徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

S部長とパソコン

2015-05-22 15:32:43 | 友人・知人
 パソコンなるものと付き合い始めて35年になる。最初の1、2年は思い出すだにおぞましい。当時のパソコンは自らプログラムを作るしか使う方法はなかったからだ。それでも僕が挫折することなく、今日のIT社会にもなんとかキャッチアップできているのは、ある人との出逢いがあったからである。
 その人と初めて出会ったのは僕が新入社員として研修を受けた1970年、横浜工場でのことである。その人、Sさんは当時従業員数2千名を超える工場の総務部長だった。180cmを超える長身でダンディな人だった。夕方になると毎日体育館でのバスケットで一汗流し、コーヒーの紙コップを握って事務所へ戻ってきた。年末の部内パーティーでは女子社員をリードして颯爽と社交ダンスを踊った。なにしろカッコよかった。僕の憧れの存在だった。僕たちの研修が終わり、配置先へ赴任するとSさんとは縁遠くなった。Sさんと再会したのはそれから約10年後、東京本社の地下、生協事務所の片隅だった。折しも、OA化ブームで僕が勤務していた栃木工場の生協にもパソコンシステムを導入することになり、先行していた本社に教わりに行ったのだった。そして、その本社の生協システムを開発したのがSさんだったのだ。あの颯爽とした横浜工場の総務部長だった人がなぜここに?いぶかしがる僕に先輩社員がそっと教えてくれた。それによるとSさんは横浜工場から他工場の総務部長を歴任した後、関連会社の社長として出向していたが、その時何かがあったらしく役付を全部外されたのだという。そこで本人は一念発起、ちょうど始まったばかりのOA化に自分の再生を掛けたのだという。当時既に50代の半ばを過ぎていたと思うが、独学でプログラミングを修得し、生協のシステムを自ら開発したのだった。その努力ぶりを見るにつけ、まだ若い自分に同じことができないわけはないと発奮させられた。そのお蔭で、なんとかCOBOLなどの言語を使って簡単なソフトを作れるようになった。その後、あっという間のパソコンのハード・ソフトの飛躍的な向上にも、なんとかついて行けたのは、Sさんに出会ったからにほかならない。
 ちなみにこのSさん、元宝塚のトップスターだった日向薫さんのお父さんである。