静聴雨読

歴史文化を読み解く

「プラハの春」

2012-06-29 07:08:48 | 異文化紀行


(1)パリからプラハへ

勤務先の永年勤続表彰で旅行をプレゼントされ、迷いに迷った末、パリに一週間、プラハに一週間のコースに決めた。仕事の出張以外では外国に長く滞在したことがなかった。思い切った贅沢である。パリについては別に記す機会もあろうから、プラハについて記す。1997年のことである。

パリ市街からシャルル・ド・ゴール空港までのタクシーで、運転手に「これからプラハに行くんだ。」といったら、「フーン。プラハってどこにあるんだ?」と返ってきた。フランスとチェコはそれほど、互いに知らない間柄であった。ベルリンの壁が崩壊して、チェコとスロヴァキアが分離した後であったが、フランスの属する「西欧」とチェコの属する「東欧」はまったく違う世界として存在し続けていた。もっともその頃すでに東欧は「中欧」として存在価値を高めつつあったのだが。

プラハを選んだ理由はいくつかあった。
プラハは中世以来の古い街だ。その街の香りを嗅いでみたい。これが一つ。カフカの街、アルフォンス・ミュシャの街でもある。もう一つは、「プラハの春音楽祭」に参加することだ。毎年5月に開かれるこの音楽祭は、1989年のビロード革命のときには、ラファエル・クーベリックを迎えて、スメタナ「わが祖国」を演奏したという伝説にも彩られた有名な音楽祭である(クーベリックはその後すぐ亡くなった)。幸い、この音楽祭のオープニング・コンサートの切符も入手できた。

5月のプラハは好天続きで、空気は乾き、空は高く、夜は20時でも日が暮れない。旅行者には格好の季節であった。朝食を終えるとすぐ観光に出かけ、お昼過ぎには一度ホテルに戻って午睡をとり、夕方ディナーをとったあとコンサートに出かける、というのが滞在中の一日の過ごし方であった。
ちょうどその時期チェコの通貨コルナが大幅に切り下げられ、1コルナ=3.1円から1コルナ=2.6円になっていた。物価の安さが一層強く感じられることになった。なにしろ、生ビール500mlが30コルナ(78円)である。  (2006/9)

(2)「プラハの春音楽祭」

「プラハの春 Prazske Jaro 音楽祭」(チェコ語では、 z の上に ^を逆さにした記号が、e の上にアクセント記号が付く)は、1968年の民主化運動(「プラハの春」、と呼ばれた)を誇りとして記憶するために開催されるようになった音楽祭である。そのオープニングとクロージングはスメタナ「わが祖国」全曲の演奏と決まっている。毎年選りすぐりの指揮者と管弦楽団が演奏を担当する。この年は、ガエターノ・デログ指揮プラハ交響楽団が演奏した。

会場は市民会館のスメタナ・ホール。プラハ市民自慢の建物であり、ホールである。アール・ヌーヴォー様式の装飾が美しく、華麗で明るい雰囲気を持っている。演奏当日、いつものように、午前中は観光のつもりで、下見もかねて、この市民会館を訪れた。ちょうどロビー・ホールで歴代の陶器の展示を行っていたので、それを見てみることにした。ここで、思わぬことが起こった。どこからか、オーケストラの合奏が聞こえてきたのだ。聴くと、スメタナ「モルダウ」ではないか。ようやく、事情を理解した。コンサート・ホールで、今夜の演奏のためのゲネラル・プローベ(総稽古)をしているのが聞こえてきたのだ。稽古は「わが祖国」の前半3曲を通しで行い、少しの休憩をはさんで、後半3曲を行うという、まさに本番並みのものであった。思わぬ得をした気がした。

さて、夜の演奏会は、荘厳な中にも、華やかさにあふれていた。舞台奥に「プラハの春」の垂れ幕が下がり、左上のバルコニーにはハヴェル大統領夫妻が臨席していた。会場は満席で、そのうち10%ほどが日本人であった。
チェコ国歌の演奏に続き、スメタナ「わが祖国」の演奏が始まった。それとともに、恥ずかしくも涙が頬を伝うのを抑えきれなかった。
はるばる東欧の地に身を置いていることや人生の来し方の感懐が押し寄せたのかもしれない。
また、1968年と1989年の二度の民主化で勝ち取ったチェコ国民の歓びを象徴する演奏会にいることに興奮したためかもしれない。

あっという間に、スメタナ「わが祖国」全曲の演奏が終わった。熱気を冷ますべく、夜の街をホテルまで歩いて帰った。  (2006/10)

(3)美術と建築の町プラハ

プラハは音楽の町であるとともに美術と建築の町でもある。
「百塔の街」といわれているように、キリスト教会の尖塔が町のいたるところに顔を出している。古く大きな教会が数多くある。12世紀・13世紀から建立されてきた教会であるから、当然傷みも激しい。修復中のものも多い。その修復期間も半端でなく、一つの教会が修復されて再開するまでに20年から30年はかかるらしい。一度訪れて修復中にぶつかると、30年後の再開まで訪問を待たねばならない。なんとも悠々とした時の流れである。

プラハの町と建築については、帰国後の2001年に出版された、田中充子「プラハを歩く」、岩波新書、が最適の案内書である。この本を持っていたら、さらに興味深くプラハの町を歩けただろうに、との思いもある。(現地で入手した Prague and Art Nouveau という写真集(*)が参考になった。)

しかし、あてずっぽうの散策も楽しいものである。
プラハでは、建築とともに絵を見て歩くのが目的の一つであったので、各所の美術館をめぐり、古代・中世から始まり、16世紀のルドルフ二世の最盛期を経て、近代まで、相当の数の絵を見た。3000点ほどになろうか。

面白い経験もした。ヴルタヴァ河の河岸にある魚料理店(シーフードではなく、川マスのから揚げなどを供するレストラン)から出て、目の前にあるクルーズ船に乗った。どこを経由して、何時間かかるクルーズか確かめていなかったが、気にしなかった。船は1時間後に上流のあるはしけに停泊した。どうやら、終点らしい。周りの乗客の後について、船をおりた。しかし、付近には何もない。再び、周りの乗客の後を金魚の糞のようについていった。すると、建物が現われ、道路も現われて、小さな町中に入ったようである。眼の前に、大きな館が現われ、美術館らしい。そこで、思わぬことに、17世紀から19世紀にかけてのチェコの絵画を300点ほどまとめて鑑賞する幸運に恵まれたのである。

今でもその町の名を知らないし、美術館の名前もわからない。わかっているのは、プラハの市街からクルーズ船で1時間ほど遡行した町の中の館ということだけである。
その町のバス停留所からプラハ市街行きのバスに乗った。親切な人が、「どこに行くのか?」と訊ねてくれて、切符の買い方も教えてくれた。この小さな町では、英語のわかる市民はおらず、すべてチェコ語による案内であったが、よくわかった。

恒例の午睡を取るには遅すぎた。その夜は、モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」を観ることになっていた。ホテルで着替えを済ませ、さて夕食はどうしようかと考えた。  (2006/12)

(4)買いそびれたイコン

ヴルタヴァ川の右岸に広がる旧市街は、細い、というよりは細かったり太かったりする道路の入り組む街並みである。その中のあるアンティーク・ショップで、1900年ごろのものというグラスを2客見つけた。ワイン・グラスにしては分厚すぎるし、ビール・グラスにしては容量が小さい。しかし、金の装飾を施しているのがおしゃれで、すぐに求めることにした。1客300コルナ(780円)で、チェコではいい値段(つまり、高い)のようだが、私にとってもいい値段(つまり、安い)だった。

ほかにもいいものがあり、翌日また覗いてみようと思った。ところが、このもくろみは見事失敗した。そのアンティーク・ショップにたどり着けなかったのだ。それほど、旧市街は道が覚えにくい。はっきりした目安をいくつも記憶しておかないと迷子になることを実体験した。

旧市街からカレル橋を通ってヴルタヴァ川を渡り、坂を上っていくと、プラハ城に着く。プラハ城からフラチャニ地区のストラーホフ修道院までの道には、土産物屋が多く並んでいる。ひやかしていると、イコンが多く出ていることがわかった。イコンとはギリシア正教の聖画のことで、偶像崇拝を排するギリシア正教の世界で、偶像の代わりに崇めるために用意されたもので、木彫りのものが多い。

土産物屋で見たイコンは新しいものが多く、その割に高くて、食指が動くことはなかった。

ストラーホフ修道院からヴルタヴァ川までは、だらだら坂を下っていく。その途中に、粗末なたたずまいのアンティーク・ショップが店を出しており、覗いてみた。偏屈そうな親父が店番をしている。外見からは想像できなかったが、店内にはイコンが多く展示されている。

その内の一つに眼が釘付けになった。初老の男が幼子を慈悲深い目で見守るもので、珍しい絵柄だ。かなりの年代もののようだ。親父に聞くと、「18世紀」と答えた。気に入って、「いくらですか?」と聞くと、「1万コルナ(26,000円)」とのこと。親父はそう答えると、そのイコンを新聞紙で包み始めた。
私はいささかあわてた。値段にひるんだのではなく、現金の持ち合わせがなかった。再度の訪問を約して、ひとまず、店を出た。

以後、プラハを離れるまで、このアンティーク・ショップを再訪する時間の余裕がないままであった。あのイコンを買いそびれたのは、返す返すも残念なことであった。
今度、プラハを訪れる機会があれば、まず一番に、あのアンティーク・ショップに行って、イコンを吟味してみたいと思う。 (2007/1)

(5)様々な音楽体験

「プラハの春音楽祭」のオープニング・コンサートでスメタナ「わが祖国」全曲を堪能したほかにも、以下のオペラやコンサートを楽しんだ。

ヤナーチェク「イェヌーファ」(国民劇場) : 入り組んだ家族の中における幼女殺しをテーマにした重いオペラだが、これを見て、ヤナーチェクのオペラの面白さに一気に目覚めることになった。従来の多くのオペラと違って、テーマの同時代性、庶民性、真摯さなどが斬新だ。隣りでおばあさんと小学生くらいの孫娘が熱心に鑑賞していた。とても感動したと話しかけると、おばあさんはうなずいていた。この劇場では、外国人の観客は少なかった。

モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」(エステート劇場) : 1787年、モーツァルトはここでこの曲のピアノ演奏版でデヴューを果たした。舞台の奥行の深いオペラハウスらしいたたずまいがすばらしい。素晴らしいアンサンブルだった。

ベートーヴェン「ヴァイオリン協奏曲」(アンネ・ゾフィー・ムター独奏、「プラハの春音楽祭」、スメタナ・ホール) : コリン・デーヴィス指揮ロンドン交響楽団との協演。日本では(切符がすぐ売り切れて)聴けなかったムターにプラハで出会うとは! その容姿のように、ゆったりとした堂々たる演奏だった。

(6)迷宮のプラハ

さて、エステート劇場のある旧市街で、アンティーク・ショップを見失ったことはすでに述べた。プラハではよく起こるといわれることを実体験したのだが、現実と仮想の間があやふやになるという体験は神秘的である。ちょうど、カフカが「変身」や「審判」で描いたような仮想現実感が街の至るところにちりばめられている感じだ。

旧市街の北部を占めるユダヤ人街のあやふやさも相当のものだし、市街からクルーズ船で1時間ほど遡行した町の中の館で見た17世紀から19世紀にかけてのチェコの絵画も、本当にそこにあったのかという神秘さがある。

ストラーホフ修道院の図書館もかなり怪しい雰囲気を漂わせている。壁一面に本棚が据え付けられていて、そこにびっしりと、白い皮で装丁した書物が埋め尽くされていて、そこからは妖気さえ匂わせている。本好きの私でさえ後ずさりしそうなほどだ。求めた絵葉書はすでに手元にないが、絵葉書さえも異様な妖気を伝えていたことを覚えている。

プラハを解く鍵が、迷宮であり、仮想現実感であることを実感した1週間であった。 (2007/3)