~Agiato で Agitato に~

再開後約20年になるピアノを通して、地域やほかの世代とつながっていきたいと考えています。

凡人に学べることは・・・・

2007年08月08日 22時55分25秒 | ピアノ
だいぶ前のことになるだが、スカパーだかケーブルだかのあるチャンネルで、オーボエの宮本文昭さんと、ピアノの松本和将さんが瀬戸内海のある島を訪れ、演奏したり語らったりする番組があった。

島の小学校で二人が演奏したときに、たしか子どもからの質問だったと思うのだが、「演奏前直前には何を考えるか」というトークになった。
宮本さんは「若いころは、その曲の雰囲気を心の中でつくってから吹き始めたけど、今はなにもない真っ白な状態で始める」と。(←これはいうまでもなく緊張して頭が白くなった・・という状況ではないですね)
松本さんは「ぼくは、情景なんかを一生懸命に思い浮かべて、なにかが降りてきたと感じたら弾き始めます」と。

私をはじめ、ふつうの趣味程度の人間であれば、このどちらでもなく、「最初の両手の音の位置とリズムをなんとか無事に思い出す」のが精一杯で、「なにかが降りてくる」どころか「楽譜が頭からずり落ちる」ことのほうがよほど起こり得ることだと思う。

演奏家にもいろいろなタイプがあると思うのだが、たまに「なにかが降りてくる」というか「なにかにとりつかれている」弾き手がいる。
私が初めてこういうタイプをみたのは、数年前、8歳の女の子だった。
この話は今まで何回も書いているので、またかと思われるかもしれないが、とにかく弾くまでの時間が長かった。あとからこの子のお母さんにきくと「曲忘れちゃったんじゃないかと、ドキドキしました」とのことだったが、ご本人によると、ショパンのノクターン遺作を弾くのに、「悲しい気持ちで胸がいっぱいになって涙が出てきそうになるのを待っていた」のだそうだ。
たしかに、最初に一音は涙の一滴であろう・・としか思えない音で、8歳の女の子に何者かが宿って聴衆になにかを訴えているとしか思えなかった。
今はどうだが知らないが、この子は練習嫌いで有名で、一日に15分とかそんなものらしいのだが、先生のお宅では(飛行機でレッスンに通っているときいてます)一日でも集中して弾きつづけるらしい。

つい先日なのだが、顔見知りのお嬢さん(20歳くらい)の演奏を2年ぶりくらいに聴いた。
このお嬢さんは、ふだんは大変かわいらしい方で、どちらかというとのんびりした印象を受けるのだけれど、ピアノに向かうとこれがすごい。
先日は席の関係から、手はまったく見えず顔だけが見えたのだが、まずすわって俯き、次に顔を上げたときには、蒼白というか人相が変わっていて、ショパンの「葬送」を弾き始めると、大きく前後に身体が振れ、まさに「とりつかれた」様相だった。
以前から動きの大きい演奏をするお嬢さんなのだが、そのスタイルが良いとか悪いとかいう以前に、なんというかいつも「イタコの口寄せ」みたいな感じがしてならない。(つまり、霊媒師に霊が乗り移って、死んだ人が語りだす・・って感じです)
この方も、「練習が嫌いで、全然しない日もあります。でも、最近はそれじゃいけないってやっと人並みになってきました」ということだった。


どちらも「良い子はマネをしないでね」的な天才型なのだが、そうはいってもなにか学べる点あるのであって、それはなにかというと、本番にしろ練習にしろ、「フツウではない集中力」でもってのぞんでいるということだと思う。
本番で集中するにあたって「なにかがおりてくるのをまつ」にしろ「真っ白になるのをまつ」にしろ、その直前までとは異なる時間空間に自分を置くのは同じことであり、それを見事に切り替えられるのが才能というわけなのだろう。
そこでまた思うのだが、「集中してとりいれた」ものは「集中して外に出せる」のではないか?
どうしても「練習」と「本番」は別個に考え勝ちだが、「練習(インプット)」がスタートした時点で、「本番(アウトプット)」の質もある程度決まってしまっているのかもしれない。

そう思うと、おそろしいですね・・・たかが練習、されど練習・・・・