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千羽鶴

2022年04月20日 | 社会派らぼ
ウクライナでの戦火に心を痛める人がたくさんいます。何かをしたいし、何かをすべきなのだろうけれど、何をして良いのかわからない、もしくは何もできない現実を知る…という人も多いと思います。

岐阜県の神主の方が「なんらかの形で意思表明をしなければ…」と折り鶴を折ってSNSに発信するといった抗議活動を行いました。その活動を継続し、1000羽が折りあがったらウクライナ大使館に送る計画を進めていたところ、そうした報道を目にした人たちから「千羽鶴を送るのは迷惑ではないか」といった指摘が多くあり、結果大使館への寄贈は断念したと報じられました。完成した千羽鶴は、神社の傍ら経営する古民家を改装した宿に飾って、ウクライナ問題を考えるきっかけにしたいとの事です。折り鶴なんて意味がない、迷惑なだけ、送るならお金を送れ…など、寄せられた声に、日本の文化が持っている大切なことが、必要以上に蔑まれているとの感想も。

一方ひろゆき氏は「無駄な行為をして、良いことをした気分になるのは恥ずかしい」、堀江貴文氏も「ぜひやめていただきたい。なんなら『お金を送りなさい』」と述べています。大きな地震に見舞われた地域にも、千羽鶴が送られることは多く、寄せ書きなどと共に迷惑なモノの一つとされており、送らないでと言われているようです。心がこもっているだけに、処分しづらく、迷惑なだけだと。実際、被災した方たちからすれば、生きるために最低限必要なすぐ使えるモノが欲しく、避難所に千羽鶴があったかどうかも分からないというのが本音のようです。

何もできないから、せめて心を込めて鶴を折って…と思いを託す人たちからは、人の気持ちを踏みにじる発言のように聞こえるかもしれません。が実際人は、自分が経験をしたこともない事には、想像力を働かせる余地があまりありません。生きるか死ぬか、銃弾を突き付けられる経験をしたことが無い我々には、かの地の人に想いを馳せる事は出来ても、その心が届けられると勘違いしない方が良いのではないでしょうか。

古の時代から日本人が1枚の紙に込めた想いの深さは、相手がもっと平時にあって伝えなければ意味がありません。心に余裕が無ければ、受け取る事が出来ないものだってあるのです。心を込めて1枚1枚折るのであれば、それは自分たちの手元に飾っておけばよい。いずれかの地に穏やかな日常が流れるようになった時に、そっと神社にでも奉納すればよいのではないでしょうか。

経験したことがない事を想像することは難しい事ではありますが、想像するだけでなく併せて状況を「考える」事も必要なのだろうと思います。SNSが普及して、発信することが容易になりました。考え方は人それぞれで、自由です。ですがSNSの普及と共に、人は「自分の考え方を」人に押し付けるようになった気もします。「発信」と「押しつけ」は異なります。自分自身の考え方をハッキリ持って表現することは悪い事ではありませんが、それを他人に強要して押し付けるのは違います。

今は、自分たちの無力をかみしめるしか術は無いのかもしれません。

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