わたしをそこに見せてくれるのは体。わたしは見えない。見えないわたしを見えるように仕向けてくれるのは体。その体に「わたしの」の修飾語を置いてみる。「わたしの肉体」という具合に。この場合には、「わたしの」は「わたしが所有している」という色彩を強くすると、わたしと体は別々に離れてしまう。1+1=2ではなく、1+1=1でなければならないと思う。これが思い遣りだと思う。所有物なんかじゃないのだから。ほぼそっくりわたしなんだから。体がわたしを諦めて去って行ってしまうとわたしはまた元に戻って早速見えなくなってしまう。でも、1は1なんだ。と思う。わたしが見えなくしてあるのは、わたしを解消してしまわないためである。わたしを永遠にしておくためである。そういう使命を帯びているわたしを、わたしの体も尊重をして、本来の使命に戻してやろうとする。死が訪れる。でもそれはわたしの死ではない。それを知覚させようとするが、わたしは体への愛着を尊重して悲しみに暮れることになる。永遠の1を忘れないで欲しい。もう一つの1、この世にいる間のかりそめの1がそう訴えてくる。
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