<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

おれはおれ女房(にょうぼ)は女房年暮るる

2019年12月21日 15時43分00秒 | Weblog

おれはおれ女房(にょうぼ)は女房年暮るる

☆ 

わたしのこの俳句が先日、入選句に選ばれていた。ラッキー❕


自分が書いておきながら、なぜ入選になったのか、分からない。いまもって俳句の書き方が分からない。


一つ家に寝起きしているだけの老夫婦、その一年の暮らしで、それぞれが一年の終わりを迎えている。それぞれは干渉をしない。近づき過ぎることもない。遠離(とうざか)り過ぎることもない。ハゲ山の岩の二つが、空を仰いでごろりと転がっているばかりだ。


俳句は季語が物を言う。この句では「年暮れる」が季語。季節がそこにまざまざと浮かび上がればそれでいいのかな、俳句というのは。


選んでくれなかったもう一人の選者が、総評の中でこう書いておられた。

「俳句には、たとえば演歌のような、感情の連続はありません。ほんの一瞬身辺を通り過ぎる風にも似た抒情こそが、俳句の命なのではなかろうかと考えています。最近、どうした、こうしたと、事柄を述べる俳句が増えてきました。心したいものです」


そうか、通りすぎる風にも似た抒情こそが俳句の命なのかあ。ふうううん、難しいなあ。理解も難しいが、そういう俳句に漕ぎ着けるのがまたさらに難しい。


ちなみにこの選者の選んだ一席の句は、
 
お隣にみどり児のゐて冬ぬくし     伊万里市 藤本みどりさん

選者評は、「俳句はこれで十分です。俳句を作らない人にも分かります。やさしく、あたたかい句です」とあった。

そうかあ、「俳句を作らない人にも分かる句」がキメテ、ということか。「やさしく、あたたかい句」を目指したらいいのか。

 

 

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我が手に落ちてしばしもの言う わたしの短歌の入選歌。

2019年12月21日 10時51分28秒 | Weblog
寂しさは入り日の雲の燃え残り 我が手に落ちてしばしもの言ふ     山鳩暮風


今朝のS新聞短歌部門にわたしのこの作品が入選していました。二人の選者から。うふっふうになりました。滅多に入選しないのです。


我が手に落ちて来たのは雲の欠片です。暫く留まっていました。そして慰めを言うのです。「あんたも寂しそうだなあ」などと。ま、それで、わたしは気が紛れます。あったかくなります。
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めずらしく入選。川柳部門2席。わあ、嬉しい。

2019年12月21日 10時35分30秒 | Weblog
極樂へ行く雲だろう手を挙げる     山鳩暮風


今朝のS新聞読者文芸欄、川柳部門に、わたしのこの作品が、小松多聞選で2席に選んで頂いていた。有り難うございました。

☆ 

選者評にこうあった。

ゆっくりと西へ流れていく雲。「おおい雲よ」と、手を挙げる。極樂行きの雲に乗るつもりなのか。いやいや、西方浄土へ行くにはまだ早い。もう少し現し世を楽しもう。


この世に浮かぶ雲はみんな極樂へ向かって流れている。どの雲も行く先は「極樂」と書いてある。載せて貰えばもうけもの。乗せてくれるかどうか。ともかくも手を挙げてみた。ふっふっふ、無視されてしまった。積善が足りぬらしい。こりゃ、難しいことになったわい。
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