8時半、起床。
トースト、ベーコン&エッグ、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。
今日は気持ちよく晴れているが、GW中の天候は不安定らしい。
昼食は「マーボ屋」に食べに行く。
GW中もほぼ平常営業(水曜定休)で行くらしい。
卒業生らが蒲田に来たときの食事処としては、カフェ兼用の「HITONAMI」と「テラスドルチェ」以外では、ここ「マーボ屋」、「ティティ」(ベトナム料理)、「SUZUKI」(西洋料理)、「梅Q」(釜飯)といったところだ。下丸子の「喜楽亭」(チキンカツ定食)はこれまで一人だけ一緒にいった卒業生がいるが(論系ゼミ1期生のアズサさん)、「行きたいです」という希望は聞かない(笑)。「いっぺこっぺ」(カツカレー)は希望者はいるが、行列のできるカウンターだけの店なので社交向きではない。「天味」(てんぷら)は家族御用達の店で社交用には使っていない。
4月のランチメニューから春キャベツと豚肉のあんかけ焼きそばを注文。 2度目の注文だ。
食後のコーヒーは「ノザワBAKE」で。女性客3人が二人用のテーブルを2つくっつけてお茶をしていた。ここでは珍しい情景である。
メープルケーキとコーヒー。
プレインビスケット(プチサイズ)をおまけでいただく。
清水直子さんの陶展のDMをマスターが預かっていてくれた。
清水直子陶展「Wispers」
期日:5月8日(水)~12日(日)
場所:西荻窪「FALL」
時間:12:00~20:00
8日(水)、午前中の会議と夕方の会議の間にちょっと行ってみようかしら。
家の戻って、居間のソファでうたた寝。
昼寝から覚めて、そのままソファで『20世紀ラテンアメリカ短篇集』(岩波文庫)を読む。カルロス・フェンテス「チャック・モール」はアカプルコで溺死した職場の元同僚の遺体を乗合バスに乗せて彼の自宅まで運ぶ男が、車中で遺品のノートを開いて、元同僚に起こった驚愕の出来事を知るという話。
タイトルの「チャックモール」とは 「生贄を捧げる祭壇として用いられたと思われるマヤの仰臥人像。マヤの雨の神としても知られる」(24頁)。元同僚は一体のチャックモールを露店で購入して自宅の地下室においておいたのだが、これが命を持つに至ったのである。
岩波文庫の活字は私が学生の頃に比べればフォントが大きくなったし、行間もゆとりがあるが、それでも乱視と老眼の私には老眼鏡とハズキルーペを重ねて着用する(くっきり、大きくする)必要がある。
名古屋の会社で働いている息子が帰省した。GW前半はこちらで送るらしい。
夕食は豚肉のピカタ、サラダ、刺身豆腐、玉子と玉ねぎの味噌汁、ご飯。
妻がいうにはピカタ風(ピカタとカツの中間)とのこと。たしかにパン粉も使っています。
書類の整理をしながら『集団左遷』第2話をリアルタイムで観る。場所は大手銀行の蒲田支店という設定だが、なんで多摩川の土手が通勤ルートなのかは意味不明。あんなところ歩いている(まして走っている)サラリーマンたちなんていませんよ。地元の信用金庫の支店だって土手の近くになんかないでしょう。「蒲田=中小の町工場の街」というイメージが強すぎて、それに合わせてロケーションが無理に設定されているのであろう。ドラマのストーリーはわかりやすい。大きな組織における中央と周辺という構図があって、中央の抑圧に耐えながら反逆をする周辺という物語だ。徳川幕府と地方の弱小藩の物語の現代版(いや、そちらが現代の企業物語の江戸時代版というべきか)である。
『20世紀ラテンアメリカ短編集』所収のイザベラ・アジェンデ「ワリマイ」を読む。侵略者に捕らわれてゴム農園で働かされていた青年が、そこを脱出して村に帰って来るまでの物語。その語りには魅了されるものがある。
「親父がわしにつけてくれた名はワリマイ。わしら北に住む者の言葉では風を意味している。今からその話をしてやってもいい。あんたはもう実の娘同然だからな。それに、家の中でだけだが、わしの名前を呼んでも構わない。人や生き物の名前には、よく気をつけなけりゃならんよ。名前を口にしたとたん、相手の心臓に触れ、その生命力の中に入り込むからだ。だからわしらが挨拶するときは、血を分けた身内同士としてそうする。外国人が、恐れるふうもなく気安く名前を呼び合うのが、わしには理解できない。そいつは尊敬を欠いているばかりか、ひどく危ないこともある。そういう連中は話すことは存在することでもあるなんて考えもせず、実に気軽に話をするようだ。身振りと言葉は、人の考えを表している。無駄口を叩いてはならん、わしは子供たちにそう教えた。(中略)きちんと教わった人間は、教わったことをひとつひとつ想い出せるから、どんなときでもどのように振る舞えばいいかが分かってる。」(41-42頁)
ワリマイの言っていることは、「非科学的」であり、彼のパーソナリティは社会学者リースマンの用語でいえば「伝統指向的」である。しかし、決して「野蛮」ではないし「軽薄」でもない。むしろ流動化する社会の中で存在論的不安を抱えて生きている現代人にとって、自分たちの生き方に反省を促す人間モデルを示している。たとえていえば、『なつぞら』の柴田泰樹(草刈正雄)みたいな人物である(かな?)。
2時半、就寝。