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大学教育の意味

2016-08-08 09:05:59 | マスメディア
 返済の必要がない給付型の奨学金が政策課題として注目されています。経済的な理由で進学の機会を奪われることは本来あってはならないことであり、給付型の奨学金はその状況を緩和すると期待されます。子供を進学させるために経済的な苦労をする家庭は少なくないと思われるからです。

 一方、親たちの期待、願望に応えるように日本には大学が続々と作られました。1955年には228校であったものが2014年には781校と3倍以上になり、このうち私立大学は5倍近くになり2014年では全体の77%が私立です。家計に重くのしかかる塾・予備校・大学などの教育費はこれらの巨大な教育産業に吸い込まれていく仕組みです。

 一方「分数のできない大学生」がかつて話題になったことがありました。ゆとり教育を批判したものでしたが、大学生の質の問題をも含んでいたと思います。私自身の経験でも、恥ずかしながら大学教育で得たものはほとんどありません。むろん一部の者はまじめに学ぶことでしょうが、大半は私と同様ではないでしょうか。大半の学生にとっては、大学教育は意味の少ないものになっていると思われます。

 勉強する意欲のない学生を4年間遊ばせてやるために膨大な費用が使われているわけです。背景に本来の学力より学歴を重視する風習にあるのは明らかですが、その結果、膨大な無駄が生じていることにもっと注意を向けるべきではないでしょうか。

 韓国では学歴信仰が日本以上とされ、進学率は8割にも達しているそうです。その点では先進国なのです。しかし教育費の負担は重く、それは1960年には約6であった合計特殊出生率が1.15(2009)のに低下した主な原因とされています。しかし学士様を大量生産しているにもかかわらず、残念ながら国民が教養に溢れ、世界の手本となるような社会になっているとは聞き及びません。

 個々の人がよい大学を目指すのは合理的な行動ですが、社会全体としては膨大な無駄を生じ、全体の利益にならないわけで、「合成の誤謬」と呼んでもよいでしょう。現在、私大の約半分が定員割れだそうで、無試験入学など様々な方法で学生をかき集めています。これは大学教育に向かない大学生が増えることにつながります。

 学歴はお手軽な評価基準として便利であり、ある程度の有効性があるので一部で生き残っているわけです。長年の慣習でもあってすぐに消えそうにありません。学力の評価なら、より強力な評価基準を作るという手もあります。統一された卒業試験を実施し、一定以下の成績者には卒業資格を与えない、あるいは卒業試験のランクを証明するものを発行するとか、いろいろ考えられます。簡単ではないですが、解決すれば高い学費や少子化問題を解決する一助になると思います。

 マスメディアが私立大学のあり方を批判することはほとんどありません。私大は記者の定年後の有力な再就職先であることを考えると、つい筆先が鈍るのかもしれません。もしそうであれば、この不合理な構造を改めようとする動きが大きな潮流になることは期待できません。


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2 コメント

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Unknown (okada)
2016-08-13 22:20:18
返事が遅れ、失礼しました。
 お若いころの話、興味深く拝見しました。18歳で、明治の志士のようと評される理想をもたれていたのは既にそれなりの知識がおありだったからでしょう。ずいぶん早熟ですね。すれすれの成績だけは同じですが、遊び呆け、恥ずかしいくらい無知であった私とはずいぶん違います。
 onecat01さんが訪問された教授たち、魅力のない人たちですね。私も、とりわけ教養部の教授たちの無気力な講義にはがっかりした記憶があります。
 当時の大学にはonecat01さんの情熱、理想を受け入れるだけの教授があまりいなかったのでしょう。まるで事なかれ主義の役人みたいですね。もろん全部がそうではないともいますが。
私の経験では、高校も大学も意欲のある先生はごく少数でした。しかし予備校の先生には授業に引き込まれるような熱意溢れる人が比較的多くいました。その差は驚くばかりです。当時も予備校の人気講師は高額所得者と言われていましたが。公立学校と民営の予備校、仕組みの違いでここまで差が生じるのは不思議でした。この点、私の子供たちも同様の経験をしています。
 意欲のない先生が多い原因のひとつは生徒・学生側にあると思います。手ごたえのない学生ばかり相手にしていれば、そうなるのも不思議ではありません。とはいっても原因の多くは先生の資質にあるように思います。onecat01さんの言葉で言えば、欠けているのはこころと能力でしょう。大学数の増加によって教員の需要が増加したこともあり、最近はさらに質の低下が進んでいるかもしれません。
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大学教育の意味 (onecat01)
2016-08-08 11:42:41
okadaさん。

 真っ向からの問題提起なので、真っ向から過去の己を検討致しました。

 真理の殿堂を心に描く、18歳の私は、早稲田に合格し、意気揚々と授業に出ました。しかし、どの教室も講堂みたいな大部屋で、満員の学生に向かい、マイク片手に、教授が一方的にしゃべります。質問もなければ、対話もない、マンモス大学の授業でした。

 忘れもしません。若くて短気だった私は、ある教授の家を訪ね、一方的にまくしたてました。
「こんなことで、いいのでしょうか。」「国のことに無関心な学生ばかり育てて、日本の未来はどうなるのでしょうか。」「こんなことでは、いつまでたってもアメリカの支配から逃れられません。」

 休日の大事な時間を台無しにされ、教授は迷惑だったのでしょうが、笑顔で対応してくれました。
「麻雀やってる学生だって、喫茶店にたむろしてる学生だって、心のなかでは、こんなことではいけないと考えているはずだよ。」「皆んながみんな、君みたいになれというのは、無理だ。」「アメリカに支配されてたって、いいじゃないか。立派な、徳のある外国人に支配されるのなら、なにも不都合ないじゃないか。」

 忘れもしない、昭和37年当時の教授の話でした。それから、思いつくまま、学部の教授宅を訪問し、気持ちを訴えましたが、どなたにも否定されました。
「貴方を見ていると、明治時代の志士と話してるような気がする。」「しかし、もう、時代が違うのです。」

 一年生の一学期に、私は大学に幻滅し、出席のうるさい語学を除き、すべての授業をサボることといたしました。教科書を古本屋で買い求め、期末のテストだけ受け、すれすれの成績で及第し、大学を卒業いたしました。
高度成長期だったので、こんな私も会社が採用してくれましたが、時々よくも一人前に生きてこられたものと、そら恐ろしくなります。

 そこで、私の結論です。私学の雄などと言われながらも、実体の乏しい大学でした。しかし、こんな私が、勝手気ままに過ごせた場所として、今は懐かしく思い出します。過剰な理想を抱いていて自分に原因があったのか、それとも教授の方々に教育者としての心が欠けていたのか。自分では分かりません。

 もし、後者であるのなら、大学はあまりに中身がなく、魂の抜けた先生方が多くおられて、日本をダメにしている場所だと、そう言えると思います。
50年以上前のことですが、鮮明に残る私の青春です。文系学生の、愚かしい青春を、お笑い下さい。
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