世界一健康長寿のニライの風来坊

豊饒を齎す理想郷は海の彼方の蓬莱島!ニライの島夢郷!!その桃源郷を求めて南の風来坊は今日も迷走する。

「琉球王国のグスク及び関連遺産群」パート4

2005年01月31日 | Weblog
二、「中城城跡」・・・現在の中城村と北中城村との境に広大な領域を有して威風堂々と構えている。城壁は<あいかた積み>と<布積み>の二種類で築城されている。・・・沖縄の石の積み方には“野面積み”(のずらづみ)と“あいかた積み”(きっこう<亀甲>づみ)と“布積み(とうふづみ)の三種類がある。・・・城主護佐丸は座喜味城(読谷村)から、この城へ移って来た。元々は中城按司の居城であった。本丸と二の丸は、その頃のものである。護佐丸が築いたのは三の丸である。中部に一大勢力を築いたのは1440年頃だとされている。ところが琉球歴史上、有名な”阿麻和利・護佐丸の乱“(あまわり・ごさまるのらん)では勝連城主の阿麻和利に討伐された悲運の名将であった。時に1458年の事である。逸話として、かのペリー提督が石造の城郭を観て<ワンダフル>と賞賛したと記録に残っている。昭和47年5月16日に国の史跡に指定されている。・・・以下略。・・・
三、「勝連城跡」・・・中部の勝連町南風原にあり与勝中学校のすぐ近くに在る。城は本丸から四の丸まで連なった平山城で“布積み”の城壁になっている。約500年前~600年前に築城されたものである。武芸に優れていた城主阿麻和利は琉球全土を手中に治めようと野心を燃やしていた。ところが”阿麻和利・護佐丸の乱“に勝利したものの、その後に首里王腑に謀反者として征伐された。・・・領地・支配下の民には絶大な人気があった様で琉球の古歌「オモロ」に、その功績が称えられている。・・・<勝連城は太陽に向かって城門を開き黄金財宝のつまった御殿である。これは今も昔も、すぐれた按司がいたおかげだ。>、<勝連は京、鎌倉のように栄えている。>、<大和、唐、南蛮から宝物が集って来る。>・・・と、その徳を高く賞賛されている。当時、海外に雄飛し盛んに海外貿易を行っていたと推察できる。発掘調査でも当時の中国製陶器、朝鮮瓦、大和瓦、東南アジア産の酒壺などの外国産のものが多く出土しており、その繁栄ぶりが伺える。勝連城は三方が海に囲まれた天然の要塞でもあった。最近、中高校生、若者による”現代風組踊“肝高の阿麻和利”が上演され大好評を博した。郷土の偉人・文化遺産を後世に継承しようとの郷土愛に根ざしたものであろう。・・・

E-mail
Masa-ty@mco.ne.jp