徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

万田坑と海達公子

2015-05-27 18:59:36 | 文芸
 「明治日本の産業革命遺産」の一つとして世界遺産への登録勧告を受けた三井三池炭鉱の万田坑がある荒尾市は、官民こぞって喜びに沸き立っているという感じだ。
 荒尾市万田は、大正から昭和初期にかけて天才少女詩人と謳われた海達公子のふるさとでもある。大正5年、母マツヱの行商先、長野県の飯田町で生まれた公子は、ほどなく母とともに父松一がいる熊本県の荒尾町に移り住む。松一は大正2年から万田坑機械部書記として働いていた。機械部書記といっても実は運転手の仕事だった。家があったのは荒尾北小学校(先般閉校となった荒尾第二小学校)のすぐ近く、万田駅(荒尾駅)から万田坑へ向かう幹線道路沿いにあった。公子が幼い頃は、祖母のキクも同居して海産物の行商(阿波のいただきさん)を続けており、炭住もあって商売繁盛していたらしく、わりと裕福な家庭だったようだ。二階建ての家は大きな藤の木の枝が絡んで「藤の家」と呼ばれていたという。裏には田圃があり小川が流れていた。少し離れたところには厳島神社が見えた。この家には若山牧水夫妻や與田準一など文芸界の大物も訪れた。公子はこの家で14歳まで暮らした。祖母が死に、父の朝鮮出奔などで経済的に困窮し、差し押さえられて引っ越さざるをえなくなった時の公子の悲しみは察するに余りあるものがある。今ではこの家の痕跡も残っていないが、万田坑が世界遺産となった暁には海達公子を顕彰する記念館も合わせて建てられればこんな嬉しいことはないのだが。
※右の絵は海達公子が小学生時代に描いた万田坑の風景
【参考文献】規工川佑輔評伝 海達公子」(熊日出版)