徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

肥後と津軽のはなし。

2015-05-01 17:38:23 | 歴史
 津々堂さんのブログ「津々堂のたわごと日録」に肥後細川藩11代の韶邦(よしくに)公の名前を話題に取り上げておられる。
 先日、泰勝寺跡でお墓参りをしたばかりだが、韶邦公には不思議な親しみを感じる。多分、万延元年(1860)10月の初御入部の行列絵図(大分県鶴崎剣八幡所蔵)を何度も見ているからだろう。それともう一つは明治維新時の戊辰戦争(1868-1869)の時に起きた「ハーマン号事件」の印象が強いからかもしれない。
 「ハーマン号事件」というのは、戊辰戦争の時、函館の五稜郭に立てこもる榎本武揚率いる旧幕府軍と、新政府側として戦っていた津軽(弘前)藩主津軽承昭公が、実兄である熊本藩主の韶邦公に援軍を要請し、これに応えて熊本藩は藩兵一大隊350人を、横浜で借り受けた米蒸気外輪船ハーマン号に乗せ高輪を出航した。明治2年1月2日のことである。しかし翌3日の夜、勝浦沖で暴風雨に遭い船は沈没。乗組員は荒波の中に投げ出され、熊本藩士やアメリカ人乗組員など二百余名が犠牲になったという事件だ。
 つまり、この時、熊本藩と弘前藩は親戚だったわけだが、縁ができたのはずっと古く、「宝暦の改革」で知られる肥後細川6代細川重賢公と弘前藩8代津軽信明公は親交があり、弘前藩の改革は重賢公の改革に影響されるところがあったのではないかといわれているそうだ。

▼最近の泰勝寺跡



▼細川韶邦公の初御入部の行列絵図に描かれた山鹿屋人足(47名がハーマン号事件の犠牲となった)

(大分県鶴崎剣八幡 所蔵)


▼北前船によって伝わった「牛深ハイヤ節」をルーツとする「津軽あいや節」