国際情勢の分析と予測

地政学・歴史・地理・経済などの切り口から国際情勢を分析・予測。シャンティ・フーラによる記事の引用・転載は禁止。

済州島4・3事件と韓国現代史

2006年12月06日 | 済州島
●「済州島4・3事件と韓国現代史」

済州島人民委員会の性格

 済州島におきましても全国各地と同様に、1945年9月10日に建国準備委員会の支部がつくられ、これは9月23日に人民委員会に改編されます。済州島の人民委員会は、先ほど「レッドハント」にも出てきましたが、非常に強力な組織、強力な自治機関として、済州島の人々の圧倒的な支持を得ていました。済州島では少なくとも1947年の初めまで、すなわち先ほど「レッドハント」に出てきた1947年3月1日のデモに対する発砲事件の前の段階では、直接米軍政との間で武装衝突は起こっていませんでした。これは朝鮮半島本土の地域――済州島の人々は「陸地」という言い方をしますが――「陸地」とは非常に大きな違いでした。
 朝鮮半島本土では、米軍政は人民委員会の弾圧に乗り出し、これに対する抵抗が1946年の後半から南朝鮮各地で繰り広げられます。特に1946年9月、釜山にはじまる鉄道労働者のストライキが、全国的なゼネストに発展する。そしてこのゼネストが導火線となって、10月には慶尚北道の大邱で、警官隊と民衆のデモの間で武力衝突が起こり、この民衆抗争も全国に波及する、一般に10月抗争と呼ば
れる事態となります。この10月抗争は1946年の末まで、約3カ月にわたって展開されますが、米軍政の強硬な弾圧により、左派系の組織はこの段階で非常に大きな打撃を被ることになります。
 ところが済州島の場合は、この10月抗争に参加をしていないのです。47年の初めまで米軍政と衝突が起こっていないというのは、こういう意味なのですが、その結果、47年初めの段階まで、済州島の人民委員会は非常に強力な組織を維持していたのです。
 なぜ済州島人民委員会がそんなに力を持っていたかというと、それにはさまざまな理由が考えられます。もちろんその中心は、植民地時代に民族解放運動を主導していた人々でありました。独立のために闘ってきた人たちが、その中核を占めていたわけですね。それと並んで「レッドハント」でも紹介がありましたように、済州島という共同体社会の中で、人々が密接な関係を結んでいたということもあるでしょう。
 それからもう一点、済州島は漢拏山という火山により生み出された島であるため、土壌が非常に痩せており、米ができません。農業をするのに非常な不利な条件であるわけですけれども、そのために朝鮮半島本土のように地主制が発達しなかった。地主・小作関係がほとんど存在しなかったわけですね。農民たちの大多数は自作農でありました。ですから貧富の差が少ない、階級対立というものが存在しない、階級対立に根差すイデオロギー対立もほとんど起こらなかった。そういうところから植民地時代の民族解放運動は、非常に結束力が強いという特徴を持っていました。こういうふうな背景をもってつくられた済州島の人民委員会でしたから、おそらく強力な自治機関として存在できたのではないかと考えています。

3・1節示威発砲事件

 しかしながら、人民委員会という名前をつけた組織を、そのまま米軍政が黙って見過ごすことはできませんでした。人民委員会というのは、アメリカの目からみれば、共産主義者たちの集団であると認識されていたわけです。一つのきっかけとなったのが、1947年の3・1節示威発砲事件です。3・1節、これは言うまでもなく、1919年の3・1独立運動の記念日ですね。植民地朝鮮における最大の独
立運動が3月1日に展開されたわけですが、その28周年を祝う記念式典が、済州島各地で繰り広げられることになります。済州市だけでなく、済州島の各地で繰り広げられ、一説によりますと全体で10万人が参加したと伝えられております。当時の済州島の人口が約30万人と言われておりますから、10万人という数字が本当なら、3人に1人が参加した計算になります。
 3・1節記念大会は、単に昔の独立運動を祝うだけにとどまりませんでした。すなわち南北に分断されてアメリカとソ連の占領下におかれている、これをなんとか統一して、外からの圧力を排除して、自らの力によって統一された独立国家を建設していこうというのが、この時の集会の重要なスローガンとして登場してくる。それは当時の済州島人民委員会の方針からして、当然の主張だったわけです。
 ここで問題になってくるのは済州市、そこに(レジュメ)に済州邑と書いておきましたけれども、これは現在の済州市にあたる行政単位ですが、約3万人が済州市の場合には集会に参加いたしまして、そして集会が終わった後に街頭にくりだして自分たちの主張をアピールするデモ行進を繰り広げる事態になっていくわけです。ところがこのデモ行進を警察側が阻止しようとして発砲する、そしてデモを見物していた人が巻き添えをくって、6名が死亡する、そういう事件が起こるわけですね。
 この事件をきっかけにして、警察が人を殺したことに対して抗議する声が巻き起こるわけですけれども、こうした抗議活動を警察が弾圧するということが繰り返されます。3月10日には全島的なゼネストが敢行される。官公庁、学校、企業、交通・通信機関など、あわせて4万人が参加する事態となります。こうして済州島において、本格的な反米闘争が開始されることになったわけです。

米軍政の弾圧

 しかしこれに対して米軍政は、過酷な弾圧を加えます。特にここで見逃せないのは、済州島以外の地域から、すなわち朝鮮半島本土から、済州島出身者以外の人間を派遣する、警察とか右翼青年団などを派遣して弾圧にあたらせたことです。先ほど紹介しましたように、朝鮮半島本土におきましては、すでに警察と、人民委員会を中心とする勢力との衝突事件はかなり発生しており、本土の警察は民衆勢力に対して強い敵愾心をもっていました。
 それに加えて右翼青年団も送り込まれます。その代表格である西北青年団は、そのネーミングから想像がおつきかと思うんですけれども、北朝鮮から越境して南に逃れてきた青年たちの組織です。朝鮮半島北部におきまして社会主義政策が進行している、あるいは南とは逆に、かつて日本の統治に協力していた勢力、親日派勢力は徹底して処分され、処罰を受けることになります。社会主義化によって、たとえば土地を失った人たちですとか、あるいは戦前の親日的な活動によって処罰されることを恐れた人々は、南に逃れてくるわけですね。こういう人たちは社会主義、共産主義に対して非常に強い敵対意識を持っていました。ですからこうした人々が組織されてつくられた西北青年団という団体は、反共を唱える李承晩の手足となって、暴力で人民委員会を中心とする民衆運動勢力をつぶしていく、尖兵の役割を果た
していくことになります。
 西北青年団などが済州島に派遣されたことによりまして、一般の済州島民衆にさまざまな形での危害が加えられたことは、「レッドハント」でご覧いただいた通りです。こうして1947年の春以降、済州島には白色テロルの嵐が吹き荒れることになってまいります。済州島の人々は迫害を避けるために、ある人は自分の住居を捨てて山の中に逃げる、漢拏山の中に隠れて住む、あるいは済州島を脱出して海外にわたる、多くの場合、これは日本ということになってくるわけなんですけれども、こうして漢拏山や島の外に避難する人たちが急速に増えていくことになります。
 1947年末から1948年初めにかけての時期に、朝鮮半島の南北分断の危機は決定的な段階を迎えることになります。アメリカとソ連の対立が抜きさしならない状態になりまして、もともと朝鮮半島は占領の当事者であるアメリカとソ連が、朝鮮人の代表者をも交えて話し合い、統一した国家として朝鮮を独立させるという手順になっていたわけなんですけれども、結局アメリカとソ連の意見の対立によって、アメリカは朝鮮独立の問題を国連の場に持ち込むことになるわけですね。
 当時の力関係、数の関係から言って、国連はアメリカが事実上支配していた状況であったわけです。細かい事情は省きますが、結局、国連が監視できる地域、朝鮮半島の南部だけに、選挙を行い、国会を開設すること、すなわち憲法を制定するための議員を選ぶ選挙を南朝鮮だけで行うという決定がなされることになります。「レッドハント」でしきりに単独選挙と言っていたのは、こういうものでありまして
、この選挙が1948年5月10日に予定されたわけです。この南朝鮮だけの単独選挙が実施されることになりますと、要するにそれは南朝鮮だけで独立国家をつくる、すなわち北を除外した国家の樹立、南北分断体制が成立することになりますから、1948年初めの段階から南朝鮮の各地では、単独選挙に反対する闘争が展開されることになってまいります。
 済州島では米軍政に反抗したということで、1年間に約2500名の人々が拘禁される事態となりました。一方では朝鮮半島の分断が、政治的な日程として緊急の問題になってくる。そして「レッドハント」にもありましたように、1948年3月に3人の学生が拷問によって殺されるという事件が発生します。こうして済州島の人たちは、自分たちの命を守るためには、自己防衛のためには、武装蜂起を行うしか手がないという、追いつめられた状況になっていくわけです。

武装蜂起の発生

 こういうふうに事態が推移していく中で、ついに1948年4月3日に武装蜂起が起こることになります。「武装自衛隊」を名乗る左派勢力に主導されたグループが、各警察支署でありますとか右翼青年団の宿舎、あるいは幹部の家などを襲撃します。ここで注目しておきたいのは、ここで襲撃の対象となったのは、警察や右翼青年団ということでありまして、軍ですね、当時は国防警備隊と呼んでおりましたけれども、そういう軍の組織は除外されていたということです。これについてはあとで事情をお話ししたいと思います。
 4月3日に起こった武装蜂起は、実は、先ほどから繰り返し申し上げています、当時南朝鮮で繰り広げられていたさまざまな武装蜂起に比べて、とりたてて規模が大きいというふうには言えません。しかしながらアメリカはこれに対して、過酷な弾圧を加えることになるわけです。
 さて最近、特に注目されているのは、先ほど「レッドハント」にも出てきましたけれども、4月28日に武装隊の指導者である金達三という人物と、軍側の責任者、国防警備隊第9連隊長・金益烈という人、この二人の間に休戦協定が結ばれる。これを「4・28協商」と呼んでいます。
 当時の国防警備隊、すなわち後の韓国軍になる組織ですけれども、警察や右翼青年団とはかなり組織の性格を異にしておりまして、左派勢力の影響を受けた人々もかなりおりました。ですからこの当時、警察や右翼青年団の横暴な振る舞い、暴力的な行為に対しては批判的な考えを持っている人たちがかなり存在した。特に第9連隊というのは、済州島現地で集められた兵士が中心でありましたから、同じ済州
島の人どうしの殺し合いという事態になることは、出来るだけ避けたい気持ちを持っていた。そこで警備隊と武装隊の間で、ひとまずこういう抗争をやめようということで、話がつくわけなんですけれども、結局「レッドハント」で紹介がありました、警察や右翼青年団が仕掛けた吾羅里放火事件というのがきっかけとなりまして、こうした努力は水の泡になってしまいます。もしこのとき戦闘が中止されていたならば、後に起こるような大量虐殺は起きなかったであろうと、今日の観点からではありますが、このように言えるでしょう。

5・10南朝鮮単独選挙の阻止

 そして次の日程は、5月10日の南朝鮮単独選挙になってくるわけですね。当然のことながら武装蜂起した人々は、単独選挙を阻止するための行動に出ます。ゲリラ部隊が各地の選挙事務所を攻撃する。選挙管理委員を拉致したり、一方では選挙管理委員が自ら辞職したり逃亡したりして、済州島ではまともに選挙を実施することができませんでした。この時、南朝鮮では全部で200の選挙区が設けられたわけですが、済州島には3つの選挙区がおかれていました。しかしその3つのうち、2つの選挙区の投票率が50%に満たず、アメリカとしても済州島の2つの選挙区については無効であると宣言せざるをえなくなります。
 こうした動きはアメリカの威信を傷つけ、アメリカを怒らせる要因となったようです。アメリカの立場としては、朝鮮において、自らの支援する選挙が滞りなく順調に実施され、そして新しい国が建設されることを望んでいたにもかかわらず、済州島の人々はアメリカの方針に対して公然と反旗を翻したということになりますから、これ以降、本格的な弾圧が繰り広げられることになります。本格的というのは、先ほど言いました国防警備隊ですね、後の韓国軍になる組織、この陣容を大幅に入れ替えまして、国防警備隊をも鎮圧作戦に動員することになっていくわけです。以後、鎮圧作戦の主力は国防警備隊に移っていくことになります。 5月10日の選挙の結果に基づきまして、朝鮮半島南部では憲法を制定するための議会が開設されます。これを一般に制憲国会と呼んでいますが、そこで憲法が定められ、大統領に李承晩が選ばれる。その結果、1948年8月15日に大韓民国が成立する。そしてこれに対して1948年9月9日には、朝鮮民主主義人民共和国が成立し、南北分断国家が樹立されるに至ります。

大規模な民衆虐殺の発生

 こういう過程を経てですね、1948年秋以降、本格的な大量虐殺が集中的に繰り広げられることになってまいります。その経過については、特にこの「レッドハント」が集中的に取材しているところですので、詳しい内容は省略させていただきますが、簡単に申しますと1948年10月に海岸から5キロ以上離れた地域、済州島では中山間地域という言い方をしますが、その地域に居住をしていた人々はすべて海岸地域に疎開をさせる。この地域はゲリラの根拠地であるから、そこに住んでいる人はゲリラと同じ存在であると見なして殺害するというような方針が立てられます。
 1948年11月17日に済州島全域に戒厳令が出されますが、戒厳令なるものの根拠が非常に疑わしいということも、先ほど「レッドハント」に出てきた通りです。そして戒厳令と時を同じくして、「焦土化作戦」と呼ばれる、犠牲者を大量に発生させた作戦が実行にうつされます。
 「レッドハント」で紹介された事例は、「焦土化作戦」の典型的な事例でありました。疎開せよという命令が伝達されず、中山間の村に残っていたために、何ら弁明も許されず、村が焼き討ちされて村人全員が殺害された事件がありました。
 また疎開したから、海岸地域に下りてきたからと言って、無事であったかというとそうではない。「レッドハント」で出てきた例では、18歳から40歳までの男はみんな殺害された。これはゲリラになる可能性がある、あるいはかつて遊撃隊に加わっていた可能性があるということで、その年齢の男性というだけの理由で殺される。女性の場合は性的な凌辱を受ける、なぶりものにされた後、虐殺される。女性に対する凌辱行為も、至るところで見られます。
 もう一つはですね、「レッドハント」の例で言いますと、戸籍に記載された家族の名前から一人でも欠けていたならば、その欠けている一人というのはゲリラ活動をしている、遊撃隊に参加しているということで、家族全員が虐殺される。こういうふうないろいろな理由で、ありとあらゆる口実で、ゲリラ活動、遊撃隊の活動とは無関係な人々が、大量に虐殺されるということが、この時期、集中的に繰り広げられるわけです。
 こうした虐殺の問題だけではなく、村が焼き討ちされた、そういう物的被害の問題もあります。済州島では「焦土化作戦」のためになくなってしまった村というのが、いくつも存在しています。それからそもそも人間の尊厳、それ自体を踏みにじるような行為が、これも至るところで繰り広げられます。たとえば村人たちを一カ所に集めて、その前で老人と若者がお互いにビンタをはりあうように強制させるとかですね、一番ひどい例になりますと、口に出すのもはばかられることですが、母親と娘婿に公衆の面前で性交を強要するとか、およそ人間として考えられないような行為が展開されるのです。

朝鮮戦争と「4・3」

 済州島で繰り広げられたいわゆる焦土化作戦は1949年、翌年の春くらいまで続きます。1949年の3月、4月の段階でゲリラ部隊はほぼ壊滅状況に陥ります。1949年5月10日には、2議席選ばれなかった済州島の国会議員が再選挙で選ばれる。そして武装隊の総責任者であった李徳九が6月7日に射殺されたことで、武装隊の活動はほぼ壊滅状態となるのです。
 それと同時にですね、やはり注目しておかなければならない点は、1948年秋から1949年春にかけて焦土化作戦が繰り広げられた時期が、まさしく韓国における反共体制が確立した時期でもあったことです。徐俊植さんを拘束した国家保安法が公布されたのは、1948年12月1日のことであります。
 一方で同じ時期、反民族処罰特別委員会というのがつくられまして、かつての親日的な、日本に対する協力者を処罰しようという動きも見られたわけですけれども、結局この国家保安法が適用されることによって、そういう活動に参加していた国会議員たちが、北朝鮮のスパイであるという名目で逮捕され、親日派処罰の問題もうやむやにされてしまう。それが1949年5月から6月にかけて起こった、国会フラクション事件というものです。こういう形で済州島で大量虐殺が進行している状況とほぼ並行して、韓国における反共独裁政権を支える装置が確立していくことになってまいります。
 虐殺はこれ以後も続きます。先ほどビデオの中にも出てまいりましたけれども、1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発するわけですが、その直後から国民補導連盟――国民補導連盟というのは、左翼組織に入ったことがあると当局が認識していた人々を、強制的に加入させた組織ですが、この国民補導連盟の加入者でありますとか、あるいはかつて漢拏山に避難して隠れていた人々、こういう人々が朝鮮戦争のさなかに予備検束され、処刑されることになっていきます。
 「レッドハント」の最後に出てきた、132人の遺骨が、どれが誰のものとも分からないまま埋められた「百祖一孫の墓」というのがありますけれども、これは朝鮮戦争勃発後の虐殺によって犠牲になった方々の墓であるわけですね。あるいは4・3事件に関連して逮捕されていた人たちは、朝鮮半島本土の刑務所に収監されていたわけですけれども、そういう人たちもですね、朝鮮戦争が勃発した後、北朝鮮との連携を恐れて虐殺される、処刑されるということも起こってまいります。

「4・3」の終わりと犠牲者数

 1953年1月に、遊撃戦用の特殊部隊が投入されて、ゲリラ残余勢力はほぼ根こそぎにされます。そして1954年9月には、それまで一般の人々が漢拏山に入れない措置をとっていた、禁足地域という取り扱いをしていたわけですけれども、これが解除されることになります。この1954年9月21日の漢拏山禁足地域の解除、これをもってようやく「4・3」が終わったと見るのが、一般的であろうと思います。6年6カ月にわたる流血の事態が、ようやく幕を下ろすことになったわけです。
 さて本日のチラシには、済州島では10万人にのぼる犠牲者が出た、というふうに数字があげてありましたが、犠牲者の数がいったいどれぐらいであったのかというのは、現在に至るまで、実はよく分からない問題なんですね。ただ現時点で最も有力な数字としては、まあ3万人くらいであろうと言われております。
 「レッドハント」にも出てまいりましたが、済州道議会が最近、調査を行いまして、そこで1万5000名くらいの犠牲者の実名が明らかになりました。具体的にどこに住んでいる誰が、この事件で死んだのかということが、明らかになってきたわけですね。ところが家族全員が殺された場合、親戚も一人も残っていない場合などは、当然調査する術がないということがしばしば起こりますので、いまとなっては氏名を明らかにできない人も含めるならば、おおよそその倍、3万人くらいじゃなかろうかというのが、済州島での一般的な見方のようです。
 特に注目されるのはですね、済州道議会の調査でもそうだったし、それからこれは4・3事件が起こっていた当時、アメリカ軍の記録にもそう書かれていたわけですけれども、死亡者の80%以上は、軍、警察、それから右翼青年団によって殺害された人々であるわけです。圧倒的多数は、権力の手によって殺された人々である。そしてその中には、「レッドハント」にも出てきましたけれども、10歳以下の子どもであるとか、60歳以上のお年を召した方が、たくさん含まれていた。これだけ見ても、4・3事件によって引き起こされた虐殺というのは、ゲリラ闘争、武装活動とは何の関係もない人々を巻き込んで繰り広げられたものであったことの、有力な根拠となるわけです。

「4・3」の真相究明をもとめる韓国の動き

 それでは現在、この4・3事件の真相を求める動きは、どういう状況になっているのかということを、少しお話ししておきます。済州島で初めて、公開の場で4・3事件の犠牲者を追悼する行事が開催されたのは、実は1989年のことです。1988年が40周年であったわけですが、40周年の時にはついに追悼祭を開催することはできず、41周年、1989年になってようやく在野の社会団体が中心となって、初めて済州島で4・3事件の犠牲者をとむらう行事が開催されました。ですから逆にいいますと、それまでの41年間は、追悼祭さえ実施することができなかった、そういう状況であったわけですね。
 そして追悼祭を推進した社会運動団体が中心となりまして、「4・3」の真相究明を行うための資料発掘でありますとか、体験者へのインタビューを行う、専門の研究所がつくられます。済州4・3研究所が設立されるのです。一方、済州島の地方新聞である済民日報が、やはり資料の発掘やインタビューを行い、その成果を新聞に連載する。その連載が現在まで5冊の本になって韓国で発行されております。日本語訳も4冊出ております。後で参考文献のところをご覧になっていただきたいんですけれども、こういった研究所の活動、言論機関の努力によって、「4・3」の具体的な事実経過、真相というものが次第に明らかになってきたわけです。
 そして数年前から済州道議会で、被害を受けた人の申告を受け付ける作業が進みました。特にいま焦点になっているのは、当時の権力のさまざまな弾圧・虐殺の実態を明らかにするためには、国会で議論することが必要であるから、国会に「4・3真相究明特別委員会」の設置を、済州道議会が、あるいは済州島の人々が請願、要求しているという状況です。道議会からの請願は2、3年前にすでに出されていたわけですけれども、金大中政権の誕生によって、ようやく具体化しつつあるようです。4・3事件50周年の記念日を目前にしまして、与党・新国民会議の中に、4・3特別委員会というのがつくられました。与党側がこうした動きを始めているわけでして、予想以上に早く、おそらく今年の末までには国会に「4・3真相究明特別委員会」が構成されるであろうという展望になっています。ですから、いよいよ4・3事件の真相究明という問題も、国会レベルでの動きが焦点になってきつつあるのです。

http://web.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~ai369/kouen.html
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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2014-04-02 18:11:43
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-553.html
人生は冥土までの暇潰し
2014/03/30 済州島で起きた悲劇


昨日、渋谷のユーロスペースで映画「チスル」の上映が始まった。

1948年4月3日、済州島で3万人ほどの人たちが、〝同じ韓国人〟によって虐殺されるという悲劇を描いたドキュメント風の映画だ。ここで、、亀さんは〝同じ韓国人〟と書いたのには理由がある。それは、半島の韓国人と済州島の韓国人とは気質が異なるからだ。事実、古代において済州島と日本との間には深い交流があった。そのあたりは、例えば「日本と済州島(オロモルフ)」といったネット記事を読めば、あるていどは察していただけよう。

ここで、読者は亀さんが4ヶ月ほど前に書いた、「大海人皇子の正体」
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-420.html
と題する記事を覚えているだろうか。同記事の中で、「天武天皇と済州島の関係は深い」と主張していた、飯山一郎さんの記事を紹介しているので、思い出す意味で再読してもらえたら幸いだ。

神計いか、今朝の東京新聞を読んでいたら、公益社団法人日本駆け込み寺代表理事・玄秀盛氏のインタビュー記事が目に入った。記事を読み進めていくうちに、玄氏の父親が済州島出身と知り、東京新聞が同氏のインタビュー記事を載せた〝訳〟が分かったものである。2日前の3月28日、同紙は夕刊に「チスル」を広告に出していたのだ。
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