ぱそらぼ (ぱぁと1)

パソコン講座を、まじめに愛するブログです

一生懸命

2008年12月21日 | 命の生き方
現実の生身の人間は、性善説か性悪説か…と二者択一で考えるなら、私は性悪説の立場です。完璧な人間なんていないの同様、徹頭徹尾の悪人だってそうそういるわけではありません。誰しもが心の中に「良い自分」と「悪い自分」の両面を持っていて、時々にそのかけらがのぞいて見えるような気がします。

だから、良い環境にいる時には、良い人らしく振舞えていても、時に劣悪な環境に置かれると悪い面が頭をもたげてくるのでしょうね。それなのに、最終的には性悪説に軍配を上げようとするのは…人間の周りからあらゆる「良い」環境を奪えば人は簡単に悪の道に落ちて良心のかけらすら捨てることができるけれど、周りのあらゆる「悪い」環境を奪ったところでその人の中の「ずるさ」や「嫉妬心」「虚栄心」「優越感」…を消し去ることはできないような気がするからです。

それでいて、人は「自分の為に」とことん一生懸命になることはできなくても、「誰かの為」「何かの為」…になら、あらゆるものを犠牲にして身を捧げることができるような気がします。どんなに腕の良いシェフだったとしても、自分自身のためにだけ豪華なディッシュを用意しようとは思わないのではないでしょうか。

誰かの為、○○さんの為、人の為、世の中の為。そういう切り口から入ることで、人は素直に一生懸命になれるのかもしれません。他者の存在なしに、人は自分自身を全うすることはできないのだと思います。



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再・裁判員制度

2008年12月20日 | 社会派らぼ
裁判員制度の候補者に一斉に通知書が送られ、辞退の返送が相次いでいる中、「裁判員制度はいらない!大運動」という団体が記者会見を行いました。呼びかけ人には弁護士も名を連ねているようですが、反対の声がやっと大きく上がり始めたのかな?という感じです。

報道を見ていますと、来年1年間の裁判員候補者として通知が送られたのが約30万人と言います。その4割から、調査票の回答が返送されてきたようです。全てが辞退の返事ではないのかも知れませんが、一体結果的に何人の人が名簿に名を連ねることになるのでしょうか。説明によれば、更に事件ごとに数十人の候補者に呼び出し状と質問票が届き、面接などを経て裁判員が選ばれるという流れになっています。

最初に通知を出す人数、候補者に名を連ねる人数、1つの裁判で呼び出しをかける人数、裁判所まで足を運ばねばならない人数などを考えると、あまりにも無駄が多いと思うのが当たり前の感覚ではないでしょうか。しかもこの作業が毎年繰り返されるのだとしたら…。どう考えても、実際的な制度とは思いがたいのです。殆どの人がそこまで暇ではありません。挙句に、罪の重さを多数決かのように定めるのは、一体どんな意味があるのでしょうか。

「人を裁く」ということは、それほど軽いことでしょうか。誰でもが、野次馬か何かのように、少し首を突っ込んだだけで定めてしまうようなものでしょうか。それなら、専門の勉強を積んだプロの裁判官というものは、一体どういう位置付けにあればよいのでしょうか。相変わらず、どうしても賛成しかねる制度です。



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ただ食い

2008年12月19日 | 命の生き方
何か思わず「はぁ?」と言いたくなりませんか。門真市の教育委員会の職員が、小学校の給食用の米飯を2年以上にわたって「ただ食い」していたとのニュース。思わず「子どもじゃないでしょ!」。自前の弁当のご飯だけでは少なかったので…の釈明。はぁ? ご飯が足りないのなら、大きなお弁当箱に替えて、たくさん入れてもらえば良いのでは? これが教育委員会の職員と言いますから、もう二の句がありません。

たかが米飯くらい…です。市は、処分を検討しているようですが、食べた量が確定できないので刑事告訴は視野には入れていないとのことです。こうした人のものだか、自分のものだか分からなくなってしまっている、子どもじみた感覚は恐らく蔓延していると、昔を思い出して少しゾッとしました。以前、パソコンのLANケーブルを調達して(…)、得意そうなシーンに遭遇したことがあります。これだってさした額のものではありません。が『こんなもの…』と、さも得意気に話している姿はあまり格好の良いものではありませんでした。

そこに罪悪感は存在せず、どちらかと言えば戦利品かのような子どもじみた権力感のような匂いを感じます。人間は一皮むけば、あくどいことも考えるし、ずるいことも考えるし、人の痛みには鈍感で、自己中です。ですが、そうした心はむき出しにしておいてはいけません。理性というオブラートでキチンとくるんで、間違っても露呈させてはいけないのです。そうした心の訓練をキチンとしておかなければならないのだと思います。



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自転車

2008年12月18日 | 命の生き方
『エコ』で自転車が人気だそうです。2輪は両足でペダルをこぎ続けていないと、そのままでは静止していられない宿命を持っています。しかもある程度の速さでこぎ続けることが一番労力を要しません。例えば歩く人の歩幅に合わせて並走しようとすると、ハンドルを巧く操り、時にペダルを逆回転させたりしながらバランスを取らなければ倒れこんでしまいます。でなければ、足を地に下ろすか、降りて押しながら歩くか、あるいは完全に降りてスタンドで支えるか…。

人生も似ています。いつもある程度の速さで、風を切って行くのが、もしかすると一番楽です。坂道は、特に力任せにこぎ抜けるに限ります。次々と目標を見定めては、獲物を狙う動物のように、研ぎ澄ました爪で襲いかかっていくことが、実は一番心穏やかに過ごせる方法です。そういう意味で、『幸福』とは、求める過程にこそあるものだと、私は思っています。石井慧選手も間寛平氏も、まだまだ私達には追いつけない力強い走りで坂道を駆け上がり、私達の心を熱くしてくれることでしょう。

残念ながら、人はいつまでも、挑戦し続ける体力を保つことはできません。力任せの目標はいつか無くなります。いつどのように、その目標を、自身の心の深さに変えていけるか…が、人生の悟りかも知れません。自転車の降り方と考えれば良いでしょうか。主を失った自転車は、スタンドにその体を預けることでのみ平衡を保ちます。

自分の「力」だけで通り抜けられる日々には、キット限りがあります。力が如何に正しくても、それのみを吠え続けることには、キット限界があるはずです。だから「力」を背景にした言葉は、上手に曲がり角を曲がることを覚えて、いつか「やさしい言葉」に変わるのだと思います。


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アンバランス

2008年12月17日 | 社会派らぼ
9月。米国の大手証券会社であるリーマン・ブラザーズの経営破綻を機に、景気が急激に落ち込みました。米企業は勿論のこと、世界中の会社の業績が一気に悪化、世界恐慌かとの声もある中、日本の会社も例外ではいられません。経営不振を理由に、多くの人員削減が発表されており、他人事ではおられません。

会社は生き残ることに必死で、好きこのんで社員を解雇しようとしているわけではありません。減産による止む無い事情なのですが、雇用崩壊とでも言えるこの現実は、師走の厳しい寒さ以上に身に凍みます。離職者の住宅支援や雇用枠拡大に、市レベルでの取り組みを発表している自治体もあるようですが、当然キャパには限りがあります。そんな中、社員はあくまでも守ります…という姿勢の企業があってもいいのではないかと思うのは、単純に私の理想論だけなのでしょうね。

単なる就職支援でなく、雇用の創出が必須です。いくら椅子取りゲームのやり方を指南したところで、椅子そのものが減らされているわけですから、2人で1つの椅子を分け合うか、椅子そのものを増やすことしか解決策はありません。

一方で、人手が足りない業界もあるのが皮肉です。看護師不足を補うのに、海外からの看護師を受け容れるシステムが稼動しつつありますし、医師不足をも海外から補おうとする動きもあるようです。特殊分野の技術職は育成に時間がかかりますが、だからと言って安易に安上がりな労働力と短絡するのには疑問があります。安易に受け容れた外国人労働者が、この不況下にいの一番にリストラの対象となってしまう現実を考え合わせると、受け容れ側としては無責任です。

自身の「夢」の為に、敢えて無収入に近い生活を耐える若者も多過ぎる(?)ような気もします。空前の「お笑い」ブームは、芸人予備軍を山のように生み出したようですし、ミュージシャンやタレントを目指す若者も(彼らを弄ぶプロダクションも)星の数ほどあるようです。ドラマティックに見れば、夢の実現に労をいとわない青春は眩しいのですが、一方で人手が足りず、一方で職が足りず、一方で納税に至らない働き方に甘んじている現実は、あまりにもアンバランスに思えます。


カーソルが飛ぶ
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想像力

2008年12月16日 | ぱそこん道
いつまでこんなことができるんだろう?と、半分は思いながら、相変わらずパソコンの講座に明け暮れる日々です。

私は教室形式の講座が好きです。巷ではマンツーマンの方が贅沢な学び方のように思われている場合が多いのですが、私はイマイチ苦手です。と言うのも、1対1でご一緒をすると、当然その方のご要望や力に合わせての講座となり、ご本人が「必要ない」と言われると合わさざるを得ないところがあります。ご本人的には「必要なし」と思われている箇所に、大きな発見がある場合だって少なくないのです。

今日もたまたま、偶然お1人からのご質問が発端で、他の方もそれは知りませんでした…と言われるような内容に話が及びました。身近にいる殆どの仲間が勘違いしているように思う…と、改めて驚かれることしきり。教室形式には、そのような発見がごろごろ転がっているという風に感じるのです。

最近、私がマンツーマンでご一緒する形になる方が、何名かおられます。これまでの経緯からそのような形に落ち着いた方々ですが、お店の店長さんだったり、会社の事務責任者であったりされます。実際のお仕事をアクセスで管理されている為、データ管理のお手伝いといった色合いが濃くなります。このデータをこんな風に処理したい…とか、こうするとこんな風になるようにできませんか…といった具体的なご要望がポンポン飛び出します。

それをご一緒に考えさせていただくといった形になります。これって、結構インストラクター側はシビアな局面です。教科書に書いてあるような部分はご質問にはなりませんから、当然頭をひねってない知恵を絞るような難問続きです(笑)。ご要望を伺った途端、それをどう切り抜ければ良いかを考えて、その場で方法を提案するといった感じです。準備をして臨む講座とはまるで異なっていて、いわば当方の力量がかなり試される色合いも濃く、非常にこちらも勉強になります。

パソコンは、何より「想像力」が大切だと私自身は考えています。本に書いてあることを知り、書いてある限りのことができるというのは、確かに大切ですが、それは第1段階です。わずかな知識であっても、それを縦横無尽に組み合わせて新たなことを生み出す力が必要なのだと思います。



ハイパーリンクを編集したい
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その先

2008年12月15日 | 命の生き方
芸能人やスポーツ選手が薬物に手を染めてしまうニュースが時折流れます。最近は大学生や時に高校生まで、そうしたものが広まりつつあるようで、もしかすると報道されるのは氷山の一角かも知れません。

芸能界やスポーツ界がストレスに満ち溢れた世界であることは、容易に想像できます。人々の視線を集め、華やかである反面、その華やかさが両の手からこぼれ落ちて行く焦りと背中合わせの世界なのでしょう。但し、プロというのは、そうしたストレスに耐える精神力も含めて「プロ」なのだと、多くの関係者に改めて誓っていただきたいと思います。

「勝った」「負けた」が全ての世界にあって、最終目標が「勝った」「負けた」にしかない人達は、いずれは手放さねばならないその空虚な勲章に裏切られます。「勝った」「負けた」のもっと先に、自身の目標を定めることができていると、立ち位置がぶれることがありません。

今の教育はあまりに刹那的です。「生きていることが苦しい」と訴える若者は多くても、「何の為に生きるか」の問いに行きつ戻りつする青春が希薄なように思えます。感情に翻弄されるかの自己表現が多過ぎて、それを心の中にストンと落とすような訓練ができていません。感情と感性は異なります。感性は感情のようにむき出しでなく、内にもっと確たる己を持ちます。

「その先」を持っている人でありたいと思います。



複数の図形選択
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資格

2008年12月14日 | 雑談
知人に偶然出会いました。今年は「○○士」の資格に向けて頑張っていたはずでしたが、さわやかぁな笑顔で「ダメでした!」。何でも過去10年間で最も低い合格率に終わったそうです。折角頑張っていたのに…とは思いますが、結果がすべてですからいたし方ありません。ですが、清々しいというのでしょうか、潔いというのでしょうか、とてもさわやかな表情をしていました。

仲間内で合格した人は1人しかいなかったそうですが、比べれば確かに自分の勉強は足りなかった気がするのだそうです。結果はついては来なかったけれど、やり切った気がする…とも話してくれました。めげそうになったし、諦めようと思ったけれど、やるだけのことはやったから、とても満足しています…という彼女は、多少誇らしげでもありました。

最近、あんなさわやかな顔をしていない自分に気づきます。私は数種の資格を一応持ちはしていますし、パソコンがらみの幾つかはバージョンアップと共に、資格を更新しなければなりません。(一応更新ですが、有資格者にメリットはなく、一律受験です。)今年は更新すべき資格はあっても、忙しさを理由に何もしませんでした。…というのも、それなりの受験料が必要なことと、1つの資格に数回の受験・受講が必要なことと、何よりこれまでずっと資格を維持してきていても、特段『得をした』を思うようなことはただの1度もなかった気がするからです。

個人的には、資格というものに心理的に拘束されていないつもりです。資格に特別の価値を見出そうと思っていないし、逆に言えば資格に対して冷たいかも知れません。それを自分の値打ちか何かのように思うことに強く反発さえしています。そう広言して憚らないのですが、その時に唯一、資格もなしにこのようなことを口にしてもキット相手にされないのだろうな…というようなメリットを感じているといえば感じているかも知れません。

でも考えると、そうした資格の「損得」という打算以外に、もう一つ大事なことを忘れていました。彼女の「さわやかさ」こそが、もう一つのメリットだったかも知れません。未知の新しい自分に挑戦するということの何よりもワクワクする充実感。(年齢を持ち出したくはないけれど)若さの特権かも知れません。


テクスチャファイルを利用しても、きれいになりません
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来年の漢字

2008年12月13日 | 雑談
毎年、日本漢字能力検定協会が1年をイメージする漢字を公募し、応募数の最も多かった1字を「今年の漢字」として、清水寺貫主の筆で揮毫されます。今年は「変」の字が選ばれました。1位と言っても、応募総数11万通にも及ぶ中の6千人ほどと言いますから、意見は比較的割れていたのでしょうか。

突然の株価急落からの金融危機。首相の交代劇。「change」を掲げたオバマ氏の米大統領当選。…「変化」をキーワードとして、今年1年の激動を締めくくったようです。が、どうしても「へん(おかしい)」の方が頭をよぎります。

今年は北京オリンピックで日本人選手も活躍してくれましたし(どうにも不調だったように言われますが、前会のアテネの成績が良すぎただけではないでしょうか。)、年も押し詰まってノーベル賞のニュースも飛び込みました。それなのに、心が弾みません。食品偽装とか、賞味期限改ざんとかあり過ぎて、どうも感性がマヒしています。大麻の蔓延、教員試験の不正、年金の失態、無差別殺人すら、大したことでもないかのように傍らを通り過ぎていきます。…この現実は、どう考えても、やはり「へん!」です。

警官による少年射殺をきっかけに、ギリシャでは暴動が起きています。抗議行動は国外にも飛び火し、欧州各地でデモが行われたようですが、国全体の機能が停止するほどの非常事態に、怒る市民の感性の健全さを見るのは間違いでしょうか。

1995年に「今年の漢字」が始まって以来、「震」「倒」「毒」「災」「偽」…など、あまり良いイメージの漢字が選ばれたことはどちらかというと少ないようです。日本の世相が低迷している何よりの証拠でしょう。いっそ「今年の漢字」ではなく、来る年がどんな年であって欲しいかに願いを込めて「来年の漢字」を選ぶ方が気が利いているかも知れません。


箇条書きの記号を変えるとインデントも変わる
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いかり

2008年12月12日 | 命の生き方
自分独自の確りとした考えを持てず、権威のある人に対してご機嫌取りをするかのように肯定的な返答しかできない人を、俗に「イエスマン」と呼びます。ハッキリと「ノー」と言えないタイプ。得てして、日本人は「イエスマン」だという風に揶揄されます。

人間は時として、ハッキリと「ノー」と言わなければならない場合があります。ただ単に流されるのでなく、確りと意見を持つということは大切です。間違っていると思うことには、キチンと怒らなくてはなりません。世の中のことは、まぁまぁ…と流しているうちに、気がつくとあらぬ所まで流されていたなどということは日常茶飯事です。

それでも更に、冷静に「いかる」ことと、無駄に「おこる」こととは意味が異なります。相手の言動が許しがたい時にでも、「いかる」ことは必要ですが、感情的に「おこって」しまってもさした実りは期待できません。子どもに対して「叱る」ことは必要だけれど、感情的に「怒る」ことは逆効果だと言われることと近いかも知れません。

事実にカッとなって思わず「おこって」しまっても、恐らく思うようなリアクションは得られないはずです。「おこって」しまわれると、その中には頷ける部分があるなと思っている時でさえ、思わず売り言葉に買い言葉。聴く心は閉ざされてしまいます。「いかり」はキチンと表明できるだけの説得力ある言葉と、誰しもが耳を傾けざるを得ない紳士的な態度と、なにより人が納得せざるを得ない論理性が必要です。そして意見の食い違いから、どうすれば抜けていけるかを模索する可能性に満ちていなければなりません。

自分の理性を見失うほど理不尽な相手で、冷静に話し合う余地さえないのなら、歩み寄って接点を見出すことができないほど自分を律することができないなら、むしろその場を去るべきかも知れません。これ以上ここに居れば、自分の品性を下げることになる。心底愛した場所でさえ、立ち去る覚悟が必要な時もあります。



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