静聴雨読

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プルースト「失われた時を求めて」を読む

2008-03-18 07:58:59 | 文学をめぐるエッセー
(1)第一篇「スワン家の方へ」

鈴木道彦訳のプルースト「失われた時を求めて」、集英社文庫ヘリテージシリーズ、を読み始めています。初めの2巻で、第一篇「スワン家の方へ」が収められています。
確かに鈴木の訳文は読みやすく、非常に長い原文もわかりやすい訳文になっています。これが翻訳者の技量だというわけでしょう。
これから半年ほどかけて、全七篇を読み通してみたいと思います。

さて、この鈴木訳は、読者の理解を助ける目的で、様々な工夫をこらしています。
まず、本文の組み方は、36字x 16行でゆったりとしていて、文字の大きさも9p相当です。普通の文庫ですと、文字の大きさが8p相当で、41字 x 18行で組んでいますので、それに比べれば、この鈴木訳・集英社文庫ヘリテージシリーズは、はるかに眼に優しくなっています。

次に、様々な付録が付いています。前半の第1巻を例にとると、本文以外に、・まえがき、・文庫版の出版にあたって、・凡例、・訳注、・主な情景の索引、・『失われた時を求めて』全七篇のあらすじ、・系図、・登場人物100人、が付いており、さらに追い討ちをかけるように、・松浦寿輝のエッセイまでも収録しています。

少しやりすぎの感がなくもないですが、ただ一回読み通すだけでなく、後日振り返って読み直すときに役立つようにという配慮がみなぎっています。一般にわが国の書籍には、索引がない、あるいは十分でないことが多いのですが、この本に限ってそれは当たりません。プルーストを十全に理解してほしいという訳者の熱情があふれています。

機会があれば、是非鈴木道彦訳「失われた時を求めて」を手にとってください。眼からうろこが落ちる経験をすること必定でしょう。  (2006/7)

(2)第二篇「花咲く乙女たちのかげに」・第三篇「ゲルマントの方」

鈴木道彦訳になるプルースト「失われた時を求めて」(集英社文庫ヘリテージシリーズ)を読み進めています。

この刊本は、2006年3月の第一篇「スワン家の方へ」の発刊に始まり、以後、5月・第二篇「花咲く乙女たちのかげに」、8月・第三篇「ゲルマントの方」、10月・第四篇「ソドムとゴモラ」、が刊行されました。

以前、井上究一郎訳で全編読み通しましたが、改めて、評判の鈴木道彦訳で再度読み通してみようと考えました。6月に第一篇「スワン家の方へ」を読み終え、期待に違わぬ流麗な訳文に驚愕したものです。

その後、少し間が空き、刊行に置いていかれ、気がつけば、第二篇「花咲く乙女たちのかげに」から第四篇「ソドムとゴモラ」までが机上に積んだままになっていました。

10月下旬に神風が吹きました、いや、風邪をひいて人前に出ず蟄居しました。
時間のできたこの機会に、第二篇「花咲く乙女たちのかげに」から第三篇「ゲルマントの方」まで、一挙に読み終えることができました。「怪我の功名」ならぬ「風邪の功名」です。

第二篇と第三篇の大きなテーマは、「私」の恋愛経験と社交経験です。

少年時のジルベルトとの恋、避暑地バルベックにおけるアルベルチーヌとの恋、ゲルマント公爵夫人への慕情、ステルマリア夫人への片思い、と様々な「私」の恋愛経験が語られています。その一方で、娼婦の館への出入りを公然と記すなど、「私」の女性遍歴にはタブーがありません。
しかし、随所に、女性を見る自らの心理の描写に、思わずハッとするような純粋なところがあります。「純粋と不埒」、プルーストの女性観・恋愛観の二面性を表すのが、第二篇と第三篇です。

「純粋と不埒」の二面性は、「依存とシニシズム」というかたちで、プルーストの社交界の見方にも表われます。
「私」の社交界への眼は、以下のようなことばで表されます:「スノブ」「コケットリ」「阿諛追従」「エスプリ」「無意味なことばの氾濫」・・・。自らも貴族階級である「私」の社交界批評は当然自らに対する批評にもなる、という複雑なシニシズムの構造を第二篇と第三篇は示しています。
一方、貴族階級の来歴や存在意義に関する「私」のあっけらかんとした肯定的評価も見られ、プルーストのナイーヴな貴族階級依存も知ることができます。

鈴木道彦の案内では、第三篇「ゲルマントの方」と第四篇「ソドムとゴモラ」では、読者はやや退屈するかもしれない、とあったが、そんなことはなく、第三篇まではスルスルと、いや、バリバリと、読み進めました。以後の篇にも期待しようと思います。  (2006/11)

(3)第四篇「ソドムとゴモラ」・第五篇「囚われの女」

鈴木道彦訳になるプルースト「失われた時を求めて」(集英社文庫ヘリテージシリーズ)を読み継いでいます。第四篇「ソドムとゴモラ」と第五篇「囚われの女」を読み終えたところです。

鈴木道彦の案内では、第三篇「ゲルマントの方」と第四篇「ソドムとゴモラ」では、読者はやや退屈するかもしれない、とありました。第三篇ではその恐れは杞憂でしたが、第四篇ではその恐れが現実のものとなりました。

第四篇「ソドムとゴモラ」の中心テーマは、社交界に対する作者の皮肉な評定と同性愛です。

そもそも社交界が遠いところのものであるので、それを微に入り細に入り説明して評定をしてもらっても付き合いきれない、というのが正直な感想です。むしろ、丹羽邦雄の風俗小説か渡辺淳一の不倫小説に近いものとして接するのが正解かもしれません。そう割り切れば、「退屈」にはならないでしょう。

また、同性愛のテーマについては、男の同性愛(ソドム)と女の同性愛(ゴモラ)とも、作者のもってまわった言い方が目立ちます。確かに、当時は、同性愛を扱うことが難しい風潮があったかもしれませんが、そこまでして、このテーマをぼかして・あいまいなまま提示することにどれほどの意味があるだろう、という疑問に襲われます。とくに、ゴモラ的世界は恐る恐るなでただけ、という印象です。

「失われた時を求めて」の中で、この第四篇「ソドムとゴモラ」が古びるのが最も早かった、といえるかもしれません。

第五篇のテーマは、「私」とアルベルチーヌとの同棲です。
避暑地バルベックからパリに戻った「私」は自宅でアルベルチーヌと同棲を始めますが、プルーストはアルベルチーヌを「囚われの女」として描いています。ここに作者の視点・「私」の視点が凝縮して表われています。作者や「私」から見ると、アルベルチーヌは自由のきかない「籠の鳥」なのでしょう。

ここで出現する「私」とアルベルチーヌとの交情は濃密で、アルベルチーヌの行動への懐疑・嫉妬などが男の視点で延々と述べられます。  (2007/2)

(4)第六篇「逃げ去る女」・第七篇「見出された時」

鈴木道彦訳になるプルースト「失われた時を求めて」(集英社文庫ヘリテージシリーズ)全13巻を読み終えました。2006年3月、このシリーズが出版開始してから、2007年3月の完結まで、出版を追うようにして読み進ました。

最後の第六篇「逃げ去る女」と第七篇「見出された時」は、いわばこの小説の白眉で、アルベルチーヌの失踪と死(第六篇)と「私」の再生の決意(第七篇)が描かれています。

「私」の自宅で同棲していたアルベルチーヌが突然いなくなる。「アルベルチーヌ様はお立ちになりました。」と叫ぶフランソワーズ(お手伝い)のことばが喚起的です。そのアルベルチーヌは失踪後まもなく死んでしまいます。

恋人の不在と死をめぐる「私」の回想が純粋で、胸をうつ。バルベックでの邂逅の回顧、パリにおける同棲の思い出、また、アルベルチーヌと女友達アンドレとのゴモラ的世界への疑惑・嫉妬など、「失われた時を求めて」全篇にちりばめられた主題がここに凝縮して再現しています。

アルベルチーヌの追憶にふけっていた「私」は突如「花咲く乙女たち」探しを再開します。ここが、この小説のわかりにくいところで、過去に関わりのあった女性を次々に回顧し、そのうちのジルベルト(スワンの娘)とは、十数年を隔てた再会まで果たします。

第七篇「見出された時」は前篇から十数年経った第一次世界大戦後という設定で、これまでの諸篇とは雰囲気が異なります。

「私」を始め、誰もが老いていて、作者はそれを「棺桶に片足を突っ込んだ」と遠慮会釈なく表現します。シャリュルス氏は歳を加えるごとに「いやらしさ」が増し、ゲルマント公爵夫人はそういうシャリュルス氏を批評・批判することで、自らの「いやらしさ」を表わします。作者の冷徹な眼に容赦はありません。

それは、「私」の自己批評にも及んでいます。

こういう過程を経て、「私」は作家として立つことを決意します。いわば、「私」流の浄化作用の結果、おそらく長編小説を書き継いでいくことになるだろう、というところで「失われた時を求めて」は終わります。

第七篇で特徴的なことは、これまでの登場人物が、現役として、また回想として、総登場することでしょう。その際の筆致が、これまでの諸篇とは違って、「私」の観察・批評の域をはみ出して、作者の観察、そう、「神の視点」からの観察・批評のようだと思わせることです。

ともかくも、「失われた時を求めて」全篇を読み終えて、けだるさとともに安堵感を感じています。その感想は後日記すことにしましょう。  (2007/4)