偶然だったけど、今日は長谷川先生のNHKスペシャルを見た。
嗜銀顆粒性認知症 (argyrophilic grain/ Grain dementia)は、嗜銀顆粒というまがたま型の構造物が大脳の神経細胞に沈着することで脳の萎縮および認知症が起こる病気です。 高齢者の5-10% と比較的多くみられるとされます。
確定診断は病理診断であり生前診断は困難である。内側側頭葉の萎縮と血流低下の左右差が本疾患を疑うきっかけになる。
経過は緩徐進行性であり臨床経過は4~8年といわれている。
認知症になった認知症の第一人者。
その気づきと言葉
認知症医療の第一人者である医師の長谷川和夫さんが認知症になった。そして、「自分の姿を見せることで、認知症とは何か伝えたい」と公表し、精力的に講演活動を行っている。人生100年時代を迎え、誰もが認知症になりうる時代。専門医としての気づきとことばには、認知症を生き抜くための「手がかり」と「希望」があった。
「本人の心の中を見たのはこれが初めて。」
認知症医療の第一人者であり、記憶力などをテストする「長谷川式簡易知能評価スケール」を開発。認知症の人の尊厳を守るため、病名を痴呆から「認知症」へ変更することを提唱した長谷川さん。
長谷川さんが「認知症に対する研究、診療っていうのは何がなんでも続けるぞと思った。」と強く誓ったきっかけが、主治医を務めていた患者、岩切健さんだ。
健さんは50代でアルツハイマー病を発症し、亡くなるまでその胸の内を明かすことはなかった。唯一残していたのが、五線紙に書かれた言葉だ。
「僕にはメロディーがない。和音がない。共鳴がない。帰ってきてくれ。僕の心よ、全ての思いの源よ。再び帰ってきてくれ。あの美しい心の高鳴りは、もう永遠に与えられないのだろうか。」(五線紙に書かれた岩切さんの言葉より)
健さんが亡くなったあと、妻の裕子さんが五線紙のことを長谷川さんに打ち明けた。
「先生がハンカチ出してポロポロ泣かれて、黙って私を抱きしめてくださって。先生も自分は勉強として、脳がどんなふうになっていくというのはいっぱい研究してきたけども、『本人の心の中を見たのはこれが初めて』とおっしゃった。」(裕子さん)
「自分自身が壊れていきつつあることは、別な感覚で分かっている。十分に分かっているつもりではないけども、ほのかに分かっている。」
認知症が進行していることを自覚している長谷川さんは、認知症になって初めて分かった当事者の胸の内をこう説明する。
「いつも確認していなくちゃいけないような、そういう感じ。自分自身が壊れていきつつあることは、別な感覚で分かっている。十分に分かっているつもりではないけども、ほのかに分かっている。確かさ、確かさっていう生活の観念が。生きている上での確かさが少なくなってきたように思うんだよね。」(長谷川さん)
長谷川さんは日々失われていく「確かさ」に抗うようにできるだけ外出し、お気に入りの喫茶店でリラックスするが、日記には複雑な心情を吐露する。
「一生懸命、一所懸命やってきた結果こうなった。どうも年をとるということは容易ではない。僕の生きがいは何だろう?」(日記より)
「(認知症は)神様が用意してくれたひとつの救い。」
認知症の人の心に寄り添い半世紀にわたって診療してきた長谷川さん。しかし、自身が認知症と分かったとき、想像以上の不安に襲われたと打ち明ける。
「もうだめだとか。もう僕はあかんとか。もう何もできなくなるのかとか。どんどんひとりになる。自分が認知症になってみたら、そんなに生やさしい言葉だけで、人様に申し上げることはやめなくてはならないと。こんなに大変だと思わなかったな、ということだよね。」(和夫さん)
認知症と向き合う長谷川さんを支えるのが妻の瑞子さん。いま、長谷川さんは、1日の終わりに妻の瑞子さんに「ありがとう」の言葉を伝えるようになった。
認知症とは何か。それは、ひとつの救いだと長谷川さんは言う。
「余分なものは、はぎとられちゃっているわけだよね、認知症になると。(認知症は)よくできているよ。心配はあるけど、心配する気づきがないからさ。神様が用意してくれたひとつの救いだと。」(長谷川さん)
そして、認知症になっても見える景色は以前と変わらないと語る。
「変わらない、普通だ。前と同じ景色だよ。夕日が沈んでいくとき、富士山が見えるとき、普通だ。会う人も普通だ。変わらない。」(長谷川さん)
詳しくは、認知症の第一人者が認知症になった
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