~Agiato で Agitato に~

再開後約20年になるピアノを通して、地域やほかの世代とつながっていきたいと考えています。

ヒトカイの方が向いてる?

2007年08月06日 17時49分49秒 | 見る・読む
昨日ちょっと必要があって森鴎外の短編集を手にとった。

私は自慢ではないが、森鴎外はあまり読んでいない。それでも大学の時は必要に迫られて少しは読んだものの、分かりもせず、好きにもならず、今にいたっている。

どういうわけか、いちいち突っ込みを入れたくなるのだ。
「舞姫」を読んだときはひどかった。学ぶべきは文体や文章そのものだと分かってはいるのだが、ぐずぐずいう男、気の狂ったままの女・・・なんとかならんかッと腹が立った。
漱石の主人公もだいたいぐずぐずいう男なのだけれど、こちらのほうにはさして腹がたたないのは不思議なことである。

さて、昨日パラパラっと久しぶりに読んだのは「山椒大夫」。いうまでもなく「安寿と厨子王」の話だ。
詳細はもちろん忘れていたので、いちいち突っ込みを入れながら読むハメになった。(以下、これからでもぜひ原文を読んでみたいと思っておられる方、ネタバレありありですので、ここいらで撤退なさってください)


<やんごとなき一族と見られる女子ども3人と、それに従う女中が越後の海岸を歩いている。日も暮れどこかに宿をと思うのだが、おふれでこのあたりでは旅人を泊めてはならないことになっているという。人買いが出没しているからだそうだ。>

・・・ここで疑問。人買いは旅人をねらうのではなく、付近の住民を狙うのだろうか?もし旅人が狙われるのだとしたら、旅人を宿に泊めずに野宿させるほうがよほど人買いの思うツボではないのか?・・・・・

<野宿を余儀なくされた一行は、「そういうおふれのために気の毒な目に遭っている旅人たちを救いたい」といかにもな申し出をした人買いに、あっさりひっかかる。そして翌日、母親と女中、子ども二人(安寿と厨子王)と別々の船に乗せられ、真反対方向に船を漕ぎ出される。
だまされたと知った母親は叫び、女中は船頭の脚にすがるが、足蹴にされる。そこで女中はもはやこれまでと、海へドボン。>

・・・・・最初ここ読んで「さすが女中、子どもらの船まで泳ぐ気かっ」と思ったが、そうではなく入水自殺したのだった。女中ならなぜ奥様にどこまでもついていかん??しっかりせんか・・・・

<その後、姉弟は丹後の山椒大夫邸に奴隷として雇われた。地獄の生活のなかにも、いい人がいたりそれとなく便宜をはかってくれる人がいたりしたが、姉の願いはただひとつ弟を逃がすことだった。そしてある日、ふだんは「女は浜、男は山」と仕事場が分かれていたのを「一緒に山へいかせてくれ」と懇願。>

・・・・普通そんな理不尽な願いをしたなら「逃亡のおそれあり」で即却下と思うのだが、なぜかその言い分が通った・・・・

<そして、弟に「こうやってこうやって逃げるのよ」とレクチャーし、15歳と13歳の二人は水盃を交わし、弟は必死で山を下る。
次の場面「山椒大夫一家の討手が、この坂の下の沼の端で、小さい藁履を一足拾った。それは安寿の履であった」。>

・・・・・私ぜったいこれは「自殺と見せかけた安寿の策略」だと思ってたんですよ、最後の最後まで。だから、そのあと運命の導きによって厨子王がエラくなって、父がいるはずの九州をさがしたり、母がいるかもしれない佐渡島を探したりする過程で、どこかのおえらいさんの奥さんになった姉に再会すると固く信じてたんです。
だって、なんのために死んだのだかわかんない。追っ手をまくためのおとりになったわけじゃなし、弟の解放と引き換えに大嫌いな雇い主の嫁になれといわれ、それがイヤで死んだわけでもなし、・・考えられるとしたら、バレた後の拷問とはずかしめをおそれて、ということでしょうか?ならば、どうせ死ぬならこちらもできる限り反対方向にでも逃げてみればよかったのでは、とどうしても思ってしまう。
このストーリーは別に鴎外オリジナルではないと思うのです、おそらく。なんらかの伝説を元に書かれていることはわかっているのだが、なにかこう、女にしたたかさがない。

・・とここまで思って、手元のある解説を読んだらば、
「山椒大夫伝説をふまえて、現代的に改定し、作者の創作を加え、犠牲となる覚悟をきめた人間(安寿)に宗教の奇跡以上の力を見る、いわゆる<歴史離れ>の歴史小説」とあった。

・・・・・ええ、どうせ、私は汚れていますとも・・・