国際情勢の分析と予測

地政学・歴史・地理・経済などの切り口から国際情勢を分析・予測。シャンティ・フーラによる記事の引用・転載は禁止。

在日済州島人のコミュニティ

2006年12月06日 | 済州島
●在日済州島人のコミュニティ 2005年8月4日発表 文責 上田彩乃 佐竹美由紀 波多野友里 鄭秀映


現在の在日済州島人の人口及び主な都市

 1992年12月の時点において、外国人登録による在日朝鮮・韓国人は688,144人で、そのほとんどは、朝鮮半島の南地域の出身者とその子孫によって構成されている。そのうち、済州島出身者は117,110人で、全体の17%を占めている。

在日済州島人は、東京や大阪といった大都市に集住する傾向があり、東京では三河島、大阪では生野区を中心に、在日済州島人コミュニティを形成している。在日済州島人の東京と大阪に集住している度合は、1959年における在日済州島人85,036人のうち17%の14,848人が東京に、64%の54,664人が大阪に在住し、8割以上が都市居住者であった。その比率は近年においてもそれほど変わらず、1992年において在日済州島人117,110人のうち18%の21,733人が東京に、60%の71,020人が大阪に在住している。

一方、韓国における済州島人口は、韓国の全人口の1.2%を占めるに過ぎない。韓国の人口比からして在日韓国・朝鮮人に占める済州島人の比率が大きいことがわかる。在日済州島人は、1990年の済州島人口514,600人の22%である。近年の済州島の人口増加によって在日済州島人の比率が下がっているものの、1936年にすでに在日済州島人の割合は、済州島在住人口の3割を超えていた。これはいかに多くの済州島人が来日していたかを物語るものである。

先ほど述べたように、在日済州島人の多くは大阪の生野区に集住している。今日において生野区は日本最大の在日韓国・朝鮮人コミュニティとして知られているが、その中身は在日済州島人のコミュニティである。生野区は人口の24%が在日韓国・朝鮮人で、日本で最も在日韓国・朝鮮人の密度が高い地域である。その生野区の在日韓国・朝鮮人の内訳は85%が済州島出身者と言われ在日済州島人コミュニティである。在日済州島人は、生野区を中心に、隣接した東大阪市、東成区、平野区わたって集住している。そのほか八尾市、西成区、吹田市などにも在日済州島人が地域的に偏在し、集住する傾向を見せる。また、先に挙げた在日済州島人の数は外国人登録者であり、密航で来日し、在日済州島人のコミュニティに居住している滞在居住者を合わせると、その比率はさらに高くなる。そのうえ、1986年以降来日した済州島人の多数が、生野区と東大阪市の在日済州島人が経営する製造業、飲食店などで働き、居住しているため、新旧来日の済州島人が混在し、在日済州島人のコミュニティの性格を多様化させている。




出稼ぎの歴史と済州島人の来日背景

台風や強風の影響から農業のみに生活維持を求められない事や、島であるという自然環境から、済州島と海人文化の影響を抜きにして済州島の文化は考えられない。朝鮮王朝の時代から国家権力に拘束されることなく1済州島の人たちは海域世界を自由に移動しながら生活を営んでいたと思われる。渡航先は中国まで広がっていたとされ、朝鮮という国家帰属意識よりも、海人としての連帯意識を尊重していたとされている。済州島の人たちは、移動することに抵抗を持たず生活していたとされ、また済州島だけにとどまっていては生活生計が立てられなかったことが移動文化をもった要因と考えられる。 

 日本への出稼ぎが始まったのは、1903年(明治36年)に東京の三宅島に海女数名が渡って来たこととされている。1910年前後には100人あまりの男性が日本の漁船に乗組員として初めて渡日したと言われている。出稼ぎの歴史を辿る上で、済州島から陸地へ初めに渡ったのも海女だったと伝えられている。陸地には海女は存在せず、済州島の海女たちはよりよい仕事を探しに朝鮮半島の陸地地域に留まらず、地理的に最も近い日本へ出稼ぎに出掛けた。また漁師たちは、近代化された日本の技術を求め、渡日した。その後日本への出稼ぎはどんどん増え続けた。その理由は上記したようなものだけでなく、日本産業界からのプル要因も挙げられる。日本産業界は、日本人よりも安い賃金で確実に働く労働者を求めていた。特に当時最盛期であった京阪神工業地帯や北九州の三菱炭鉱等を中心として、済州島へと渡って行った。そこで労働力を求め、労働者の募集を行った。これが出稼ぎの88%を占めた京阪神工業地帯や北九州工業地帯への出稼ぎのきっかけとなった。また、1923年(大正12年)2月から阪済直通航路が開始し、大阪への渡航が容易なものとなったことから、その結果翌年1924年には14,278人にも及ぶ済州島人が渡ったとされている。このようなことから済州島からの出稼ぎが本格的に始まり、1934年には50,045人もの人が在留していたという数字が残されている。

 済州島の人々は自然災害にあっても運搬技術が未発達であったために、昔から済州島での自給自足が基本の生活であった。そのため農業従事者が農閑期や凶作が続き生計に影響を及ぼすと考えた場合に、他の地域へ出稼ぎに出掛けるようになる。このような歴史から日本への出稼ぎも定着し始める。それは初め、農業期になると済州島へ戻ってくるという季節的な移動であったことが伺える。そのような季節的な移動から日本で在留し始めた要因として、済州島の強い地縁結合性が考えられる。日本で仕事をして一定の収入を得ることの出来た人たちが親族や家族、同村の知人を呼び寄せた。新たに渡日してくる済州島人は日本で成功している彼らを頼るようにして同地域で生活を始めた。それから次第に季節的移動から工場労働者となり、日本で定着していく人たちが増えていった。災害の影響が大きい農業に生涯従事するよりも、土地は違えど工業地帯で日本人よりは低賃金でありながらも安定した収入を得る方が、家族全員の生活が保障されると考えたことが推測される。


来日の背景

 注:下記のパーセンテージは高鮮徽氏の著書「20世紀の滞日済州島人―その生活過程と意識―」で高氏が日本で生活している済州島出身者の生活過程を捉えることを目的としたアンケート調査、事例調査から出された結果に基づいている。対象者は、在日済州島出身者1世と、日本で出生し、済州島で生活した経験のある2世で来日年齢が5歳以上の人としている。

来日の目的

 来日の目的が「勉学」であったものが40.8%で一番多く、二番目が「自分の生活」のための来日で21.4%、次いで「結婚、家族および親族との同居」(女性と未成年者の来日であろう)が12.6%である。「仕送りをするため」の来日は大変少なく1.9%で、「徴用、徴兵のため」の来日も同じく1.9%を占めるに過ぎなかった。

 来日時の知人と就職経路

 初めて来日したとき「家族」が日本にいたという回答が26.2%、「親族」がいたという回答が38.8%、「同村の人・済州島の知人」がいたという回答が25.3%で合わせると90.3%の回答者が、来日する際、家族、親族、知人が日本にいたことになる。

 日本で初めて仕事を紹介してくれたのは、「親族」が27.2%を占め、「自分で」見つけたとする回答が23.3%となっている。「自分で」は、日本での学業を終えて、あるいは日本語がある程度わかる、知人がいなかった、等が理由として考えられる。

 紹介者があった者のうち、「家族・親族・同村の人・済州島の知人」を含めて済州島出身者の紹介と考えられる回答は、89.6%を占めている。

 来日時「済州島以外の同胞の知人」、「日本人の知人」がいた、という回答は各1%である。

 来日年齢

 初めての来日の年齢は、「20歳まで」が83.3%を占める。特に、済州島で小学校を卒業してからの来日が多かったと考えられ、「13歳~19歳」が過半数を占める。当時の小学校就学年齢は一定していなかった。生産可能年齢である「15歳~59歳」は43.7%である。「10歳未満」の来日(親か近親者同行であろうと考えられる)が28.2%を占めることと来日前の知人関係との関連で、済州島出身者の来日は、家族や親族などの集団移動の可能性もあると考えられる。

 生活を目的とした来日年度は無回答を除いた回答で1945(昭和20)年から1955(昭和30)年までで区切ると28.4%である。その後の来日は22.2%を占める。

 初めての来日の年齢層は20歳までが9割近くを占めるのに比べ、生活目的の来日の年齢層は幅が広い。生活目的の来日には、戦前日本で生活した人の帰国からの再来日と、日本生まれの2世の再来日、さらに不本意の政治亡命としての来日も含まれていると思われる。

経験したことのある仕事

 これまで経験したことがある仕事(複数回答)は、「レストラン・食堂」が27.2%を占め最も多い。「鞄製造」は21.3%、「はきもの製造」は15.5%を占め、済州島出身者の特色を示す。それから「パチンコ」が14.6%、「バー・スナック」が9.7%を占め、サービス業部分を占めるものである。「事務員」が16.5%、「教員」が8.7%を占め、「その他製造」と「くず鉄屋」は各7.7%である。鞄製造とはきもの製造は、回答者の出身地との関連があるとみられる(例えば鞄製造は済州島の高内里からの人々(荒川区三河島)がそのほとんどを占める)。飲食業はす具に焼肉を連想するほど、在日朝鮮・韓国人が関わっている業種であり、パチンコ店、旅館、ホテルなどの職業は、在日朝鮮・韓国人によくみられる業種である。事務員、教員などは、サンプルの高学歴と関連があるとみられる。全く回答が出なかった項目は、炭鉱夫、清掃、沖仲仕、菓子製造、海女(今回のサンプルには含まれていない)、回答が3%以下だったものは、土建屋、砂利採取、板金、金物加工「鍋屋」、研磨師、運び屋」、クリーニング屋、レジャー産業、新聞配達であった。仕事に偏りがあることは、済州島出身者の就職経路などと関連付けられる。大きく、製造業関係、サービス業、教員、事務、専門職と分けられる。これらの職種は、済州島出身者野の出身地の地縁、血縁と日本での居住地域などが少なからず関連している。

現在あるいは最後の仕事

 回答者の65.7%が「事業主・経営者」である。従業員数は10人以下が過半数を占める。少ない従業員を雇っている自営業者が多い。

 業種では「製造業」が65.7%、「飲食業」が5.9%、「販売」が4.9%を占めているが、経験した仕事よりは偏りが少なく、業種の多様化を示す。


来日済州島人の世代区分

 下記の世代区分は先程上記した高氏が行った世代別考察に基づいている。高氏による各世代区分は、第一世代が1901~1930年、第二世代が1931年~1950年、第三世代が1951年~1985年、そして最後の第四世代をそれ以降の1986年~現在までとしている。世代別考察は高氏が行った在日済州島人への面接調査やアンケート調査をもとに済州島人の日本への移動を世代別に特徴づけたものである。

1.第一世代(1901~1930)

 済州島人の日本への移動は、1900年以前からであったと推測される。この、「第一世代」の来日は、日本人の漁船に乗り込んだ自主渡航から始まり、日韓併合(1910年)以降は、工場労働者の募集に応じた形態だった。

 この時代(1901から1930)は、日本が明治から大正を経て昭和に入り、帝国主義の進展によるアジアへの進出が目覚しい時期だった。同時に鎖国していた朝鮮が諸外国の圧力に屈して開国せざるを得なくなり、弱体化した李王朝が近代国家化を試みるが、ついに独立国家から日本の植民地となった。日本と朝鮮を取り巻く国際情勢が激変していた時代だった。この世代を日本へ向かわせた時期、済州島では大きな自然災害が立て続けに起こっていた。それに伴い、安定した収入を求めて日本への出稼ぎ移動に拍車をかけた。この世代の日本での仕事は、海女と漁師、工場労働者がほとんど。

 

2.第二世代(1931~1950)

「第一世代」を頼って来日する世代が「第二世代」。「第二世代」が来日する時期になると、済州島人の来日は既に恒常的になっていた。済州島で小学校を終えた者は、進学先、働き口を求めて、近代化した都市に憧れ、結婚し同居するためなど様々な目的の来日と帰郷があった。済州島人の日本への往来が日常的になり、ひとつの生活圏になっているなかで、次第に日本に定着していく済州島人が増えていった。

 しかし、このような済州島と日本の応対は、終戦を境に変化せざるを得なくなる。終戦によって、多くの済州島人は、済州島へ引き上げていったと考えられる。それと同時に日本各地に疎開していた済州島人が済州島人コミュニティに集中するようになる。

 済州島人は終戦により帰郷したが、済州島も終戦のあおりを受けて混乱していた。さらに済州島は1945~1948年の四・三事件へ向かって各地で動き始めていた。四・三事件に向かってそれにかかわる人々の動きが激変していくなかで、日本で働き暮らしていた人々は済州島で仕事もなく将来の不安を覚える。それなら住み慣れた日本に戻ろうという動きと、四・三事件に関係して、とくに若い世代へ様々な働きかけが同時に進行していった。それから逃れるために、若い世代が再び来日したケースもかなりあった。とくに1948~1950年までは、四・三事件と朝鮮戦争から逃れるための来日もかなりあったと思われる。日本の終戦以降の済州島人の来日手段は自主的なもので、密航がほとんどだった。


3.第三世代(1951~1985年)

 「第三世代」は、終戦以降来日した「第二世代」と同じく密航世代と言える。

 この時期に来日した済州島人は、密航者だけでなく、在日済州島人の花嫁として来日した女性も少なくなく、さらに、親戚訪問などで来日し超過滞在している人々も少なくない。ここで「第三世代」と指している人々は主に密航者。日本の終戦後、韓国との国交修復となる日韓条約(1965年)まで在日済州島人の韓国および済州島への行き来は合法的に自由に行われていたものではなかった。密航者に済州島人が占める割合は(昭和45年から49年の不法侵入国者水際検挙で)、82,2%であった。密航者であるため正確な数は分からないが。

 「第三世代」は、それ以前の世代と違い、韓国で戦後強力に進められた民族主義、反日、反共意識に代表される国家観が植え付けられている。そのため強烈な韓国人意識をもち、民団の幹部になって、本国とのつながりを保つ役割を果たしている。


第四世代(1986年以降)

 「第四世代」は、日本の好景気による円高賃金、労働力需要というプル要因と、韓国の海外旅行自由化というプッシュ要因の影響が大きいと考えられる。「第四世代」は、韓国の戦後生まれがその中心。

 「第四世代」は、来日し、そのネットワークを頼りに、短い間にコミュニティを形成していく。かれらは、済州島人でありながら、韓国人であることを自然に受け止めている世代。韓国での社会移動も頻繁であり、済州島以外の地域での就労経験があって、朝鮮半島の人々との接触も豊富な済州島人である。この世代は、来日して朝鮮半島の人々と付き合い一緒に働いてみた結果、済州島人のアイデンティティが再確認され、強化される。

 以上のように、年代別に済州島人の日本への移動が特徴づけられる。日本への移動も「第一世代」から「第四世代」に至り、各世代を取り巻く時代背景、済州島の状況、朝鮮半島(韓国)と日本の情勢があるものの、それだけでは規定されないものがある。「第一世代」から「第四世代」まで共通していることは、若い世代が自立を模索する段階において、日本(来日すること)がひとつの選択肢になっていたことである。済州島人にとって日本がそれだけ身近なところであったことを表している。移動に至って、日本との定期航路がなかった時代に「第一世代」が自主渡航したように、「第三世代」が日本と韓国の規制を乗り越えて来日したように、手段や国家間の規制、国境に阻まれるものではなかったと言える。



※密航について、是非以下参照

http://www.jca.apc.org/emsj/japanese/kobako/yamamotokahori2.htm
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/8108/koh1.htm



参考文献

高鮮徽「20世紀の滞日済州島人―その生活過程と意識―」1998年 明石書店

高鮮徽「在日済州島出身者の生活過程―関東地方を中心に―」1996年 新幹社

「地理 ―特集済州島世界―」1998年 古今書院



http://72.14.253.104/search?q=cache:1jnIXmdxsnAJ:www.geocities.jp/camp_in_jeju/four/zainitisaisyuutoujinn/zainiti.doc+%E6%B8%88%E5%B7%9E%E5%B3%B6%E3%80%80%E5%AF%86%E8%88%AA%E8%80%85%E6%95%B0&hl=ja&ct=clnk&cd=2


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