Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

ペリー艦隊日本遠征の背景

2007年03月21日 | 日本のアイデンティティー
捕鯨反対運動の先鋭的な国はというと、まずアメリカですよね。鯨は実は十分に数が増えているという報道も散見します。エホバの証人は昔、鯨肉は十分に血抜きがされていないからというので、「血を食べてはならない」という聖書の記述を字義通りに解釈しているため、鯨の肉を食べなかったのです。「食べてはいけない」という暗黙の了承がありました。わたしは、たしか機関紙にも記述があったように思うのですが、今はもうエホバの証人関係の文書はすべて処分してしまって、残っていないので証拠として示すことができません。「まいけるのおうち」というブログの管理人さんがどこかで書いておられたのですが、鰹も血抜きが不十分なのに、それは咎められない、それは矛盾だと言っておられました。とにかくエホバの証人というのは教理も信者の信条と行動も、ほんとにちぐはぐなのです。

ところで、明治維新をもたらしたアメリカ軍の1853年の来航ですが、アメリカが日本に開国を強行しようとした背景には、その捕鯨業の上げる利益があったのです。

-----------------------------

アメリカでは、1850年代初頭に、議会でアジアへの遠征と日本開国要求の決議が行われた。開国要求の主な理由として挙げられていたのは、①日本近海で操業している捕鯨業者の安全確保と、②アジア諸国と交易する(ルナ註:特に人口の多い大国、中国との交易)貿易船の燃料・食料品の供給ということであった。

1851年12月に、アメリカ海軍から議会上院へ、日本遠征計画についての報告が提出されている。それによると、アメリカにとって捕鯨業は非常に重要である、たとえば、1849~50年の二年間で、この地域(日本近海)での捕鯨から得る収益は1741万ドルを超え、出航した船は299隻、乗組員数8970人に及んだ。以上のほかにも、多数の漁民がこの地域で捕鯨業に携わっており、アメリカの東洋との貿易はこの捕鯨収益に比べるとそれほど大きくない…という。

アメリカが日本開国を企てたのには、主に日本近海やオホーツク海での捕鯨業者の安全と利益を守り、さらに日本との通商をも求めてのことだった。イギリスの新聞、「ザ・タイムス」はこのことをアメリカからの通信として1852年3月26日付でこう報じている。

「日本の海岸線の長さはアメリカの東海岸より長い。日本はアメリカ東海岸の正反対側にあるだけでなく、“ 本州 ”と“ 北海道 ”のふたつの島の間に“ 津軽海峡 ”があり、わが国(アメリカ合衆国)の捕鯨船は毎年そこを通過し、また木材や生活必需品の調達をはじめ、悪天候のために非難を余儀なくされることもある。

「しかし、日本は外国と通商関係を結ぶことを拒否しているだけでなく、外国の船舶が遭難したときにすら港に入ることをも拒否し、海岸に近づくと砲撃する。そして、暴風のために、海岸に漂着すると乗組員を捕虜にし、投獄して、実際に殺してしまうこともある。

「世界の海岸の一部分を占有しているどの国も、他の国とあらゆる通商関係を拒否する権利は有しない。このような権利を侵害する野蛮国を排撃することは、文明国およびキリスト教の任務である。日本はこのような権利を否定している国である。アメリカの多くの捕鯨業者がその犠牲になっている。アメリカ政府はヒューマニティの立場からも日本のこの態度をやめさせるべきである」。


(「『ザ・タイムス』にみる幕末維新」/ 皆村武一・著)

-----------------------------

こうした日本への見方には、幕府の鎖国・幕藩体制の徹底維持という強硬な対外姿勢が事実ありました。

-----------------------------

1783年、カムチャッカに漂流していた伊勢の船頭幸太夫ら数名の漁民を、ロシア政府使節ラックスマンが北海道根室に送り届け、ついでに幕府に通商を求めたが、幕府役人は、外交交渉は長崎のみで扱うといって、これを追い返した。

1804年、ふたたびロシア使節レザノフが漂流日本漁民を送り返しに、今度は長崎に来て、通商を求めたが、幕府は鎖国という「祖法(先祖代々の基本法)」があるということを理由に、にべもなく追い返した。

1808年、オランダと戦争をしていたイギリスが、軍艦フェートン号を長崎に派遣し、出島のオランダ商館を襲撃した。

その後にも、日本近海に出没するイギリスその他のヨーロッパ諸国の商戦や捕鯨船は次第に多くなり、時には薪水を求めて上陸もした。

幕府はこうした時流に対しても、鎖国政策を強硬に守ることをはかり、1825年には、たとえ薪水を求めるものであっても(つまり侵略行為ではなくても)二念無く打ち払えと全大名に令(異国船打ち払い令)を下した。


(「日本の歴史」/ 井上清・著)

-----------------------------

幕府の開国への忌避の強硬さは蛮社の獄といわれる蘭学・洋学への弾圧姿勢にはっきりと伺えます。オランダ商館付き医師として日本に滞在したドイツ人医学者シーボルトが1829年に帰国するときに、日本の天文学者の高橋景保(かげやす)がシーボルトの持っていた「ナポレオン戦記」を求めました。景保は自分の持っていた伊能忠敬が作成した日本地図を交換にしようとしたのです。これが幕府の知るところとなり、景保は売国奴として死刑に処されました。これをきっかけとして蘭学・洋学への弾圧が強硬に行われるようになり、1839年の蛮社の獄へと発展したのでした。ただ、この景保は異国船打ち払い令を提唱した人です。

景保は1824年に、このような提案を幕府に上げています。
「近年イギリスの捕鯨船が浦賀その他にたびたび上陸するが、それは日本への軍事行為ではなく、 《 異人共本国を出候て数十ヶ月洋中に罷在、食物ハ野菜物乏く魚肉計多く相用、土を踏み申さず、潮の気にのみ包まれ居候故、皆腫れ病(ビタミンC不足から来る壊血病など)を受候間、当国地方へ来着仕候ハ、皆其薬用之野菜・果実を乞ヒ候為而巳(のみ) 》、 
 つまり壊血病などを病んでいるので、薬用としての不足する野菜や果物を求めるだけであった。(「日本史史料3 近世」/ 歴史学研究会・編)」

しかし、

「《 我国之漁人に親しみ度存候処より、自然彼国之教法(キリスト教のこと)を勧メ□誘可仕義も難計候、既に去年松平右京太夫領分之漁船江(=へ)異国船より教法之書一冊投げ込み、同年、松平陸奥守領分漁船江教法之蛮書一冊投げ込み、又候(またぞろ)五月にも同所漁船江投げ込み候事も有之候、然ハ愈(いよいよ)其意有之証拠に御座候… 》、
 つまり、異国人が漁民と親しく交易などするようになれば、キリスト教が布教される可能性がある、現に異国船が松平領(どこかルナは知らない。歴史に詳しい方ご存知ですか?)で漁民の船にキリスト教の書物を投げ込むという事件が起きている、これがその証拠だ」。(同上書)

そこで

「欧羅巴之法にては、海辺所々に大筒台場を備へ有之、…通信不仕国之舶地方近く相見え候得者、其最寄之台場(から)玉込無之空砲を放し候、来舶之者是を見候て、船を寄せ間敷処なるを知り候て、其処を去り候事通例に御座候由、…
 ヨーロッパの習慣では海辺に砲台を築いて、協定を持たない国の意図の不明な船舶に対して空砲を撃って追い払っている…(同上書)」

だから日本もそれにならって威嚇攻撃を行って、外国船が寄り付かないようにしよう、と提案したわけです。この間に、アメリカ船に対してモリソン号事件が起きています。異国船打ち払い令に従い、1837年、日本人漂流民7名を送還することを名目に、通商と布教を目的に浦賀港に来航したインガソル船長のモリソン号が砲撃を受けて退去させられました。モリソン号はその後、琉球を経由して清国と密貿易を大々的に展開していた薩摩藩山川港に入稿しようとしますが、ここでも砲撃を受けて空しくマカオに戻りました。この事件における幕府の排外政策を批判した高野長英や渡辺崋山が投獄され処刑されますが、これが蛮社の獄です。

しかし、オランダを通じてヨーロッパ諸国の軍事力、科学力、工業力の大いさを知らしめるニュースが入り込みました。アヘン戦争において中国(清帝国)がイギリスに大敗して、植民地化されたのでした。その方法は、「南京条約によって香港島をイギリス直轄領として割き取り、広州、上海など五港を開港させ、治外法権・関税協定権、一方的な最恵国待遇を受ける権利などを押しつける(「日本の歴史」/ 井上清・著)」というものでした。

幕府は異国船打ち払い令を急遽廃止し、薪水を求めるなら給与するように言い渡します。しかし、冒頭で「ザ・タイムズ」紙の記事を紹介したように、アメリカの捕鯨業は日本近海で大きな利益をあげるようになってゆきます。そこでついに日本の門を半ば強制的にこじ開けようという機運が高まってきたのです。

-----------------------------

捕鯨業者の要請や議会での討議をうけて、アメリカ大統領フィルモアは日本の幕府に向けて次のような親書をペリーに持たせた。




大統領が貴国に派遣するのは宣教師ではなく、大統領自ら指名した高級役人である。彼らに命じて貴下に対する挨拶と希望を託し、両国の友好と通商を促進するために赴かせる。…カリフォルニアはアメリカ合衆国の一部であり、そこから貴国まで蒸気船で20日以内に到着することができる。わが国の船舶が毎年、いや毎週カリフォルニアと中国の間を航海している。これらの船は貴国の海岸を通過しなければならず、暴風の際には貴国の港に避難しなければならない。

それゆえ、わが国の船に対して(日本の側の)友情、寛大、懇切とアメリカ国民の財産の保護を期待しなければならない。アメリカ国民が貴国民と交易することを許可されることを願う。しかしながら、アメリカ政府は彼ら(アメリカの船舶のクルーたち)が貴国の法律を犯すことを許すものではない。

われわれの目的は、友好的な交易であり、それ以外の何ものでもない。貴国はわれわれが喜んで購入する商品を生産することができ、われわれは貴国の国民に適した商品を生産し、供給するであろう。貴国には豊富な石炭が産出する。これはわれわれの船がカリフォルニアから中国に航海する際に必要なものである。われわれは貴国の指定された港でいつでも石炭を購入することができればたいへんしあわせである。

そのほかのいろいろな点において貴国とわが国の交易は、両国に多くの利益をもたらすであろう。近年における両国の接近によってどのような新たな利益が生じているか、そしてまた友好関係と交易の目的は何であったか、このことは両国の統治者が肝に銘じておかなければならないことである。


(「『ザ・タイムズ』にみる幕末維新/ 皆村武一・著)

-----------------------------

これだけみれば平和的ですが、ペリーには別にアメリカの決然たる命令が与えられていたのです。

-----------------------------

あらゆる議論と説得をしても、日本政府から鎖国政策の緩和や捕鯨船の避難・遭難の際における人道的取り扱いについての保証を確保することができない場合には、語調を変えて、アメリカ政府は、目的達成のために断固たる態度をとる、ということが決定している旨を日本政府に知らせるべきである。

もし上述の点に関して何らかの譲歩が得られたならば、条約という形に持っていくことが望ましい。…(しかし)大統領には戦争を宣言する権利はないこと、この使節団は平和的な性格のものであり、艦船および乗組員の保護という自己防衛以外の場合に武力を行使してはならないということを、司令官は肝に銘じておかなければならない…という議会と大統領の意思が命令として与えられていた。

(上掲書)

-----------------------------

ここから伺えるように、アメリカの来航は強い意志を持ったものでした。ペリーは、アメリカ合衆国大統領の親書を日本の「皇帝」に直接手渡したい、それを拒否するなら武力行使に訴えて日本に上陸し、直接捧呈(ほうてい:手で差し出す、の意)すると脅迫し、当時の国際法である「万国公法」を破って、領海と定められる30カイリを侵し、江戸湾に測量船を侵入させます。それでもペリーの要求が叶わないときには、来年にもっと大規模な艦隊を率いて来る、と威しつけたのでした。

で、幕府の側はアメリカ人をどう受けとめていたかというと、当時の兵学者、また吉田松陰の教師でもあった佐久間象山はそのようすを、浦賀奉行所の役人から詳細に聞き出して、嘉永六年6月6日(旧暦)に、同士に書簡を書き送っています。それによると…。

-----------------------------

是迄渡来の船と総て品替り候て、乗組居候者共も殊の外驕傲の体にて、是までは異船渡来の度ごと与力同心乗入れ見分すること旧例に候処、此度は同心与力の類身分軽きもの一切登ることを許さず、奉行に候はゞ登せ可申との事にて、其船の側へ参り候をも、手まねにて去らしめ候由、夫(それ)を強いて近寄り候へば鉄砲を出し打ち放し候べき勢に御座候、…(中略)…夷人申候は、若(もし)此度国書受け取らず候など申事に候はゞ、屹度(きっと:厳重に、きっぱりと、といった意味合いで、相手のつけいる隙もないほど厳しいさまを表現することば)乱妨(らんぼう:荒れまわること、荒らすこと。掠奪すること/ 広辞苑第5版)致し候て引取可申と打出し候由…(後略)。

いづれにも此度は容易に事済み申まじく被相考候(あいかんがえられそうろう…と読むんだと思う…)、渠(かれ:かしら、首領、の意)の申に任せ願ひ筋御許容候義御座候はゞ、それを例として其他の国よりも兵威を盛にして請ふ所可有之(これあるべく、と読むんだと思う…。←こればっか(^^)ゞ…)夫をも夫をも御許容御座候はゞ、本邦はやがて四分五裂可仕候(つかまつりそうろうべし、と読むんだと…)、其事目前に有之事に候へば、よも此度御許容は有之まじく、去りとて軍艦を四艘も八艘も致用意、渡来の上、品次第は乱妨も致し候はんと打出し申程に候へば、御許容無之候はゞ唯は得帰り申間敷(←読めない…、たぶん、そんなことあるまじきことだ、という表現の「まじき」に当たるのではないかと思うのですが…)、

畢竟此度様の事出来たり候は、全く真の御武備無之、近年江戸近海新規御台場(砲台を設置するための更地)等御取立御座候へども、かねても申上候通、一つとして法に叶ひ、異船の防禦に聢と(しかと)成候もの無之、事を弁え(わきまえ)候ものよりは一見して其伎倆の程を知られ候義に御座候故の事にも可有之、且大船も無之、砲道も極めて疎く候と見候て仕候事と被存候へば、如何様の乱妨に及び候はんも難計、浦賀の地等の乱妨は如何程の事にても高の知れたる事に候へども、自然内海に乗入、御膝元へ一発も弾丸を放ち候事御座候はゞ大変申ばかりも無之候、…(後略)



(松代藩士佐久間象山書簡 望月主水宛/ 「日本史史料 4 近代」/ 歴史学研究会・編)

-----------------------------

この報告によれば、これまで時々日本に立ち寄ったときには、地元の与力が対応していたようですが、このたびはアメリカはもっと身分の高い役人でなければ会わない、と要求していたようです。それを無視して乗船しようとすると発砲して、日本人役人を追い返したようです。そして与えられていた命令どおり、大統領親書を幕府が直接受け取らないのであれば、実力行使の挙に出ると宣告しています。

象山は、今度は容易には事態は収まるまい、しかもこのたびの要求をのむなら、他の国々も同様に武威を強力にして通商を要求してくるだろう、と見ています。事実アメリカの次はロシアが、イギリスが、フランスが和親条約締結を要求してきました。それらを次々にのんでいたら、日本は分裂するだろう、そういう事態が目前に迫っている、だから自分としては要求をのむべきではないと思うが、だからといって軍事力が押し出されてきたら、要求をのまない限り、彼らは帰らないだろう、という心配を象山は述べています。そして、そもそもこんなことになったのは日ごろの武装防禦の施策が十分でなかったからだ、西洋式戦術の研究も、洋学・蘭学の弾圧で遅れてしまっている、戦闘が浦賀あたりなら幕府そのものには深刻な打撃を与えないだろうが、もし江戸湾に乗入れてきたなら、軍艦の砲弾は江戸城まで一発で届く、そうなったら幕府はおしまいだ、と幕府の対策の遅れを非難しています。

権力の座を安泰にしていたいからと言って、現実逃避していては時代の流れにのみこまれてしまうだけです。やたらと強権を発動して、変化をとどめようとするのは自滅を速めているようなものです。こんなことは実は子どもにもわかることなのですが、危機に際して権力の座にいる人たちは問題対処を後回しにしがちです。エホバの証人など、長老の権力の乱用の問題、レイプの問題、児童への性的・身体的暴力による虐待の問題などが公になりそうになったとき、正面から対処するのではなく、隠蔽しようと一生懸命になります。信者が減ってゆくのは、そういう頑迷固陋な体質、責任逃れの体質に原因しているのですが、信者の側に「エホバの介入を待て」と、犠牲を強いて隠蔽します。これも根っこにあるものは同じなのです。

さてペリー来航直後は、どこの大名たちも封建的絶対権力者としての本能から排外主義、つまり攘夷を主張しますが、アメリカ軍の進んだ科学的テクノロジーの前には戦争は国土の荒廃しか結果はないと感じるようになります。近代的な思考ができる開明的な大名たちの考えには、開国したほうが日本のためになると考えを変えるようになります。多くは幕政から遠ざけられていた外様大名に多かったのですが、徳川氏や松平氏を名乗る大名たちにも、目の黒い人たちはいました。そうした人たちは幕政を血筋から開放し、外様大名や下級武士からも有能な人材を登用し、幕政を官僚合議制のような体質に改革して、欧米世界の圧力から日本の独立性を守り抜いてゆこうとします。一方で、この困難な状況にあっても、あくまでこれまでの「祖法」に従って、徳川氏幕府を強化して乗り切ろうという保守派も改革派とせめぎあいます。

そのせめぎあいの象徴が、家慶亡き後の「無能な」将軍家定の後継者選びでした。改革派は聡明と評判の慶喜を推しますが、保守派は血筋が家康に近い慶福(よしとみ)を推挙します。結果は井伊直弼の登場により、保守派がいったん競り勝ちます。朝廷内の開明派であった三条実万(さねつむ)などを宮廷から追放させ、改革派の大名たちを処分し、有能な人材を処刑しました。安政の大獄です。この政争にあって天皇本人は「玉(ぎょく)」という暗語で呼ばれ、あくまで道具として利用されるものでした。「天皇制」という形而上の概念が高く掲げられてはいましたが、それはあくまでイデオロギーとしての「天皇」であって、人間個人としての天皇はあくまで手駒だったのです…。

以下、来月に続きます。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 戦争という現実 | トップ | 「水が顔を映すように、心も…... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日本のアイデンティティー」カテゴリの最新記事