Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

補足

2005年06月29日 | 一般
昨日の記事の最後のエピクテトスのことばについて思うことを追加します。
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「世にはわれわれの力の及ぶものと、及ばないものとがある。
われわれの力の及ぶものとは、判断、努力、欲望、嫌悪など、ひと言で言えば、われわれの意志の所産の一切である。われわれの力の及ばないものとは、われわれの肉体、財産、名誉、官職など、われわれのせいではない一切のものである。

われわれの力の及ぶものは、その性質上、自由であり、禁止されることもなく、妨害されることもない。が、われわれの力の及ばないものは、無力で、自分を隷属的にし、妨害されやすく、他人の力の中にあるものである。

それゆえ、君が本来、君を隷属的にするものを自由なものと思い、他人に属するものを自分のものと見るならば、君は障害に遭い、悲哀と不安に陥り、ついには神を恨み、人をかこつものとなるであろうことを忘れるな。

これに反して、君が真に自分に所有するものを自分のものと思い、他人のものを他人のものと認めるならば、だれも君を強制したり、妨害したりはしないだろう。君はだれをも恨まず、非難せず、またどんな些細なことも自分の意志に反してなす必要もないであろう。だれも君を不必要に害せず、君は多くの人がそうであるように、作らなくてもいい敵をあえて作ったりしないであろう(エピクテトス)」

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一例をあげると、奉仕の特権を得ようとすれば、長老の良い評判を得ようと努力しなければなりません。また巡回監督にも従順であることを印象づけなければなりません。そのためには「自分を捨て、苦しみの杭を取り上げる(マタイ16:24)」、つまり自発的な欲求や願望、自分の自然な夢を断念しなければなりません。任命権は巡回監督にあり、推薦されるかどうかは長老たちの意向にあります。つまり役職は自分の力の及ぶものではなく、他人に所属するものなのです。他人に所属するものを得ようとすれば、自分の望みのいくらかは禁止されます。また長老たちのお気に入りになるためには程度の差はあれ、隷属的な立場に立つことにもなります。

エホバの証人は「新しい人格」を身につけているかどうかを評価します。それは「組織への服従」の度合いが測られることなのです、実際は。仕事を調整して開拓奉仕をとらえるよう努めているか、進学を断念して開拓奉仕をとらえようとしているか、結婚、出産をあとまわしにして開拓奉仕をとらえようとしているか、病気であろうと何であろうと開拓奉仕をとらえようとしているか、家庭がバラバラになってもエホバの証人のおきてを擁護することで会衆の励みになっているか…。

他人の基準にかなうよう努めているかどうか、というのは個人の欲求を否定する考えかたです。秩序を保つためには自分ばかり押し出していてはいけない、集団の一員として行動しなければならないことはほんとうです。しかし社会秩序を保つのに、個人の人権を放棄しなければならないことはありません。職業を選ぶこと、進学すること、結婚、出産することを選んだからといって、どこのどんな秩序が乱されるのでしょうか。乱されるのは他人の人生をいじくりたい人たちの感情でしょう。そうした人たちは他人を思い通りに操作することで、自分の存在に価値を認めようとする残忍な人たちなのです。自分が無理に多くのことを犠牲にした、その喪失感は新人への同様の厳しい要求として発散されます。高校のスポーツ部活のしごきの習慣のように、非情な要求は連鎖して受け継がれてゆくのです。

エホバの証人の知性は低い。自分に属するものと他人に属するものの区別がつかない。いいえ、自分に属するものを放棄させるのがエホバの証人の教育なのです。カルトのやりかたそのものです。きっとのちのちそのつけを支払うことになるでしょう。 「君が本来、君を隷属的にするものを自由なものと思い、他人に属するものを自分のものと見るならば、君は障害に遭い、悲哀と不安に陥り、ついには神を恨み、人をかこつものとなるであろうことを忘れるな」 ということを味わい知ることになるのです。わたしもそのひとりです。だれよりも強く家庭を望んでいましたが、自分を主張し続けたために、婚期を逸しました。そしていまは神だの宗教だのを毛嫌いする人間になっています。自分の決定権の範囲まで指図されるのを好まず、自分のペースを守る人が現れると、エホバの証人は差別的待遇によって孤立させ、屈辱感を味わうように状況を操作するのです。


任命を受けたり、誉を受けたりすることを追い求めるのは「他人に属するものを得ようとする」ことなのです。エピクテトスはそうではなく、「自分に属するもの」を追い求めるなら、わたしのような人生を送ることはないと言っています。宗教に当てはめると、宗教者として価値があるのは、指導部からの評価ではなく、自分と神との関係で潔い良心を持って生きることです。神に対していつもまっすぐ目をあげて言い開きができるのであれば、それで宗教的には完全なのです。そして言い開きができるか否かは各自の問題であり、他人が介入することではありません。個人の崇拝は個人にのみ属するものであって、他人に属するものではないのです。このことは聖書の中でも使徒たちが複雑な文章を駆使して説明しているのですが、集会で注解されることはあっても実際に実行されることのない教理となっています。個人間に「犠牲」の差があることに不安を覚える人がいるのです。いい年して社会人として労働しない巡回監督、家庭を破壊するまでに極端な原理主義的な解釈を守り通す醜いオバサン(言っちゃなんですが、この種の女性信者はどういうわけか表情も顔つきも醜い)、まともに働かずに初老に至った長老たちなどのように、自分の責任から逃避してきた人たちがそうです。

他人に属するものを追い求め、自分に属するものを放棄してきた人のなれの果てがこれです。これは要するに「自己」が確立されずに人生を終えようとする人間のすがたなのです。こういう人たちは若い人たちの可能性を、自分でも気づかないところで妬んでいるのでしょう。若い人たちのすることにとにかく何でも批判的です。独身のままよぼよぼになった宣教者を神格化して褒め称える一方で、いまどきの若い人たちは…といいます。自分が若かったときはもっとハングリーだったよねえ、などと言う人たちはいま自分には、人生で何ごとかを成し遂げたという実感を持たないことに恐怖しているのでしょう。教理がこれだけ変化すれば、過去には価値のあったことも、今では口の端にも上ることがありません。これでは自分の過去に充実感を持てるはずがないのです。むかし、ある掲示板で書き込まれたことなのですが、川崎の大ちゃん事件の当の会衆では、よそから越してきた人が大ちゃんの話をすると、露骨に顔をゆがめて嫌悪感を示す、ということです。あの時は偉大な信仰の決断だったのですが、いまは輸血拒否の基準も緩やかになっていて、いまなら大ちゃんは死なずに済んだかもしれないからなんです。それでもエホバの証人としての自分たちの立場を守りたいので、臭いものにはフタをするからそんなことになるのです。

「自分を大事にする」というのは利己的であれ、という意味ではありません。自分に属する権利を守り、自分に属する責任から逃げるな、ということです。一方他人に属するものを得ようとするな、と言うことでもあります。まして他人からその人の人権まで剥奪し、自己の確立を破壊しようとするのは大変な「悪」です。精神分析医のアリス・ミラーはそれを「魂の殺人」と呼びました。一生を後悔のないように生きたいなら、自分に属するものを精いっぱい伸ばすことに一生懸命になってください。他人に属するものを得ようとして、自分の貴重な人生の時間を無駄にしないでください。エピクテトスの上記のことばは、現代のエホバの証人にとても重い教訓を与えています。

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7 コメント

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ステキ・・・ (あゆ)
2005-07-01 16:01:24
テンプレート変えたんですね~。さわやかで涼しげでよいですね!



そういえばありましたね~大ちゃん事件。

びっくりしてTVを見ていた記憶があります。

これで初めて“エホバの証人”という宗教を知りましたから・・・。

自分の子供だったら、どんなことしてでも助けたいって思うな~って思ってました。

JWになってからも、その気持ちは変わってなかったんですよね。

今思うと、心のうちをかくしてバプうけてたな、きっと・・・。

あとは、回りの期待を裏切らないようにと、回りに流されていたかもしれないな・・・。
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いい感じです♪ (ai)
2005-07-02 09:57:17
ルナさん、おはようございます♪

いい感じにリニュされましたね。



臭いものににはフタをする…嫌ですね~。まっ、それがJWらしいですけどね。私事ですが実はあの大ちゃん事件で“そこまでする宗教とはどんな宗教?”と感じ興味を持ってしまった大バカ者です。



これからもルナさんのブログ楽しみにしていますね♪
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蒸しますね~ (ルナ)
2005-07-02 10:04:06
おはようございます、あゆさん。



コメント、ありがとう。



「回りの期待を裏切らないように」…

これですよね、わたしもいま振り返ってみると、証人としての活動を支えていたパワーはほとんどこれでした。自分がほんとうに望んで行っていたんじゃないんです。なんかあそこではみんなお互いに監視・牽制しあっている雰囲気でしたね。集会から帰ってくると、どっと疲れが出たものですが、それも周りからの評判ばっかり伺っていたからだと思います。



テンプレート、涼しげでしょ?

蒸し暑い日が続くので、ちょっと変えてみました。「ひまわり」というのもいいかな、と思ったんですが、蒸し暑さを振り切ろう、ということで「竹林」にしました。梅雨が明けたら夏らしく「ひまわり」なんか考えてみようと思います。
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このまえは助かりました。 (ルナ)
2005-07-02 10:11:44
aiさん、絡んでくるヒトにうまく言い返してくれてほんとうにありがとうございました。感謝してます。



大ちゃん事件のあった時には、わたしなどは絶対に家の人を説得してみせる、なんて意気込んでいたおバカでした。いま振り返ると空恐ろしいです。雰囲気に左右されやすいニンゲンなので、とにかく何か動機が起こると、まず考えるようにしなげれば、といつも自戒しています。



これからもこのブログをかわいがってやってネ。
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新しい人格 (joy)
2005-07-05 00:59:47
デザインがリニューアルされて爽やかになりましたね。とってもいい感じですよ。



少し前にわたしがよく投稿している掲示板で、人はコンピューターに例えられることを取り上げて人格の話をしました。

一部引用しますと次の通りです。



人はコンピューターに例えることが出来ます。工場を出荷する時にはOS、CPUといったPCの基本動作に必要なソフトしか入っていないのが普通です。その後にWord、Excel、Outlook Expressなどのアプリケーションソフトをインストールし、更にユーザーが自分の使用目的にあわせてユーティリティーソフトをインストールして、より機能を高めてゆきます。



最近はメーカーの都合で出荷時から万全な状態にしていますが、10年ぐらい前まではほとんどのユーザーがアプリケーションソフトを別に買ってインストールしていました。まさに機能(人格)を高めるためにユーザー(本人)が犠牲を払って努力していたわけです。



長くなりましたが何が言いたいのかと申しますと、DVに至る男性は人格の面で不十分なところがあると思います。だれでも自分の人格を高めるための機会はほぼ公平にあったはずです。ところが幼い頃に植え付けられた『自分中心』、『我がまま』という人格が勝ってバランスを欠いてしまったのです。



そうした男性は自分の思い通りにならないとよくカンシャクを回します。妻であろうと子供であろうと当り散らすのです。対象は常に自分よりも弱い相手です。仕事で思うようにならなくても感情を爆発させることはありません。

懸命に我慢しているのです。そうした人は元々精神的に未熟です。成長しきれていない部分がかなりあるのです。



少し記事とは無関係のようですがDVの男性のことについて触れた時、「新しい人格」がどんなものかについて例えで書いて見ました。JW時代の新しい人格とは、仰るとおりに指導者側の思い通りになる人間、つまり組織崇拝者として成長してゆくことを意味していました。

今、こうして自由のみとなり、社会人としての本当の人格を身につけるために毎日が自己鍛錬の連続です。しかし喜びの多い人生です。



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コメント行方不明 (joy)
2005-07-05 01:21:10
こんばんは、デザイン一新でとても良い感じですね。

さっきコメントを長々書いて「投稿」クリックしたら行方不明になったみたいです。人格について書いてあります。どこかに転がっていたらここに放り込んで置いてください。(ーー;)
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Re:新しい人格 (ルナ)
2005-07-05 18:49:13
joyさん、こんばんは。



とても分かりやすく、鋭い例えですね。わたしは2世なので、ろくでもないソフトをインストールされましたから、社会へ出ても苦労の連続です。



でも、人間は何歳になってもやり直せます。人間の脳はいくらでも新しいものをインストールできます。子どもはたしかに大人の共感を必要としていたかもしれませんが、大人となった今は、自分で自分を矯正できます、うつ病や統合失調症などを患っていない限り。



わたしにとっての人生とは、狂った親から受けた傷を乗り越えて、自分を大人として成長させることです。困難も多いですけれど、幸いなことにエホバの証人によって心を破壊されてしまうまでは至りませんでした。これだけでもわたしは大いに恵まれていると思います。だから、へこたれたりはしません。



お互い、自己鍛錬を厭わないようにしましょうね。エホバの証人時代の間違った生き方の実を刈り取っているとしても、今、乗り越えようとしている毎日の努力は、きっと実を結びます。



とてもいいコメントを下さってほんとうにありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
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