おれはおれ女房(にょうぼ)は女房年暮るる
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わたしのこの俳句が先日、入選句に選ばれていた。ラッキー❕
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自分が書いておきながら、なぜ入選になったのか、分からない。いまもって俳句の書き方が分からない。
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一つ家に寝起きしているだけの老夫婦、その一年の暮らしで、それぞれが一年の終わりを迎えている。それぞれは干渉をしない。近づき過ぎることもない。遠離(とうざか)り過ぎることもない。ハゲ山の岩の二つが、空を仰いでごろりと転がっているばかりだ。
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俳句は季語が物を言う。この句では「年暮れる」が季語。季節がそこにまざまざと浮かび上がればそれでいいのかな、俳句というのは。
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選んでくれなかったもう一人の選者が、総評の中でこう書いておられた。
「俳句には、たとえば演歌のような、感情の連続はありません。ほんの一瞬身辺を通り過ぎる風にも似た抒情こそが、俳句の命なのではなかろうかと考えています。最近、どうした、こうしたと、事柄を述べる俳句が増えてきました。心したいものです」
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そうか、通りすぎる風にも似た抒情こそが俳句の命なのかあ。ふうううん、難しいなあ。理解も難しいが、そういう俳句に漕ぎ着けるのがまたさらに難しい。
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ちなみにこの選者の選んだ一席の句は、
お隣にみどり児のゐて冬ぬくし 伊万里市 藤本みどりさん
選者評は、「俳句はこれで十分です。俳句を作らない人にも分かります。やさしく、あたたかい句です」とあった。
そうかあ、「俳句を作らない人にも分かる句」がキメテ、ということか。「やさしく、あたたかい句」を目指したらいいのか。