Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

死刑という刑罰の本質

2010年11月21日 | 一般

自分の身内は殺害されてこの世にいないのに、殺人犯は今こうしてのうのうと生きている、それが許せない…。



これは遺族の正直な気持ちでしょう。当然の感情です。



日本には伝統的に、「死をもって償う」という考え方が根づいてきているのでしょう。それは、「死をもってでしか償えない」という考え方にニュアンスが変化して、今に受け継がれてきているのではないでしょうか。日本ではいまだに、死刑は必要で存続すべし、という意見が主流です。

 

でも、罪の償いは「死」でしかなしえないのでしょうか。というか、死刑は罪を償いうる刑罰なのでしょうか。

また、わたしたち、メディア報道の受け手たちが被害者遺族といっしょになって、死刑にしろ、と騒ぐことで何か犯罪の抑止に貢献してきたのでしょうか。それともそれは各人のいろんなルサンチマンのはけ口として利用されている、という真相を持つものではないと言い切れるでしょうか。



「世界」2010年11月号に、ちょっと重い文章が載りました。みなさんはこの文章を読んでどう思われるでしょうか。



 

(以下引用文)-----------------

 


(1)
俺の考えでは死刑執行しても遺族は、ほんの少し気がすむか、すまないかの程度で何も変わりませんし、償いにもなりません。


死を覚悟している人間からすれば、死刑は責任でも償いでも罰ですらなく、つらい生活から逃してくれるだけです。

 

だから俺は一審で弁護人が控訴したのを自分で取り下げたのです。死を受け入れる代わりに反省の心を棄て、被害者・遺族や自分の家族のことを考えるのをやめました。


なんて奴だと思うでしょうが、死刑判決で死をもって償えというのは、俺にとって反省する必要がないから死ねということです。


人は将来があるからこそ、自分の行いを反省し、繰り返さないようにするのではないですか。将来のない死刑囚(にとって)は反省など無意味です。




 

 

(2)
はじめのうちは心から反省していました。裁判のなかで自分の気持ちを言う機会があったので、申し訳ない気持ちと反省の気持ちを言い、傍聴席にいる遺族に頭を下げました。


しかし、(検事らに)「死刑になりたくないためのパフォーマンス」と言われたので、何を言っても聞く気はないな、と感じました。


遺族にしてみれば当然のことだと思いますし、何を言われても仕方のないことをしたのだと思います。


でも俺はほんとうに申しわけないことをしたと思ったから頭を下げたのであって、死刑になりたくないとか、刑を軽くしてもらおうなんて気持ちはまったくありません。


それをパフォーマンスと見られるなら、命乞いのようなみっともないことはやめようと思ったのです。反省の気持ちより反発の気持ちのほうがだんだんと大きくなり、どうせ俺も殺されるのだから、反省などする意味もないと思うようになりました。


 

警察と検察は都合のいいように調書をつくり、まったく事実と違っていても、それが(警察の作ったストーリーが)真実であるというウソをつくだけでなく、俺の言っている真実をまったくのウソだと言い張ります。


しかし裁判では被告人の言うことより検察の言うことのほうを無条件で(=無批判で)信用されるのだから、警察・検察はいくらデタラメなことをやっても平気なのです。

 




俺は死刑になりたくないとは一度も思ったことはないので、自分に不利になるのを承知で殺意を持った時点を証言しました。


取り調べの時からずっと同じことを言っているし、裁判でもずっと同じ真実のみを言っています。


警察や検察が発表するウソだらけの発表をたれ流し、それが真実のように洗脳するメディアも共犯です。





 

 

 

「誰が刑場に消えたのか」/ 青木理・著/ 「世界」2010年11月号より



-----------------(引用終わり)

 


以上は尾形英紀という死刑囚の書いた手紙の一部分です。尾形さんは「死刑廃止論者」として知られていた千葉景子元法務大臣の死刑執行命令に基づき、2010年7月28日に処刑されたふたりのうちの一方の方です。


彼は十代のころからグレはじめ、暴力団ともつきあいがあった人で、酒に酔うとわれを忘れて凶悪なふるまいを起こす人だったのだそうです。2003年8月23日、ひとりで酒に浸っていたところへ、婚外で交際していた16歳の少女から携帯電話で呼び出され、知り合いの風俗店の店長に付きまとわれて困っている、レイプされそうになったこともある、と相談されました。


睡眠不足と泥酔のために、尾形さんは激高し、「シメてやんべぇ」と言った後、その少女を連れて、くだんの風俗店店長宅に押しかけ、店長の胸を包丁で刺して殺害し、店長宅にいた3人の風俗嬢も目撃されたということで、ひとりを殺害、ふたりに重傷を負わせたのでした。2007年4月にさいたま地裁で死刑が言い渡されました。


尾形さんは店長については最初は殺すつもりはなかったらしいのですが、犯罪は凶悪だと言うことで検察の主張がまんま通ったのでした。尾形さんの弁護人は控訴しようとしましたが、尾形さん自身が控訴を取り下げ、自ら死刑を確定させたのでした。

 




尾形さんは他の受刑者ほど死刑を怖れてはいなかったようです。「死を覚悟している自分からすれば償いの意味は感じないし、つらい生活から逃れることができると言う感覚なので罰にもならない」ということです。


遺族は死刑を望むだろうが、それでも遺族にとっては償いをしてもらったとは思わないだろう、という観測は鋭い洞察だと思います。冒頭でも言ったように、日本人の伝統的感覚から、殺人を犯したら死刑でしか償えない、という考え方を、もし踏襲しているだけならなおのことそうだと思います。




「死刑判決で死をもって償えというのは、俺にとって反省する必要がないから死ねということです。人は将来があるからこそ、自分の行いを反省し、繰り返さないようにするのではないですか。将来のない死刑囚(にとって)は反省など無意味です」。




このことばは死刑という刑罰の本質をぴたっと言い当てている、箴言のような重い洞察だとわたしは思います。



冒頭で、日本では伝統的に「死をもって償う」と言う考え方が受け継がれてきているように感じる、と述べました。この、死をもって償う、には、とにかく死ねば、本人の面子のつぶれるような多くのことを不問に付す、というニュアンスも含まれていなかったでしょうか。日本のマスコミと、マスコミに踊らされる大衆は、とにかく死刑判決に必要な条件をなすりつけてしまえば、細かい正確さなどどうでもいい、とでも考えているかのようです。やたら被害者遺族の感情を前面に押し出すのです。尾形さんは、マスコミによって醸成される、そんな日本の大衆の感情と風潮を見事に表現したように思います。だって、ほんとうに反省していても、それはパフォーマンスだと頭から拒否されるじゃないですか。実際の被告の心情をつまびらかにしようという態度がまったくないじゃないですか。



この記事を書いた青木理(さとる)氏も、「それは剥き出しの正論であり、死刑制度の矛盾を抉り(えぐり)取っているように感じられた」と述べておられます。青木さんはさらにこう述べておられます。


「そうなのだ。死の刑罰を受け入れた死刑囚に、反省や贖罪を求めることなど無意味なのだ。しかし、人間とはここまで酷薄になれるのだろうか。尾形は心の底からそう思っているのだろうか。開き直りか、あるいは強がりにすぎないのではないか」。そう思って青木さんは尾形死刑囚に手紙で質問してみたのでした。その質問への回答が引用文(2)です。



 

みなさんは(2)に言い表されている尾形さんの主張をどう思いましたか。


尾形さんはほんとうに反省していたのに、『死刑になりたくないためのパフォーマンスだ』という言い方をされて、こんどは反省の気持ちよりも反発のほうが強くなったと言いますが、この気持ちは万人に理解できることだと思います。



死刑存続派の強硬派たちが、騒ぎたい気持ちと、持論を押し通すために論理をもてあそんでそういう言い方をするのをわたしは日ごろから嫌悪感を感じてみていました。本人の気持ちを外部の人間がどうやって正確にうかがい知ることができるのか。そうやって根拠のない推論で、死刑かどうかで裁かれている人の言い分をあっさり否定する世論を作って、本人の気持ちを考慮に入れない判決を下していいのか。それこそ、殺人者と同じく、命をもてあそぶ行為ではないでしょうか。そういうことをする最も力の強い者はマスコミです。



「警察や検察が発表するウソだらけの発表をたれ流し、それが真実であるかのように(国民を)洗脳するメディアも共犯です」(尾形さんの手紙)。



検察の暴力的犯罪捜査が村木さん事件によって暴露された今、このことばはあまりにも怖ろしい。犯罪者だから適当に理由をつけて、とにかく吊るしてしまえとする態度は、もう裁判の意味をなくさせていると言っても言い過ぎではないでしょう。どんなに残酷な事件であっても、死刑が問われている裁判なら、もっと緻密でフェアに裁判を行わなければならないはずです、「反省と償い」を求めるのならなおさら!



さらに菅谷さん事件のように、もしも冤罪であった場合なら、こんな裁判でいいはずがないのです。それこそ司法とマスコミと、マスコミに踊らされる国民と被害者遺族による集団リンチになってしまいます。




そう、尾形さんの死の間際の、白鳥の歌とも言えるこの洞察は、償いと反省を求める裁判と刑罰を考えるとき、死刑と言う刑罰の無意味さをこれ異常なく暴き出した重要な見解だと思います。





死刑は廃止するべきです!

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