噛みつき評論 ブログ版

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大震災に見る神のプロパティ

2011-04-07 12:57:48 | マスメディア
 神を信じる善良な男が不運な事故に遭って重傷を負ったとします。「悪いこともしてないのになぜこんな目に遭わなければならないのだ」という男の問いに対して、信仰を勧めた者の答えはおおよそ次の三つに分類されます。まあこれでたいてい片が付くのでしょう

 ①もし信仰がなかったら、あなたは重傷で済まずきっと死んでいた。
 ②事故はあなたの信仰が足りないからだ。
 ③これは神があなたに与えた試練なのだ。

 この答えは一見屁理屈のようですが、実はなかなか巧妙に作られています。神の存在を前提とする限り、この三つを完全に否定することはできません。むろんその答えが正しいとする根拠もありませんが、信仰する人間には根拠を示す必要など多分ありません。

 しかし今回の東北大震災のように多数の人が被災を受けた場合は上記のマニュアルのようにはいきません。ヴォルテールは数万人の死者を出した1755年リスボン地震の惨状を見て、神を信じる人も信じない人もみな等しく殺したのだから、神が慈悲深いわけがないと主張したといわれています。

 大惨事を目のあたりにすれば、多くの人は(慈悲深い)神も仏もないものかと思います。これはヴォルテール同様、ごく自然なことでしょう。被災者の、なぜこんな目に遭わなければならないのだ、という問いに対して、信仰を勧めた者はきっと答えに窮することでしょう。

 石巻市の市立大川小学校では全児童108人のうちの7割が死亡か不明とされています。犬や猫、牛など多数の動物も犠牲になりました。幼い子供や動物に罪があるとは考えられませんから、罪の有無による選別という説明もまあ無理です。まさにナチスを思わせるような無差別攻撃です。もしかすると神は差別廃止論者なのかも知れません。

 神は存在すると仮定した場合、ここから引き出せる一般的な結論はヴォルテールの言うように神は全能だけれど慈悲心が無い、あるいは慈悲心はあるけれど自然を制御する能力が無い、のいずれかでしょう。ヴォルテールの時代から250年以上が経った現在、既に詭弁やレトリックを駆使した模範解答が用意されているのかもしれませんが、私のような凡人にもわかるような説明を聞きたいものです。余計なお節介は承知の上ですが、他人事ながら気になるもので。


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3 コメント

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Unknown (フラット)
2011-04-07 21:32:35
 「早くに天に召される定めし善男、善女とともに信仰心皆無の不心得者を苦界へ誘う殺界の時。天より与えられし苦難を共に手をたづさへて乗り越えるは、是まさに『天は自らたすくものをたすく』といへり」

とかなんとか、屁理屈はいくらでもかませます。

 しかし、こうした事態の際には各宗教団体の献身がわりかし地域に貢献したりします。なんであれ過去から当たり前に存在してる老舗の団体は毛嫌いせずに受け入れるべきでしょう。組織としてしっかりしてるんでいい仕事しますよ。こういうときは。

 まぁ、彼らの屁理屈はどーでもいいじゃないですか。自然現象も人類が辿り着いている「今んとこの科学」も宗教家だろうが科学者だろうが「真理」がはっきりするまでは何をのたまってみたところで全部屁理屈なんですから。だって帰納的な学問とかあるじゃないですか? 疫学とか‥‥‥逆に神の実在を演繹的に否定する論もアタシは知らないし(あるのかな?)。
 
 しっかし、オカダさんはホントに宗教キライなんですね。無くせないんだからもっと愉しめばいいのに。バリバリ共産主義のソ連でも中国でも宗教は無くならなかったんだから。
 ん? そーすると北朝鮮ではどーなんだろ?
Unknown (okada)
2011-04-08 20:53:38
私の宗教嫌いはおっしゃる通りですが、これは半分揶揄のつもりなので、まあ軽く受止めてください。
宗教団体のなかには社会に貢献しているものも多くあるのも確かです(逆に害を流すものもあります)。それはわかりますが別の問題ではないでしょうか。


宗教は他の様々な思想と同じカテゴリーに入れてもよいと思いますが、科学はそれに入れるべきではないと私は考えます。

科学は再現性があり、矛盾なく体系が成立し、客観性があるという点で宗教や思想と同じに語れないと思います。フラットさんの考えは相対主義と同じのようですね。

北朝鮮は「主体思想」が宗教代わりになっているのでは? 無理やり。
Unknown (okada)
2011-04-08 21:03:27
存在しないものを証明することはできないのではないでしょうか。まず存在するという証明をすべきです。その証明に対して反論や否定は可能です。ポパーの反証可能性を満足するような形で、存在することを説明すべきと言ってもよいでしょう。

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