Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

不平等条約を結ばされる日本 (上)

2008年01月20日 | 日本のアイデンティティー
ペリー提督は、日本との交易を始めることには成功しませんでしたが、12条からなる日米和親条約締結にこぎつけました。

当時の合衆国大統領ミラード・フィルモアの徳川将軍宛の親書には、
「合衆国の蒸気船が毎週中国へ航海しているが、これらの船は貴国(日本)の海岸を通過しなければならず、暴風の際には貴国の港に避難しなければならない。だから、わが国の船に対して貴国の友情、寛大、懇切とアメリカ国民の財産の保護を期待する必要がある。わたしはさらに、アメリカ国民が貴国民と交易することを許可されることを願う。もちろんアメリカ政府は、彼らアメリカ国民が帰国の法律を犯すことを許したりはしない。

「われわれの目的は、友好的な交易であり、それ以外の何ものでもない。貴国はわれわれが喜んで購入する商品を生産することができ、われわれは貴国の国民に適した商品を生産し、供給するであろう。

「貴国には豊富な石炭が産出する。これはわれわれの船がカリフォルニアから中国に航海する際に必要なものである。われわれは、貴国の指定された港でいつでも石炭を購入することができればたいへん幸せである」(「『ザ・タイムズ』にみる幕末維新」/ 皆村武一・著)と記されていました。

アメリカはまず、当時の中国との貿易が主な眼目であったのでした。これは日本にとってはある程度幸いしたといえるでしょう。日本が中国のように完全植民地化を意図した本格的な圧力を受けなかった理由の一つでもあったのでした。

またペリーには、このような命令も与えられていました。
「あらゆる議論と説得をしても、日本政府から鎖国政策の緩和や捕鯨船の避難・遭難の際における人道的取り扱いについての保証を確保することができない場合には、語調を変えて、アメリカ政府は、目的達成のために断固たる態度をとる、ということを決定している旨を日本政府に知らせるべきである。もし上述の点に関して何らかの譲歩がえられたならば、条約という形にもっていくことが望ましい。…大統領には戦争を宣言する権利はないこと、この使節団は平和的な性格のものであり、艦船および乗組員の保護という自己防衛以外の場合に武力を行使してはならないということを、司令官は肝に銘じておかなければならない」(上掲書)。

つまりペリーには、何が何でも通商の扉をこじ開けなければならない、という使命はありませんでした。大統領親書に明記されていた希望に関して、「何らかの譲歩を引き出す」ことができればよかったのです。それでも「アメリカの断固たる」意志を示すために、「堂々たる兵力の示威」をデモンストレーションするようにとも命ぜられていました。実際に大統領親書を日本の地で渡したいことを伝えるのに、もしそれすら拒否されるならば、「すみやかに一戦に及び勝敗相決し申すべし」と強硬な態度をも見せました。

実はこのとき、ペリーと交渉をした日本側全権大使、林大学守(はやしだいがくのかみ)の巧みな交渉術が、交易を阻み続けさせたのでした。モリソン号事件という出来事がありました。アメリカが漂流した日本人漁民を救助し、彼らを送還するついでに交易を始めようとして、モリソン号を浦賀へ送ったのですが、当時日本は「異国船打ち払い令」という法律があったので、浦賀奉行が猛撃して追い返しました。

アメリカ国務省はこの事件をネタにして、「日本は自分の国の漂流民でさえ助けない未開国、野蛮国だ、そういう「不仁の至り」を戦争で打ち凝らしてやる、というアメリカ得意の正義の戦争の論理で迫ろう、という戦略を使ったのです。しかし、ペリーが戦争の意図を辞さない意思を示したとき、林大学守はこう受け答えをしたのです。

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「時期によれば戦争にも及びましょう」と切り出した林は、日本の政治は「不仁」ではないし、万国同様人命を重んじている、だから300年に渉る太平が続いている、と述べて、ペリーの「不仁の国」発言を批判している。

日本近海で他国の船が遭難したときは薪水食料を供給している。漂流民は長崎へ護送し、オランダを通じてそれぞれの国へ返してきた。だから非道の政治ということは一切ない、と。

貴国にても「人命を重んじる」ということであれば、「さして累年の遺恨を結んでいるというのでもないところ、強いて戦争に及ばなければならないと言うほどのこととも思われない。使節にても、とくと相考えられて然るべき儀と存知そうろう」と結んだ。



「累年の遺恨」ではない、という指摘がみごとにきいている。モリソン号事件はこのときより17年前の事件であった(1837年の事件)。たしかに累年(年々、の意。漂流民をいつもいつも必ず武力で追い返してきたのではない、という意図を伝えている)の事件ではなかった。17年前の事件を戦争の理由にするのはまったく強引である。

林全権大使の応答は、人命保護を口実にする強国の「正義の武力行使」の正当性を問うものであろう。林は「累年の遺恨」ではないというペリーの言い分の弱点を見つけて、一層的確に、戦争こそが最大の非人道だということを巧みに指摘したのである。


(「幕末・維新」/ 井上勝生・著)

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わたしがここで言いたいのは、軍事力でもテクノロジーでも圧倒的に弱者の立場であった幕末の日本が、強国のアメリカに対して外交術によって独立を守ることに成功した、ということです。正義の戦争を振りかざす軍事強国アメリカにほいほい言いなりにならなかったのでした。

最近、新テロ特措法案が衆議院再議決で成立しました。福田総理は最初、新テロ特措法は廃案にして、次の通常国会で出し直そうとしていました。ところが昨年、ブッシュ米大統領との会談で給油活動の早期再開への圧力を受けたとたん、強行採決路線へ転換しました。(「週刊金曜日」2008年1月18日号より)まるで犬です。愛玩犬ですね、アメリカの。一声恫喝されればオロオロすぐ手のひらを返します。

イラク戦争は大量破壊兵器が準備されているというウソを口実に始められたのでした。そのうそが発覚しても、日本はアメリカの言いなりになっています。イラク戦争そのものが非人道的なのです。なぜ読売新聞や産経新聞は、給油した油がイラク戦争に使われていた可能性が発覚したのに、給油活動を「人道支援」と言えるのか、わたしにはさっぱり理解できません。

日本は現在、ヨーロッパ諸国以上の通常兵器を装備した軍事大国です。でも幕末の日本はそうではありませんでした。中国の外側に位置する弓なりの長い国土を持つ国、という地政学的要素に助けられたとはいえ、林大使の交渉術、西欧列強の戦争に巻き込まれまいとする意志、信念には、今日の日本の政治家はおおいに学ぶところ大だと、わたしは思います。

今の政治家や外務官僚が当時の幕閣より劣っている、というのではありません。スキルではむしろずっと優れているでしょう。でも、信念や、ヴィジョンがあやふやなのです。日本をこういうふうにしよう、という強い信条がないのではないでしょうか、今の外務官僚には。ひたすらアメリカ頼りの外交でしたから、アメリカに見放されそうになったり、アメリカから恫喝が加えられるとカメのように首をすくめます。林大学守は、アメリカから強硬な態度を示されても、引きませんでした。交渉術というようなスキル以前の、これは信念とビジョンの差だとわたしは思うのです。

ペリーはこうした日本側の巧みな外交によって、交易は結べなかったものの、日本側が譲歩できるといった条項を盛り込んだ、
①薪水食料、石炭その他の欠乏品の供給、
②漂流民の救助と保護、
③下田・函館の二港の開港、
④領事駐在、片務的最恵国待遇などを含む日米和親条約を締結させました。

いうまでもなく、「片務的最恵国待遇」というのは日本がアメリカを「最恵国待遇」するということであり、アメリカは日本を「最恵国待遇」しない、という意味です。これは不平等な条約でした。しかし、実際に戦争するとなると、日本側に多大な損害が生じることは明らかです。日本側は西欧列強に較べ、武備がお粗末でした。外国強硬排除、つまり攘夷は賢明な選択ではないということは、当時の幕閣にも明らかに理解できたのでした。理解しなかったのは、当時の天皇、孝明天皇だけでした。





長い間、放置していた「日本のアイデンティティー」シリーズですが、今年はがんばって書いてゆくつもりです。ロシアとアメリカの来航は日本に危機を生じさせ、阿部正弘、堀田正睦といった進歩的な老中や、岩瀬忠震といった開明的な下級武士が登用され、また経済力を蓄えた雄藩の外様大名も幕政に参加するようになります。幕府の伝統的体質が変わろうとしたとたん、反動保守派の井伊直弼によって潰されるのでした。NHKの今年の大河ドラマのヒロイン、篤姫もこの時期の人物です。開明的大名たちや公家が安政の大獄と京都の8.18政変によって失脚していくと、今度は藩士や浪人が倒幕の原動力を担ってゆきます。

江戸時代と明治時代、明治時代と昭和時代には「断層」があるのでしょうか。わたしはむしろ連続していると思います。経済大国を標榜しようと躍起になる日本の源流は、その精神は明治時代にあるとおもうのです。そして明治時代は決して江戸時代と断層を持った時代ではなく、武家の精神が生きたまま受け継がれ、侵略戦争へと日本を導いていったのです。わたしはそう考えています。「日本のアイデンティティー」シリーズはその辺をおってみようと考えています。近代日本史を勉強しもってなので、不定期にはなりますがお読みになっていただければうれしいです。




さて、ペリーが去って、今度はアメリカは本腰を入れて、日本と通商条約を結ぼうとします。タウンゼント・ハリスがその命を受け、来日します。これを機に、日本の政局は大きく動揺します。(下)では安政の大獄にいたる過程を調べてみます。
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1 コメント

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どうもです。 (幹雄)
2008-01-20 17:45:01
かなりイイ感じの副業を見つけました。コレ→http://y-seikatu.lppulu.net/y/utho7/
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