Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

補足

2005年06月29日 | 一般
昨日の記事の最後のエピクテトスのことばについて思うことを追加します。
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「世にはわれわれの力の及ぶものと、及ばないものとがある。
われわれの力の及ぶものとは、判断、努力、欲望、嫌悪など、ひと言で言えば、われわれの意志の所産の一切である。われわれの力の及ばないものとは、われわれの肉体、財産、名誉、官職など、われわれのせいではない一切のものである。

われわれの力の及ぶものは、その性質上、自由であり、禁止されることもなく、妨害されることもない。が、われわれの力の及ばないものは、無力で、自分を隷属的にし、妨害されやすく、他人の力の中にあるものである。

それゆえ、君が本来、君を隷属的にするものを自由なものと思い、他人に属するものを自分のものと見るならば、君は障害に遭い、悲哀と不安に陥り、ついには神を恨み、人をかこつものとなるであろうことを忘れるな。

これに反して、君が真に自分に所有するものを自分のものと思い、他人のものを他人のものと認めるならば、だれも君を強制したり、妨害したりはしないだろう。君はだれをも恨まず、非難せず、またどんな些細なことも自分の意志に反してなす必要もないであろう。だれも君を不必要に害せず、君は多くの人がそうであるように、作らなくてもいい敵をあえて作ったりしないであろう(エピクテトス)」

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一例をあげると、奉仕の特権を得ようとすれば、長老の良い評判を得ようと努力しなければなりません。また巡回監督にも従順であることを印象づけなければなりません。そのためには「自分を捨て、苦しみの杭を取り上げる(マタイ16:24)」、つまり自発的な欲求や願望、自分の自然な夢を断念しなければなりません。任命権は巡回監督にあり、推薦されるかどうかは長老たちの意向にあります。つまり役職は自分の力の及ぶものではなく、他人に所属するものなのです。他人に所属するものを得ようとすれば、自分の望みのいくらかは禁止されます。また長老たちのお気に入りになるためには程度の差はあれ、隷属的な立場に立つことにもなります。

エホバの証人は「新しい人格」を身につけているかどうかを評価します。それは「組織への服従」の度合いが測られることなのです、実際は。仕事を調整して開拓奉仕をとらえるよう努めているか、進学を断念して開拓奉仕をとらえようとしているか、結婚、出産をあとまわしにして開拓奉仕をとらえようとしているか、病気であろうと何であろうと開拓奉仕をとらえようとしているか、家庭がバラバラになってもエホバの証人のおきてを擁護することで会衆の励みになっているか…。

他人の基準にかなうよう努めているかどうか、というのは個人の欲求を否定する考えかたです。秩序を保つためには自分ばかり押し出していてはいけない、集団の一員として行動しなければならないことはほんとうです。しかし社会秩序を保つのに、個人の人権を放棄しなければならないことはありません。職業を選ぶこと、進学すること、結婚、出産することを選んだからといって、どこのどんな秩序が乱されるのでしょうか。乱されるのは他人の人生をいじくりたい人たちの感情でしょう。そうした人たちは他人を思い通りに操作することで、自分の存在に価値を認めようとする残忍な人たちなのです。自分が無理に多くのことを犠牲にした、その喪失感は新人への同様の厳しい要求として発散されます。高校のスポーツ部活のしごきの習慣のように、非情な要求は連鎖して受け継がれてゆくのです。

エホバの証人の知性は低い。自分に属するものと他人に属するものの区別がつかない。いいえ、自分に属するものを放棄させるのがエホバの証人の教育なのです。カルトのやりかたそのものです。きっとのちのちそのつけを支払うことになるでしょう。 「君が本来、君を隷属的にするものを自由なものと思い、他人に属するものを自分のものと見るならば、君は障害に遭い、悲哀と不安に陥り、ついには神を恨み、人をかこつものとなるであろうことを忘れるな」 ということを味わい知ることになるのです。わたしもそのひとりです。だれよりも強く家庭を望んでいましたが、自分を主張し続けたために、婚期を逸しました。そしていまは神だの宗教だのを毛嫌いする人間になっています。自分の決定権の範囲まで指図されるのを好まず、自分のペースを守る人が現れると、エホバの証人は差別的待遇によって孤立させ、屈辱感を味わうように状況を操作するのです。


任命を受けたり、誉を受けたりすることを追い求めるのは「他人に属するものを得ようとする」ことなのです。エピクテトスはそうではなく、「自分に属するもの」を追い求めるなら、わたしのような人生を送ることはないと言っています。宗教に当てはめると、宗教者として価値があるのは、指導部からの評価ではなく、自分と神との関係で潔い良心を持って生きることです。神に対していつもまっすぐ目をあげて言い開きができるのであれば、それで宗教的には完全なのです。そして言い開きができるか否かは各自の問題であり、他人が介入することではありません。個人の崇拝は個人にのみ属するものであって、他人に属するものではないのです。このことは聖書の中でも使徒たちが複雑な文章を駆使して説明しているのですが、集会で注解されることはあっても実際に実行されることのない教理となっています。個人間に「犠牲」の差があることに不安を覚える人がいるのです。いい年して社会人として労働しない巡回監督、家庭を破壊するまでに極端な原理主義的な解釈を守り通す醜いオバサン(言っちゃなんですが、この種の女性信者はどういうわけか表情も顔つきも醜い)、まともに働かずに初老に至った長老たちなどのように、自分の責任から逃避してきた人たちがそうです。

他人に属するものを追い求め、自分に属するものを放棄してきた人のなれの果てがこれです。これは要するに「自己」が確立されずに人生を終えようとする人間のすがたなのです。こういう人たちは若い人たちの可能性を、自分でも気づかないところで妬んでいるのでしょう。若い人たちのすることにとにかく何でも批判的です。独身のままよぼよぼになった宣教者を神格化して褒め称える一方で、いまどきの若い人たちは…といいます。自分が若かったときはもっとハングリーだったよねえ、などと言う人たちはいま自分には、人生で何ごとかを成し遂げたという実感を持たないことに恐怖しているのでしょう。教理がこれだけ変化すれば、過去には価値のあったことも、今では口の端にも上ることがありません。これでは自分の過去に充実感を持てるはずがないのです。むかし、ある掲示板で書き込まれたことなのですが、川崎の大ちゃん事件の当の会衆では、よそから越してきた人が大ちゃんの話をすると、露骨に顔をゆがめて嫌悪感を示す、ということです。あの時は偉大な信仰の決断だったのですが、いまは輸血拒否の基準も緩やかになっていて、いまなら大ちゃんは死なずに済んだかもしれないからなんです。それでもエホバの証人としての自分たちの立場を守りたいので、臭いものにはフタをするからそんなことになるのです。

「自分を大事にする」というのは利己的であれ、という意味ではありません。自分に属する権利を守り、自分に属する責任から逃げるな、ということです。一方他人に属するものを得ようとするな、と言うことでもあります。まして他人からその人の人権まで剥奪し、自己の確立を破壊しようとするのは大変な「悪」です。精神分析医のアリス・ミラーはそれを「魂の殺人」と呼びました。一生を後悔のないように生きたいなら、自分に属するものを精いっぱい伸ばすことに一生懸命になってください。他人に属するものを得ようとして、自分の貴重な人生の時間を無駄にしないでください。エピクテトスの上記のことばは、現代のエホバの証人にとても重い教訓を与えています。

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目的と選択と自由意志

2005年06月28日 | 一般
ずたずたになってエホバの証人から出てきた…。何も持たないのに…。
そんなあなたに、「大事な人に会う30分前に読む本」/(大原敬子・著)から、こんな一文を紹介します。たとえとかはイマイチでもうひとつピンと来ないですが、大切な点があります。ちょっと時間を割いて読んでみてください。

***
満たされた気持ちで生きていくには目的を持つことがかぎです。

信じていた人、愛していた人に裏切られたとき、人は憎しみの気持ちをいだきます。自分では「早く忘れたいのに…」と思っているにもかかわらず、日ごとに感情がつのるのはなぜでしょう。傷ついた心が癒されないときに、憎しみは生まれます。それはまだ相手に執着しているから。

執着は「未練」と「後悔」、満たされていない自分自身のみじめさの反動です。思っただけで、考えただけで「悔しさがつのる」のは、それだけ相手に依存していたということなのです。憎しみが強ければ強いほど、相手を信じる気持ち、愛する気持ちが強かったことを、あなたはまず認めるべきでしょう。

ここで問題なのは、憎しみを持ち続けることで、自分の心をごまかして生きていることです。
「ほんとうはこんな生き方はイヤなんだけれど、あの人に裏切られたことのショックで、もう生きる張り合いもないの…」などと嘆いている自分に依りかかっている、ということが問題です。そういう人は、いつまでたっても満たされた人生を送ることができません。前向きに生きることよりも、人のせいにして生きるほうがラクだからです。

《憎しみを強く思い出すとき》
1.自分が落ち込んでいるとき。
2.ものごとが思うように進まないとき。
3.鏡を見たくないとき。
4.みんながしあわせに見えたとき。

《憎しみを忘れているとき》
1.楽しいとき。
2.人に認められたとき。
3.鏡を見るのが楽しいとき。
4.他人を意識しないとき。

結局、いまの自分に満足して生きていれば、過去は過去で受けとめられるのです。過去を過去として受けとめられないあなたは、自分が満足のいく生き方をしてこなかったのではありませんか。

では、自分に満足のいく生き方とは、具体的にどういうことなのでしょうか。
1.いましたいことをする、したいことを見つける。
2.立派なこと、大きいことではない、ささやかなことを続ける。
3.自分をみがく。たとえば体をみがく、教養をつむ、おしゃれをする。
4.今日を好きなように過ごす。
5.自分の時間を持つ。

このなかのひとつでもいいのです。満足のゆく生き方をするために、要は何か目的を選んで続けることが大切です。前向きな活力はここから作られるのですから。あなたも「裏切られた気持ち」をばねにして、賢い生き方を探していきましょう。


でも、どうしても過去のことがひっかかって先へ進めない…。
過去がきちんと整理されていないといつまでも満たされない気持ちで暮らすことになります。そんなあなたは、いまでも過去の出来事に納得できていません。これはひとえに、他人に責任の一端を負わせてきたことが原因です。いつまでもこのような生き方を続けていたら、無気力な一生で終わってしまいかねません。なぜ、納得しない過去に執着するのでしょうか。

《ケースA》

ここにリンゴがある。
いま食べようか、食べないでいようか、考えていた。
食べたくないのなら、お母さんにちょうだい、と言われた。
どうしようかと迷った。いまは食べたくないけれど、きっとあとで食べたくなるだろう。
食べたいときに食べれば? と母のことば。
あとで食べることにすっか、と思った。
ところが、母が半分だけ食べてしまった。
そのうち、自分も食べたくなったけれど、そのときリンゴは半分しか残っていなかった。

《ケースB》

ここにリンゴがある。
いま食べようか、食べないでいようか、考えていた。
食べたくないのなら、お母さんにちょうだい、と言われた。
どうしようかと迷った。いまは食べたくないけれど、きっとあとで食べたくなるだろう。
食べたいときに食べれば? と母のことば。
食べたくもないけれど、あげたくもない。だからしばらく持っていよう、と思った。
でもそのうち、リンゴは腐ってしまった。
あのとき食べてしまえばよかった、お母さんにあげればよかった、といつまでも後悔する。食べなかった自分。やさしさがなかった自分。そんな自分に嫌悪を覚える。あたしはダイエット中なんだからこんなものを見せないでよ! と母に責任転嫁する。

ケースAもケースBも共通しているのは、自分で選択し、決定できない優柔不断な性格です。優柔不断は一見すると、人当たりのいいように見えることがあります。しかし、本心ではケチ精神を持ち合わせています。“なんでもほしい”症候群なのです。つまり欲張りなのです。

なぜそんなに欲張りになるのでしょうか。
それは、幼児期における親子の愛情が満たされないで育った「愛情飢餓」が原因です。「愛」がほしいという願望が「モノ」や「人気」を求める欲求にかわって成長したために、「モノ」や「人気」がたくさんあることで「愛」を得たという気持ちにさせられるからです。

《自分が納得した生き方の選択》

ここにリンゴがある。
いま食べようか、食べないでいようか、考えていた。
食べたくないのなら、お母さんにちょうだい、と言われた。
どうしようかと迷った。いまは食べたくないけれど、きっとあとで食べたくなるだろう。
食べたいときに食べれば? と母のことば。

食べられるのは惜しい、なら、自分で食べよう。いまどうしても食べないことにするんなら、お母さんにあげよう。いずれにしろ、両方を満たすことはできない、だからどちらかひとつの選択肢を選ぼう、自分の決定権で。



このようにすれば、後悔はありません。恋愛も仕事も、そのほかのことも同じです。自分に納得できる生き方をしていなかったことに、一刻も早く気づくことが大切です。自分の意思で一つの選択肢を決定する。そこで逃げないようにする。この場合の「逃げる」は「自分で選択せずに、他人にも責任を負わせる」ということです。

「自分はこうしたかったけれど、あの人がああ言ったから断りきれなかった」
「あの時は迷ったんだけれど、このほうがいいんじゃないかと、君が言ったから」
「迷う」とは言い換えれば自分の目的が明確でないということ。自分というものがわかっていなければ、ものごとはしょせん思ったようには進まないでしょう。そのために毎日が満たされないなら、自分がいま何を求めているのか、自分自身に対して問いかけてみることです。

***

エホバの証人の人生と縁を切る。
これはほんとうに苦し紛れ、ほんとうに傷つききわまった結果としての一大決心だったはずです。おおかたの人はだれも、「その後」のことなんて明確に持っていたわけではありません。だから、友人もなく、自信も持ち合わせないまま、ポーンと「世」に放り出されたかのように感じるものです。心細いでしょう。でもあなたは勇気ある決断を下し、いま、大胆な一歩を踏み出したんです。ちょうどいま、学校を中退したんだという気持ちを持って、真っ白な自分を認めてください。裸一貫であることを認めたら、人間って意外と強くなれるんですよ。

自分が何をしたいか。それが分からなければ、とりあえず、自分を採用してくれた会社の仕事に慣れることを目標としてみてはいかがですか。そして大切なのは、幾つかの選択肢のうち、ただ一つを自分の、自分だけの意思で選ぶこと。2世であるなら、「愛情飢餓」の状況にある可能性が高いでしょう。エホバの証人の親が熱心であればあるほど、その可能性は高いです。だから、自分で選ばなければならないことは、自分で決める、人に頼らない。これは第二の人生を建ててゆくときの鉄則です。

♪コートを脱ぐと新しい季節が動き出す(息もできない/ZARD)

いまは何も持たないけれど、自由がある。でも自由があるところには責任がついてまわる。怖がらないで、分不相応なことを求めなければ、何も自分を押しつぶすことはないです。


「世にはわれわれの力の及ぶものと、及ばないものとがある。
われわれの力の及ぶものとは、判断、努力、欲望、嫌悪など、ひと言で言えば、われわれの意志の所産の一切である。われわれの力の及ばないものとは、われわれの肉体、財産、名誉、官職など、われわれのせいではない一切のものである。

われわれの力の及ぶものは、その性質上、自由であり、禁止されることもなく、妨害されることもない。が、われわれの力の及ばないものは、無力で、自分を隷属的にし、妨害されやすく、他人の力の中にあるものである。

それゆえ、君が本来、君を隷属的にするものを自由なものと思い、他人に属するものを自分のものと見るならば、君は障害に遭い、悲哀と不安に陥り、ついには神を恨み、人をかこつものとなるであろうことを忘れるな。

これに反して、君が真に自分に所有するものを自分のものと思い、他人のものを他人のものと認めるならば、だれも君を強制したり、妨害したりはしないだろう。君はだれをも恨まず、非難せず、またどんな些細なことも自分の意志に反してなす必要もないであろう。だれも君を不必要に害せず、君は多くの人がそうであるように、作らなくてもいい敵をあえて作ったりしないであろう(エピクテトス)」


生きていこう、たった一度の人生。精いっぱい、思うように自分の華を咲かせよう!
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人の気持ちをとらえるとは相手の自尊感情を尊重すること

2005年06月21日 | 一般
親が子どもを叱るときに一般的なのは、声を荒げて恫喝する、というものです。あるいは子どもを侮辱して、しょげさせる。しかし親の言うことを聞き入れたらゆく言う。実は、これが「コントロール」と言われている間違ったしつけなのだそうです。恫喝するのは、恐怖によって従わせることですし、侮辱するのは自信を失わせ、子どもの心の内奥に怒りを沈殿させます。親の望むように振る舞ったときだけ良く言うのは、子どもの自発性や独創性を摘みとることであり、自分を見失わせる残酷な「調教」なのです。

大人になっても、大勢の人の前で侮辱して不服従の恐怖を思い知らせるというようなやりかたは定石手段です。エホバの証人の「助言」、「叱責」、特権を剥奪するという「懲らしめ」、そして「排斥」という村八分はみな、人の品格を辱め、貶めるやり方なのです。

大会などでは、部門の監督にも横柄な人はたいてい強圧的に話します。上下関係を思い知れと言わんばかりに、ね。でも相手の人に自分の言いたいことを聞き入れてもらうには、そういうやりかたは実はサイテーです。でもエホバの証人にとってはそれでもかまわないのです。彼らにとって、人間関係は温かく親密なものでなくていいのです。彼らの目的は人間には上下の区別がある、ということをはっきりさせることであるからです。

では逆に、温かいリレーションを築き、親密な人間関係を作るにはどのように話すか、ということが今回の記事です。大ヒットした(「話す力が面白いほどつく本」/櫻井弘・著)より一部分を紹介します。

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「人の気持ちをつかむ、とは相手の自尊感情を尊重すること」


人は誰でも、自分自身を認めてほしいものです。今、自分で片づけようと思っていた矢先に、人から「片づけないとダメでしょ!」と言われると、「今やるところだったのに!」などと反射的に反発したくなるのです。「ダメじゃない!」「何やっているの!」などと言われると、自分自身の人間性や人格までも否定されているような気持ちになってしまいます。その結果として表れるのが、相手に対する「反発」なのです。

イソップ物語の中に「北風と太陽」という有名な話があります。ある日、北風と太陽が、コートを着た旅人を見て、そのコートをどちらが先に脱がせられるかという競争をしました。北風は旅人のコートを吹き飛ばそうと、思い切り冷たい風を吹きつけました。しかし、それを受けた旅人は、飛ばされそうになりながらも、逆に着ているコートでしっかり体をガードして、ガンと踏ん張っていました。

今度は太陽の番です。太陽はその暖かさをじっと旅人に注ぎます。すると旅人は歩いているうちに暑くなり、自分から進んでコートを脱ぎはじめた、という話です。「コートを吹き飛ばしてやる!」と言わんばかりに、一方的に強い風を旅人に向かって吹きつけた北風よりも、暖かい陽射しで旅人を見守っていた太陽によって、旅人は自らコートを脱いだのです。

わたしたちもこの旅人と同じように、人からいきなり否定的なことばを一方的に言われると、かたくなにガードしようとするものです。たとえ有益なアドバイスでも聞き入れたくない心理状態に固まってしまいます。つまり、北風の冷たさは、「否定的」な言い方です。太陽の暖かさは「肯定的」な言い方のことです。肯定的な言い方は、相手の人に受け入れてもらうときに、もっとも重要な要素のひとつです。

人間は誰でも「自尊感情」を持っています。だから、自分自身を認めてくれたうえで発せられた肯定的なことばづかいは、受け入れられやすいのです。したがって自分が相手に対して何かを言うときには、相手の自尊感情を尊重した上で、できるだけ「肯定的な」ことばづかいをすることが、結局は自分の言いたいことを聞き入れてもらうための最良の方法なのです。

ここで、頭ごなしの「否定的な言い方」と、相手の自尊感情を守った上での「肯定的な言い方」の違いを具体例で示しておきます。

否定的:「ダメじゃないか、遅れて!」
肯定的:「君を待っていたんだぞ!」

否定的:「どこに目をつけているんだ!」
肯定的:「ここにあるよ」

否定的:「早く起きなさい!」
肯定的:「今、何時か分かってる?」

否定的:「こっちの目を見なさい!」
肯定的:「分かるかな?」

否定的:「こんなこともわからんのか!」
肯定的:「ここまではわかっているんだね?」

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ちょっと言いまわしを変えるだけで、こんなにも雰囲気が違ってくるんですね。ことばに「言霊」を宿らせるテクニック、とでも言えるでしょうか。ただ重要なのは、こういう技術以前に、自分に自信がなく、誰か他の人を妬みに思ったりしていると、どうしてもとげとげしいことば遣いになります。逆転思考ですが、呼気よりも吐息の方を長くして腹式呼吸を行い、意識的に言霊の宿った話しかたをすることによって、心の中のどろどろしたものを徐々に追い出すこともできるのではないか、と思います。なぜって、そういう話しかたを心がけていれば、人間関係が良くなりますから、心が満たされてゆきます。人間関係によって心が満たされること、それが最大の幸福だとわたしは信じています。


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さわやかな人あたりのスキル

2005年06月14日 | 一般
日本の社会では上下関係は厳格で、自分をより高い位置に置くことに生きがいを見いだす風潮が今でもありますね。エホバの証人はそういう風潮がもっとピュアなすがたで存在しています。上下関係というのはたとえば軍隊とか会社とかの組織で求められることであって、家庭とかの人間関係まで持ち込むものじゃないと思います。エホバの証人の人生が疲れるのは、家庭まで「頭の権」という家父長権に則るよう要求されていて、ヨコのつながり、人間としてのつながりが十分に持てなかったところにあると思います。夫と妻は、支配‐被支配の関係じゃなく、対等のパートナーであるときにうまくゆくものだと思うのです。エホバの証人の影響から脱却する、ということはこういう観点の転換を図るということでもあると思います。今回は、株式会社「話し方研究所」所長の福田 健氏の著書、「好かれる理由、嫌われる理由」から一つの点を引用してみます。話しかたひとつに、人の精神態度は顔を出すものですし、意識的に変えるならば人間関係を豊かにすることができるのです。ぜひ日常の場面で実践してみてください。


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* 相手を不快にさせる言い方、さわやかな印象を与える言い方 *

以前、わたしは人に向かって、「話すことの反対語は何だと思いますか」と、問いかけていた時期がある。すぐ浮かぶ答えは「聞く」だが、それではあまりに月並みだから、ほかに何かあるのではと、相手はしばらく考える。 「話す」「聞く」は反対語の関係にあるのではない。話しながら聞き、聞きながら話している。つまりイコールなのだとわかってもらいたいために問いかけるのだが、あるとき、「あなたはわたしを試しているのですか」と、きつい口調で責められた。試すつもりなどではなかったが、「自分の結論を持っていながら、どうだ、わからないだろうと言われてるみたいで、気分悪いですね」 …あなたはいい気分かも知れませんがね、と言いたげで返すことばに詰まった覚えがある。

以来、「何だと思いますか」に類する問いかけが気になって、現在に至っている。注意してみると、自分の持論が背後にあって、そちらを前面に押し出そうというつもりなのに、あえて「どう思うか」「何だと思いますか」と問いかける人に、よく出くわすのである。そういう人々に共通しているのは、自分の考えに自信があって、相手の答えが自分の考えに合っていないと、上から見おろした態度を取るところである。

「人間って、教育で変わるものですかね、どう思いますか」
若い設計士からこのように質問されたときも、彼は、人は育ちや家庭のしつけで大半が決まってしまうものだという持論を持っていて、その上で聞いてきたのだった。育ちも家庭のしつけも広い意味では教育に入る。しかし彼があえて言うところの教育とは、社会人になってから会社が行う社員教育のことであった。

「わたしは面接のとき、しつけのよくできている若者を採用するようにしています。入社してからの教育ではもう遅いんです」
彼の持論は、反論の余地を与えない強固なものだった。だとすれば、「どう思いますか」と相手の意見を求める必要などなかったのではないか。「わたしはこう思う」と、最初から意見を言ってくれたほうが、こっちもとまどったり、見下されているような不快感を味わわずにすんだと思う。

「どう思う」と問いかけの形をとる人は、自分を一段上に置いて相手を牽制する。そのあとで自分の意見を述べることで、発言の効果を高めようとしているのである。かつてわたしが非難されたのも、気づかないうちに思い上がった態度が出ていたのだろう。

「何だと思いますか」には、相手を試す、意地の悪さが潜んでいるようだ。上司が部下に使う「キミ、どう思う」にも似通った心理が働いている。
「わたしはこう思いますが、あなたはどう思いますか」
このほうがずっとさわやかでよい。

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自分が知っていても、相手は知らないことがあってあたりまえです。人それぞれ興味、関心はちがいますからね。逆に自分が知らなくって、相手が精通していることだってたくさんあります。人との違いを、優劣を競うために利用するなんて、器の小さいことだと思いませんか。わざとそんなことをするのはみっともないことですが、知らず知らずにやってしまうことってありますよね。自分のくせが周囲の人に不快感を与えてしまっているな、と感じたら積極的に自分の方を変えてゆくようにすれば、世の中にどんどん融け込んでゆけると思います。
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更新されたJWIC

2005年06月07日 | 一般
JWIC が更新されました。そしてとても残念に思う投稿を読みました。

http://www.jwic.com/forum/030705.htm の記事です。ぜひお読みになってください。「エホバの証人の自殺と輸血拒否の問題」というタイトルです。「第3部、一般の方々からのメッセージ、質問等」に投稿されています。

女の子が自傷というにはあまりに自殺に近い傷を負わせて、何度も救急車で運ばれる。傷が深すぎて、いつも血まみれで病院に運ばれる。母親が呼び出されるのですが、彼女は娘にひと言の気遣いのことばもかけるのでない、救急隊員や医師たちを驚かせたことに、娘に向かって聞くに堪えない罵倒のことばを浴びせる、というのです。そして、ひたすら「輸血をするな」と説得するのだそうです。

その女の子は結局は死ぬのです。
最後に救急車に乗ったときには、かみそりの刃を刃になっていない部分まで深く首に刺しこんだのだそうです。血が「噴き出していて、車内は真っ赤」だったそうです。こんな恐ろしい描写まで書いて申し訳ありません。ただそこまで深い傷を自分に負わせたその女の子の「怒り」に、わたしは心底共感できるのです。そしてこの怒りこそ、その女の子の訴えたいメッセージなのです。だから「そこまで気色悪い書きかたする必要ないでしょう」なんてお嬢さんぶりっ子しないで、彼女の訴えに正面から向き合ってあげてください。

そしてその子の母親は、その期に及んでも「輸血をしないでください!」と叫ぶのです。
「あんたの娘さんはもう死んでるんだよ!」。
外科医は怒りをあらわにそう叫び返したそうです。その時には娘さんの蘇生術が施されていたのです。その病院の救急では、その母娘は「名物」になっていて、医師も看護士もみな、その娘さんに同情的になっていました。「きっと助けるからね」、ある看護士は義憤に駆られ、意識の混濁した娘さんに声をかけるのです。そんな訳ですから、一目でもうダメかと分かっていても、必死で蘇生を行っておられたのです。その現場で母親は、輸血をするなと血相を変えて言うものですから、外科医は怒ったのです。「虐待の報告をする用意がある」、病院はそう言いました。

70年代、80年代じゃあるまいし、この2005年の、一般のエホバの証人たちがすっかり醒めてしまって、無気力と惰性に陥っている時代に、まだこんな狂信的信者が生き残っているということに、絶望的な思いになりました。この母親には、自分しか見えていない。この母親の態度は、要するにエホバの証人としての「あたしの立場」に傷をつけるな、あたしが信仰しようとしているんだから、おまえ(娘)はそれを支持し、見守れ、という要求をつきつけているんです、自分の娘に。これが「子どもを親のカウンセラーとする」、あるいは「親子逆転」ということの実例なのです。親が自分の情緒的安定のために、子どもに支えになれというのです。

この母親の会衆では、この母親にこのように振る舞うようにさせる「力」があるのでしょう。輸血されてしまうと会衆での立場がどうなるか、その恐怖がこの母親にあのような狂信的な振る舞いをさせたのだと思います。エホバの証人の「証言活動」は基本的に「恐怖」に動機づけられている。神へのあふれる愛が動機じゃない。あるいはこの母親の理解力、知力がこの程度のまま、会衆の長老は何の指導もしなかったのです。いつもどおりにそこそこ時間を入れ、そこそこ雑誌・書籍を配布し、そこそこものみの塔に書いてあるとおりに注解していれば、活発な状態だと判を押して放置していたのです。ただ一つのものの見方に固着する、させる。信教の自由は保障されているから口出しするな、そんな言い方はできませんよ。「自由」は多くの選択肢から自分で選択できてはじめて「自由」なのです。いろんな意見を比較考量して、しかもなおより良い選択ができてはじめて自由が意味を成すのです。たった一つのものの見方だけしか知らずに、これは自由の行使だなんて言えないのです。それはむしろ「偏執」と呼ばれるものです。批判を許さず、成員の生命より体制の維持をまず優先させる、エホバの証人は正真正銘のカルトです。社会悪です。必要悪でさえないです、こんな宗教。現役の人たち、このケースはこの母親が未熟なだけだ、なんて言って軽く見過ごさないでよね。

肝心な問題に触れられるとエホバの証人は、組織の一致を乱すとか、おまえにあれこれ言う資格はないとか、言います。そういうのだってりっぱな組織擁護です! 現役の人たちにとっては、組織は自分自身なのです。自分を組織に同一化させているのです。組織こそ自分のアイデンティティなのです。キツネが胸を張っていられるのは、後ろにトラが控えていればこそであって、組織が価値を失えば自分の拠りどころを失うのです。自分で考え、自分で目的を持ち、その目的に向かって挑戦し、いくばくかでも成果を獲得する、そういう生き方をしてこなかったので、「自分」というものを持たないのです。誰かに何かの目標を与えられなければ、何をしていいやら分からないのです。だから、疑惑や不満があってもエホバの証人に留まろうとするのです。そしてこういう事件が明るみに出ると、目をそむけるのです。掲示板なんかにこういう事件をもとにして批判が書き込まれると、有無を言わさず削除したりします。

世の一般の教会では、個人の生きかた、個人的な目標を与えたりはしません。それは自分の責任で個人的に決めることなので、他人から与えられるものではないのです。自分の生きる目標は自分で決めるべきものなのです。自分のアイデンティティは自分で確立する、それができない人たちが、「目標」を設定してくれる強力な人、団体に頼るのです。これこれの手順でこれこれの仕事を果たし、これこれの掟を万難を排して遵守すれば君は価値の高い人間だ、と評価してくれる人、集団を必要とするのです。それがナチスのような政治的な団体であったり、オウム真理教やエホバの証人のような宗教だったりするのです。エホバの証人という宗教に変革を期待する人たちは、自分で生きる意味や目標を見出すことができない人たちだと思います。いえ、そうだと確信をこめて言います。エホバの証人の組織がまともになれば、他者から与えられた目標を取り入れて生きることに、引け目を感じることがなくなるからでしょう。

人間が、自分で生きる意味を見出せないように育てられる時代、これこそ最大の現代の「病」だと言えば、大げさでしょうか。かの母親にとっては、エホバの証人の世界で居場所を守ることだけでしか生きている実感をもてなかった、輸血を拒否し、娘を心理的に追い込んででも。娘は自分の情緒的な必要のための道具でしかなかった。またこんな人々を寄せ集め、そこから賞賛を受けなければ、自分の値打ちを実感できない組織の指導者たち。彼らにとっては数百万の信者たちは、自分の情緒的安定のための道具でしかないのです。信者たちが一命を賭して彼ら指導部が創作した「真理」を擁護したときに、ようやく「自分は誰かに認められている」と信じられる指導部の人たち…。こんなふうにしてしか生きていけない人間を生み出した社会…。これを何というべきでしょうか。 …わたしはこれも生命の宿命だと思うのです。種というものは必ず絶滅するか、変化してゆく(進化する、もしくは退化する)かするものなのです。このことについてはまた別の機会に書いてみます。

わたし、村本さんの許可が下りたらコピーして、この件でちょっと書信で日本支部に抗議します。輸血の問題に対処するスキルをきちんとつけるように長老たちは徹底的に見届けろということ、拒否の方法にもいくつかあるみたいだけれど、あいまいなことを言わずにはっきりこうしろと指示しなさい、と。個人的な決定だからなんて言わせない、このケースじゃどうみてもこの母親に冷静な判断力があったとは思えない。子どもの権利を尊重するべきこと、子どもが心理的に追いつめられているんなら、そこまで追いつめた親なんかに伝道者の資格を与えるな、と。 聖書も言っています、家の者をきちんと治められない人がどうして神の会衆の世話ができるでしょうか、と。そんな人に「唯一絶対で神聖」な神の名を代表する資格なんてないのです。

今日は一日中、気分がすぐれませんでした。JWIC の管理人さんが薦めておられるように、この件は「症例報告」というかたちできちんと記録に残しておいてほしいです。こんなことがいつまでも続いていくのは絶対、絶対間違ってるし、もういいかげん終わらせなければならない。情緒的に未熟な人間が寄り集まって何を信じようと、好きにすればいい。でも子どもを巻き添えにしないで! 子どもには自分で自由に選択させて。つまりいろんな考え、批評にふれさせて、その上で決めさせて。それが信教の自由であるのだから。これは、このケースはまぎれもなく虐待です。マジでキレてます。

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