Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

Interlude 雅子さまの不幸は…

2006年09月18日 | 一般
雅子さんの不幸は、リプロダクティブ・ライツがない、ということでしょう。

…角田由紀子/ 弁護士(「週間金曜日」 2006・9/15号より)


*リプロダクティブ・ライツ:妊娠中絶、受胎調節など、性と生殖に関する女性の自己決定権のこと。国家、男性、医師、宗教などからの規制や社会的圧力を受けることなく、女性が選択できる権利。

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インタビュアー(宮本有紀):
(天皇制が)何のために存在するのかというよりも、どうしたら存続させられるのかということが議論の中心です。男系男子による継承を続けるのか、女性・女系を認めるのかということに、社会の関心はあるようで、女性天皇制が男女平等の視点からみてもいいのではないかという議論もありますね。




角田由紀子:
人間の間に序列をつくる、しかも生まれによって特別な地位にある人をつくることは、平等思想とは相容れないもの。そのトップに男がなろうと女がなろうと、人に序列をつけることには変わりない。それを男女平等にしろ、というのは、女も兵士にして男と同じく人殺しができるようにする、もしくは女も男と同じく、過労死するような働き方をするようになればめでたいというのと同じ論理ですから、女も天皇になるのが男女平等というのは錯覚ではないでしょうか。

フェミニストといわれている法律家のなかにも、憲法14条(法の下の平等を定めた項目。すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地〔家柄のこと〕により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない。)違反なんだから、皇室典範を改正して男女平等にしろという意見はあります。これまで男には許されて女にはできなかったことが、女にもできるようになるという面では、一見、男女平等のように見えるけれど、前提として私たちは何を実現するために男女平等を追求しているのか、ということを考えるべきです。

人間の不平等というスタートラインから平等というゴールに向かう道の途中に男女不平等がある。一見、ちょっと改善されたように見えても、それが実はゴールとは矛盾するものであったなら、それは一歩前進したとは言えない。男とか女とかではなくて、天皇制の仕組みそのものが問題なんですから。




宮本有紀:
女性天皇になっても、女性の自己決定権はないのだという視点がそこにはないですね。「子を産まない自由」がないシステムですから。




角田由紀子:
そうです。世襲制とはそういうものだから。しかも男のみによってつながってゆく世襲制というのは、そのシステムに入った女の人は、男の子を産むことを強要されるということ。雅子さんの不幸はリプロダクティブ・ライツがないということでしょう。いまはその問題を抱えるのは、主に皇太子妃ですが、女性が天皇になったら、その問題を抱えるのは天皇自身になるというだけのこと。

世襲制を取る限りは、女性が天皇になっても子を産まなければならない、ということに変わりはない。「あなたの代で終わっていいよ」とはならないわけだから。女性のリプロダクティブ・ライツとか性の自己決定権というものを確実なものにしていこうとしている時代に、絶対にそれが認められない世界がある。これはどこまでいっても、憲法の「個人の幸福追求権」とか「基本的人権の保障」というものと相容れない。この二つの価値は相容れないわけだから、その矛盾を放置せずに、すっきり憲法第一章(「天皇」の章)を削るのが筋ではないですか。そういう意味では私は憲法改正論者ですね。

…(中略)…

結婚や出産の強要は人権侵害だということは、社会の了解がほぼできつつある。ところが皇室ではそれが人権侵害とされていない。憲法学者は、“皇室は憲法の埒外だ”と言っているけれども、私は、その論理には納得できないものがあります。人が踏みつけられているのをみながら、そのままにしていいのかということ。“もともとあの人たちは人権保障規定の範囲外だから人権侵害があったって仕方ない”というのもひとつの態度でしょうが、人権侵害であるのは事実です。女の人権を侵害することによってでしか成り立たない制度に依拠しなければならない人を、なぜ私たちは象徴として仰がなければならないのか。そのことが議論されていないんじゃないかと思います。

そして、皇室女性への人権侵害は、私たちへの人権侵害を許していくものになっている。“必然的に人権侵害を伴う制度”によって私たちは何をしようとしているのか。そうまでして維持する必要性がどこにあるのか。雅子さんの問題から考えるべきことは、「お可哀想」などというレベルではなく、そういうことです。愛子ちゃん(原文ママ)の代になっても同じ。今後、皇室に性同一性障害の人が出現した場合、異性愛の結婚を強要されたら、当人も不幸だし配偶者になる人も不幸です。

このように、皇族のような存在をつくるということは、尊いものとして扱っているようで、実は人権を剥奪して踏みにじっているのです。

世襲制の持つ非人間性を払拭しようとすれば、今度は天皇制が持つ「ありがたみ」がなくなる。純粋な血が代々続いているということになっている物語を維持しようとすれば、非人間的なことをやらざるを得ないし、それは人権侵害だからやめたほうがいい、ということになると、その物語が成り立たなくなる。両立できない矛盾した制度をそれでも必要とする、というのなら、それはなぜかということを私たちは考えてゆくべきではないでしょうか。




宮本有紀・インタビュー後記:
年始の「歌会始」で秋篠宮夫妻がそろって「コウノトリ」を歌に詠みこんだときにはすでに、男子誕生までのシナリオはできていたように思える。紀子さん(原文ママ)は与えられた「健気(けなげ)な次男の嫁」の役を見事に演じているが、これはドラマではなく、現実だ。それが怖い。

彼女の出産は夫妻の意思というよりも「天皇制」という制度の意思だろう。具体的には何があったのかは知らないが、雅子さん(原文ママ)の健康状態からして妊娠・出産が望めないまま、紀子さんに産ませるしかない、という思惑がいろいろなところで渦巻いていたに違いない。

昔、怖いほど痩せていた皇太子妃時代の美智子さんを、子ども心に「この人可哀想」と思った記憶があるが、無理に笑っている感の雅子さんも、能面のような笑顔の紀子さんも、天皇家に入った女性はみな哀れだ。それはなぜだろう。

ジェンダーの視点で天皇制を見ると、この制度の抱える問題がよくわかる。天皇制を支える価値観が、どれほど女性の人権を踏みにじるものなのか、そして憲法の人権規定との矛盾をどうすべきなのか。「女性・女系か男系男子か」ということよりも先に、まず考えるべきことが私たちにはある。

(「週間金曜日」/ 2006年9月15日号より)

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「両立できない矛盾した制度をそれでも必要とする、というのなら、それはなぜかということを私たちは考えてゆくべきではないでしょうか」。

わたしたちが「天皇制」を維持したいと思うのはなぜでしょうか。言論の自由が保障されているこの日本で、昭和天皇の戦争責任を口にすると、暴徒に襲われるのはなぜでしょうか。どうして、皇室のこととなると、わたしたちは口をそろえてしまうのでしょうか。日本国憲法の第1条はこう述べています。

「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意にもとづく」。

つまり、日本は天皇によって特徴づけられ、日本国民は天皇によって結びつけられている、ということです。1946年に発足した第一次吉田内閣で国務大臣を務めた憲法学者の金森徳次郎は、戦後、「国体」は変わったかということについて、このように答弁しました。

「…天皇を憧れの中心とする国民のつながりということでございます。それを本(もと)として国家が存在していることを、国体ということばで言っているものと思う。…(略)…この点につきましては、絶対にわれわれは変わったことはない、又将来変わるべきものではないと信じておりまして、国体不変の原則をはっきりと言わざるを得ないと思うのであります」。

わたしたちは、天皇を、ひいては皇室を憧れることによって、他の日本人とつながるものであって、そのようにして日本国は存在すると言われています。すると、日本から皇室を取り去ると、日本は解体するのでしょうか。だから、皇室に入った女性の人間としてのあり方、生きかたをがんじがらめに拘束しても、彼女たちの人権を犠牲にしても、それは許されるのでしょうか。さらに、女性の人権が踏みにじられている皇室を憧れることによって、私たち国民が日本人としてのアイデンティティを持たなければならないのであれば、それは国民主権や国民個人の尊重という憲法の中心的な精神と矛盾するのではないでしょうか。

角田さんのお話によると、憲法学者たちも、皇室は基本的人権の保障規定の外にある、と言っているようです。どういうことかというと、日本国憲法の第二条には、「皇位は世襲のものであり」と定められていて、この記述そのものが法の下における平等を定めた第14条と矛盾しており、さらに第14条の土台である近代憲法原理とも矛盾しています。つまり、そもそも、日本国憲法のような憲法に第1章のような文章を入れること自体が矛盾なのであり、しかもそれが、近代憲法原理の最先端である日本国憲法のなかに現に存在している、しかも「国民の総意にもとづいて」。個人の尊重という原理とは相容れない原理は近代憲法原理によっては解釈できない、というのが憲法学の立場です。いわば、海の世界で生きる生きものに陸の世界のルールは役に立たず、逆もまた同じであるということです。日本国憲法に「天皇の章」が存在する以上、少なくとも皇室に対しては基本的人権の保障規定を当てはめようとすることはできない、ということなのだそうです。

憲法学者の浦部法穂名古屋大学大学院法学研究科教授はこのように述べておられます。

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「女帝禁止は違憲」論は、たしかに、規範論理(日本国憲法の精神に則った解釈)としては成り立ち得ない立論ではないが、しかし、それは、「象徴天皇制」の抱えるそもそもの矛盾=世襲制を捨象したところでのみ成り立ちうるものであるように、私には思える。そういう意味で、少なくとも「象徴天皇制」の制度内部の問題に関する限りは、他の憲法原理との矛盾をできる限り少なくしようという解釈方法は、この制度の抱える本質的矛盾を見失わせることにもなりかねない、という気がするのである。

(「憲法学教室」/ 浦部法穂・著)

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そもそも日本国憲法のような近代憲法の粋である憲法に、象徴天皇制があること自体がおかしいのであって、天皇に関する規定と、他の憲法原理をすり合わせてゆこうとするのは、日本国憲法における矛盾から目を逸らせることになりかねない。皇室女性の人権を問題にしようとするならば、角田さんのおっしゃるように、日本国憲法から天皇の章を削除することを議論するべきである、ということですね。現段階で、女性の人権を保障していこうとするならば、民間女性は皇室へは嫁ぐな、というしかありません。せっかく手に入れた保障された人権を手放すな、ということですね。

しかし、わたしたち日本人は、自分の人権を強く意識していません。むしろ粗末にしているのが現状です。自分の人間性を粗末にする人が他の人の人間性を尊重できるとは思えません。実際、他の人の人権など尊重していないのです、わたしたちは。近頃は個人の尊重よりも全体への一体化、全体への義理を尊重しようとする空気が強くなっています。イラクで、日本人のボランティア3名が人質になったとき、「日本の税金で救出されようとは厚かましい」とか「小泉首相に迷惑をかけた」とか言われました。ああいう世論に喜んだのはアメリカでしょう。挙国一致でブッシュ・ファミリーの中東戦略を支持してくれたのですから。イラク戦争では多くの市民、とくに子どもや女性が殺戮されました。大量破壊兵器は発見されませんでしたし、アルカイダとのつながりも判明しませんでした。イラク戦争の大義名分がなくなったのに、3名のボランティアに自己責任を要求した日本国民は、小泉首相に説明責任を厳しく追及することはしませんでした。

わたしたちは、今、ほんとうに、人権とは実のところ何なのか、豊かに生きるということは実のところどういうことなのか、本当に安全を得ようとするなら、強力な独裁者を擁立して全体主義をもたらすほうがいいのか、それとも個人個人の考え方、感じ方のほうをもっと理解していこうとするほうがいいのかをよく考えるべきところにいるのだと思います。だって、イラク戦争だって、異文化をもっとよく理解しようとすれば、今のような混迷をもたらさずにすんだのですから。




「両立できない矛盾した制度をそれでも必要とする、というのなら、それはなぜかということを私たちは考えてゆくべきではないでしょうか」。

天皇制を支える価値観が、どれほど女性の人権を踏みにじるものなのか、そして憲法の人権規定との矛盾をどうすべきなのか。「女性・女系か男系男子か」ということよりも先に、まず考えるべきことが私たちにはある。




角田さんと宮本さんの問いかけは、21世紀以降に生きてゆこうとするわたしたちに、今、生きる姿勢の根本的な決定が迫られていることを教えてくれているのです。すなわち、人間性の尊重を主張するか、全体性への服従か、という選択です。


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