9時、起床。寝坊した。
トースト、サラダ(鶏のササミ)、紅茶の朝食。
9時半に家を出て、大学へ。
10時半から大学院社会学コース会議。
会議は昼過ぎに終わり、昼食は「たかはし」に食べに行く。
台形をした大きなテーブルの岬の突端のような場所に座る。チューリップの「岬めぐり」を口ずさむ(嘘です)。
カツオの刺身定食を注文。
戻りカツオの方が脂がのって美味しいという人もいるが、私は初鰹の方が好きだ。
同僚の小沼先生から新著をいただく。ありがとうございます。
小沼純一『音楽に自然を聴く』(平凡社新書)
研究室に戻って雑用をしていると、事務所のNさんがやってきて、お八つのおすそ分けをいただいた。音羽の「群林堂」の豆大福である。これ、午前中に行って並ばないと買えないものである。どうもありがとうございます。
2時から教授会。
5時半頃に終わり、研究室に戻って、さきほど豆大福と一緒にいただいた柏餅を食べる。
6時半に大学を出る。
JRのどこかでトラブルがあったらしく蒲田に着くまで時間がかかった。
「有隣堂」でNHKの短歌と俳句のテキスト(5月号)を購入。
ここで一緒に死ぬかもしれぬ電車の中少し離れて一人知り人がゐる 小見山輝
8時、帰宅。
夕食は肉野菜炒め。
人参が黒いのは焦がしたわけではなくて、そういう種類の人参なのである。(と書いておくようにと妻が言う)
食後に小さなパウンドケーキと紅茶。
TVドラマ『ゆとりですがなにか』の第一話(録画)を観る。「「ゆとり世代」の定義には諸説あるが、ドラマでは1987年生まれ(今年29歳になる)の3人の主人公が「ゆとり第一世代」と呼ばれていて、その特徴として、「野心がない」「競争意識がない」「協調性がない」の3つが挙げられている。「いまどきの若者は・・・」と大人が若者を批判するときの物言いの現代版である。3つの特徴は連動している。野心は志とか夢とかと言い換えることができるが、希少な社会的資源(金、地位、権力、名声・・・)を得ようとすれば必ず競争が生じる。これは個人間の競争だけでなく集団間の競争(闘争)にもあてはまるわけで、集団間の競争(闘争)に集団が勝つためには集団内の団結が求められる。しかし、野心に乏しい人間は、競争心が乏しくなるし、集団的競争状態への協調性も乏しくなる。若者が野心に乏しいとすれば、それは野心的に生きている大人たちが魅力的に見えないからである。だからそういう大人たちから「おまえたちには野心が乏しい」と批判されても「あなたたちのようにはなりたくないのだ」と思っている若者には効果がないのである。「ゆとりですがなにか?」というのはそういう切り返しの台詞である。もっとも主人公たち「ゆとり第一世代」にはそれ以前の世代のメンタリティーもいくらかは残存しているわけで、「ゆとりですがなにか?」とスパッと切り返すことができないところがある。そういうモヤモヤした思いを抱えた若者たちの物語。ちなみに私の世代(熱い団塊の世代のすぐ後の世代)は世間から「しらけ世代」と呼ばれていましたね。