インド洋給油・防衛省内部報告書」では、03年の政府答弁との食い違いについて、担当者の入力ミスであり、その後誤まりに気づいた担当課長が「問題が沈静化しつつあったことを考慮」し報告しなかったとしている。つまり、再び国会が荒れるのを避けるために事実を隠蔽したという意味だ。

また同報告書は、補給艦「とわだ」の航海日誌を「誤まって」裁断し焼却したことも明らかにしている。焼却された航海日誌とは言うまでもなく、イラク作戦への給油疑惑が出ている03年のものである。

一担当者のミスとするこの「報告書」をそのまま信じることはできないが、万一事実だとすると、違法な給油活動を政府が知らなかったことになる。誰も知らぬところで、自衛隊が米軍に言いなりに支援していたわけだ。しかも制服組の担当課長は、その事実を知りながら、国会の状況を勝手に判断して報告しなかったという。

「文民統制」とはほど遠い、そら恐ろしい実態だ。また報告書がウソなら、官僚や政治家が国民に隠れて意図的に自衛隊を暴走させていることになる

どちらにしても防衛省と自衛隊で危険なことが進行していると考えなくてはならない。



(梅林宏道 「自然と人間」2007年12月号より)

----------------------

日本の政府が国民の方を向いていないことはもう明らかですね。アメリカの要求にどう応えるかということに必死になっているのです。まるでそうしないととんでもなく悪いことが起こる、みたいな強迫観念に駆られています、自民党と一部の民主党の政治家たちは。

彼らはアメリカのどんな仕打ちを怖れているのでしょうか。実際にアメリカの要求に応えられなかったときに何らかの「制裁」が加えられるのでしょうか。そんなことがあるはずはないし、あってはならないことです。誰のための国政なのでしょうか。わたしたち日本国民は自分たちの生活の益のためにと思って税金を払うのです。それがどうして国民に還元されず、アメリカの目的の方に使われるのでしょうか。薬害肝炎の不当きわまる仕打ちを受けた女性たちに三十数億円を出すのを渋るのに、どうしてアメリカ軍への思いやり予算に何兆円もスイスイ出すのでしょうか。

こんな自民党にまだ国政を任せたいと思うのでしょうか。だれがそう思うのでしょうか。アメリカの傘の下でだれかが「甘い蜜」を吸っているグループがいるとでも言うのでしょうか。

国民の中には、自民党でなければ頼りない、という人が多いです。なぜ自民党は頼り甲斐があるのでしょうか。アメリカとのパイプが太いからではないでしょうか。このことはつまり、自民党はアメリカがいないと何もできない党である、ということの証拠ではないでしょうか。それはむしろ頼りないことの表れではないですか。

政治をするのは自民党の議員ではありません。私たち国民なのです。わたしたちが時間と労力を割いて政治に関心を払い、積極的に参加しようとしない限り、わたしたち国民の数十年後の生活は崩壊しきってしまうでしょう。いまや防衛省と自衛隊はかつての関東軍のようにすでに暴走しているのです。暴走の実績を残しているのです。わたしを「左翼」と呼び、権利ばかり主張して義務を果たそうとしないという人たち、それはとんでもない勘違いです。義務を果たそうとしていないのはそうした人たちの方です。政治に参加することこそ、憲法に書かれている国民の義務なのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする