昨夜、宮本輝氏の『にぎやかな天地』を読み終えました。彼は若い頃からずっと読んでいる数少ない作家です(年齢と共に、読む本の趣味が変化しているため)。
本、特に小説は、何か知識を得よう、利口になろうという思いで読んでいるわけではありませんが、宮本氏の小説を読んでいると、軽い座右の銘的なコトバが沢山出てきて、いつも「ほぉ」と思います。それは、「そうだったのか!」と新しい知識を得るというよりは、ずっと自分の頭や心の中にあった漠然としたモノが実際のコトバとして目に触れる、という感覚です。
今回の「ほぉ」は(記憶なので、文章がそのものズバリではないかも)、『いい仕事をする人間は、自分の仕事に後ろめたさが無い。だからいつも堂々としていられる』、『勇気は湧くのではなく、出すもの』、『(文章に)書いておかないと消えてしまう』、『死というものは生のひとつの形なのだ』。
子供のころ、国語のテストで、『ココで作者は何を言いたかったのでしょうか』という問題が出る度、「私はこうだと思うけど、作者が本当に言いたかったことなんて、私にも先生にも分からないんじゃないかな?」といつも思っていました。でも今は、作者がココで何を言いたかったのか、というのは、「自分はココで何を受け取ったか」、ということだったのだろうな、と思うのです(その解答に対して点数をつける先生も大変だ)。
写真、音楽、絵画などの芸術の世界に比べると、文章はある程度共通の意味をもったコトバを材料にしている分、直接的に作者の意図が伝わってくるし、『作者は何を言いたいんだろう、ココでのメッセージは何?』と考え込んでしまいがちでした。でも、最近は、「作者の投げてきたモノ」を読者(私)が受け取るとは限らない気がするけど、それでもいいや、この本を一冊読むことによって、何かを私が受け取れば充分、と思うようになりました。
上記の本の主人公が、週に数日は、糠漬けと納豆だけの夕食にすると体調がいいと、言っていました。そういうことで、今夜は納豆ゴハンだよ、二代目。
本、特に小説は、何か知識を得よう、利口になろうという思いで読んでいるわけではありませんが、宮本氏の小説を読んでいると、軽い座右の銘的なコトバが沢山出てきて、いつも「ほぉ」と思います。それは、「そうだったのか!」と新しい知識を得るというよりは、ずっと自分の頭や心の中にあった漠然としたモノが実際のコトバとして目に触れる、という感覚です。
今回の「ほぉ」は(記憶なので、文章がそのものズバリではないかも)、『いい仕事をする人間は、自分の仕事に後ろめたさが無い。だからいつも堂々としていられる』、『勇気は湧くのではなく、出すもの』、『(文章に)書いておかないと消えてしまう』、『死というものは生のひとつの形なのだ』。
子供のころ、国語のテストで、『ココで作者は何を言いたかったのでしょうか』という問題が出る度、「私はこうだと思うけど、作者が本当に言いたかったことなんて、私にも先生にも分からないんじゃないかな?」といつも思っていました。でも今は、作者がココで何を言いたかったのか、というのは、「自分はココで何を受け取ったか」、ということだったのだろうな、と思うのです(その解答に対して点数をつける先生も大変だ)。
写真、音楽、絵画などの芸術の世界に比べると、文章はある程度共通の意味をもったコトバを材料にしている分、直接的に作者の意図が伝わってくるし、『作者は何を言いたいんだろう、ココでのメッセージは何?』と考え込んでしまいがちでした。でも、最近は、「作者の投げてきたモノ」を読者(私)が受け取るとは限らない気がするけど、それでもいいや、この本を一冊読むことによって、何かを私が受け取れば充分、と思うようになりました。
上記の本の主人公が、週に数日は、糠漬けと納豆だけの夕食にすると体調がいいと、言っていました。そういうことで、今夜は納豆ゴハンだよ、二代目。