徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

小坪いかとり歌 ( 沖に見えるは いか採り舟か)

2015-05-16 23:45:24 | 音楽芸能
 こんな美しい民謡があることを知らなかったなんて。
 しかも学生時代にも縁があった逗子の民謡だったことに衝撃!
 今夜の「熊本城本丸御殿 春の宴」のことだ。舞踊団花童が踊った15曲ほどの演目の中で最も印象が強かった。
 逗子市唯一の漁港である小坪の港で古くから歌われてきたという子守歌だそうだ。本條秀太郎節と花童たちの踊りが見事にシンクロ。思わず泣きそうになった。


囃子方 堅田喜三久さん

2015-05-15 15:56:21 | 音楽芸能
 毎週金曜日ほとんど欠かさず「にっぽんの芸能」(NHK-Eテレ)を見るようになって4年ほど過ぎた。
 この間、オープニングのクレジットで目にした出演者のうち、最多回数の出演者はおそらく囃子方の堅田喜三久(かただきさく)さんだろう。人間国宝である。テレビ放送ではどうしても立方を中心に映すし、時には蔭囃子だったりもするので、演奏される姿を拝見する機会は限られる。できれば一度ナマで拝見したいと思う。10年前の「くまもと全国邦楽コンクール」の時に来熊され、旧細川刑部邸で演奏されたらしい。見たかった。またそんな機会があればいいのだが。
 さて、今夜の「にっぽんの芸能」では、女流舞踊家の共演による清元の舞踊「六玉川」が放送されるが、囃子方には堅田喜三久さんもクレジットされているようだ。


前列左端の太鼓が堅田喜三久さん

小町のはなし。

2015-05-14 20:27:02 | 歴史
 建設業に携わる女性のことを「けんせつ小町」と呼ぶそうだ。日本建設業連合会では、建設現場を女性たちが働きやすい環境にするため「環境整備マニュアル」を策定し、併せてロゴマークも設定した。
 さて、小町というのは言うまでもなく美人の誉れ高い平安時代前期の女流歌人「小野小町」のこと。今日でも「○○小町」「××小町」という呼び名は数多いが、もともとは小野小町のような才色兼備の女性のことをいう。「けんせつ小町」というネーミングがふさわしいかどうかはさておき、この小野小町ほど謎に包まれた人物も珍しいといわれる。これほど有名なのに古文書等の史料にほとんどその名が登場しない。一方では全国いたるところに生誕地や墓など小野小町ゆかりの地が存在する。わが熊本も例外ではなく、熊本市の北部、植木町には小野小町が産湯を使ったという「小野泉水」があり、現地の案内板には次のように記されている。

小野小町(平安時代の女流歌人、六歌仙の一人)の生誕地です。出羽郡司(秋田県)小野良実(小町の父)は、養父小野篁(たかむら)の罪に連座して、肥後のこの地へ流罪に処せられました。七国神社は、本国帰参の祈願のため良実が勧進したものであると伝えられています。配処の月を眺めること11年、この間に長女龍子、次女小町が生まれました。小町こそ世にいう絶世の美人小野小町のことです。生まれた時、ここの泉水の水を産湯に使ったと伝えられています。岩の隙間や池底から湧出する水は豊富であり、古庭園名ごりの池畔には、小町堂があり、小野小町像が安置されています。


小野泉水


七国神社


 日本民俗学の父、柳田國男はその著書「妹の力」の中で、「小野氏の伝承を語り歩く一群の巫女たち」の存在の可能性を指摘している。「小野小町は、そうした巫女たち自身と同一化して全国で伝説化したのではないか」という。
 能楽(謡曲)でも小野小町を題材とした、関寺小町、鸚鵡小町、卒都婆小町、通小町、草子洗小町、雨乞小町、清水小町の7作品は「七小町」と呼ばれ、古より根強い人気を誇る。

花の色はうつりにけりないたずらにわが身世にふるながめせしまに(小野小町)


▼おまけ
左は昨年の京都葵祭で小野小町に扮した祇園舞妓のまめ藤さん。右は秋田県産米「あきたこまち」のイメージポスター(イメージキャラクターは壇密さん)

 

物売りのひと

2015-05-13 15:40:53 | 歴史
 僕らの子どもの頃よく目にしたもので、絶滅したものの一つが「物売り」である。憶えているだけでも、野菜売り、アサリ売り、ナマコ売り、たまご売り、金魚売り等々、実にいろんな「物売り」が、天秤棒を担いだり、リヤカーを押してやってきた。しかし、今では映画やドラマの中でしか見ることはできない。
 昭和10年に寺田寅彦が著した随筆「物売りの声」には、当時既に滅びつつあった「物売り」を惜しんで次のような一節がある。

――今のうちにこれらの滅び行く物売りの声を音譜にとるなり蓄音機のレコードにとるなりなんらかの方法で記録し保存しておいて百年後の民俗学者や好事家に聞かせてやるのは、天然物や史跡などの保存と同様にかなり有意義な仕事ではないかという気がする。――

 僕の祖母は気位が高くて、あまり人当たりが良いほうではなかったが、なぜかこうした物売りのおばちゃんたちと仲良くなった。昼時にはわが家の狭い濡れ縁で弁当を開く人も多く、祖母はお茶や茶請けをふるまった。そんな物売りの中に「ハルカキさん」というたまご売りのおばちゃんがいた。僕らはそういう名前の人だと思っていた。ところがそれは祖母がそのおばちゃんにつけたあだ名だった。「ハルカキ」というのは熊本弁で「怒りんぼ」といった意味の言葉である。そのおばちゃんはいつ見ても苦虫を噛み潰したような顔をしていて、笑顔を見ることはまずなかった。しかし、祖母は本人に面と向かってそう呼ぶわけではなく、蔭でそう呼んでいたのである。ひょっとしたらそのおばちゃんは自分の名前を名乗ったことはなかったのかもしれない。なのに、祖母はこの「ハルカキさん」ととりわけ仲が良かった。
 祖母が床に臥しがちになったある日、「ハルカキさん」が訪ねて来た。床の中の祖母に向かって来訪を告げた。「誰かい?」と聞く祖母に僕は思いっきり「ハルカキさん!」と答えた。「ハルカキさん」の目の前で。「ハルカキさん」もそう呼ばれていることは薄々知っていたのだろう。何とも言えない微妙な笑みを浮かべた。僕はあの時の「ハルカキさん」の嬉しいような悲しいような表情を忘れることはできない。

※画像をクリックすると動画を再生します


ビッグイベント2つ!

2015-05-12 18:14:45 | イベント
 今月末から来月上旬にかけて行われるビッグイベントを2つご紹介します。

 「第27回熊本県高等学校総合文化祭」は、熊本県下の高校生が集結し、美術作品の展示や演劇・音楽の舞台発表などの芸術・文化を披露する高校生の文化の祭典です。

 熊本市鍛冶屋町出身の邦楽界の巨人、長谷幸輝(ながたにゆきてる)検校を記念して平成5年から始まった「くまもと全国邦楽コンクール」が21回目を迎える今年、「くまもと大邦楽祭」として衣替えし、一段とスケールアップした邦楽の祭典が繰り広げられます。

※下のパンフはクリック拡大してご覧ください

▼第27回熊本県高等学校総合文化祭





▼第1回くまもと大邦楽祭



おはら節 と いも焼酎

2015-05-11 13:37:26 | 音楽芸能
 今から47、8年ほども前の話だが、仕事で南九州を車で巡る旅をした。水俣から霧島の方に山道を進むと、大口を過ぎたあたり、川内川沿いに菱刈温泉という小さな温泉場があった。日も暮れてきたので、その日は温泉場の古い旅館に泊まることにした。夕食も終わり、温泉で疲れを癒した後、さて就寝しようとしたのだが、どこかの部屋で行われている宴会の歌声や手拍子、そして小さな旅館内に、燗したいも焼酎の匂いが充満してとても眠れる状態ではなかった。実は後年、僕もいも焼酎を好んで飲むようになるのだが、その頃は「熊本の男は酒(日本酒)!」みたいな教育を受けていたので、焼酎は一切口にしたことがなく、燗した焼酎の匂いが当時の僕にはキツかった。やがて宴会の席では「おはら節」を唄い始め、座はますます盛り上がっているようだった。そのうち酔っぱらった女中さんらが入れ代わり立ち代わり僕の部屋に転がり込んできたりして、とても寝ていられる状態ではなくなってきた。やむなく何度も温泉に退避するしかなかった。こうして菱刈温泉の夜は更けていった。

 ところで、「おはら節」はお座敷のさわぎ唄として流布したが、その由来は諸説あるようだ。関ヶ原前夜の慶長4年(1599)、島津氏領の日向安久(やっさ:現在の宮崎県都城市安久町)の侍が琉球に攻め入った時、陣中で唄い始めた「ヤッサ節」が、鹿児島の伊敷村原良(はらら)に伝わって「原良節」になり、さらに、上に小の字を加えて「小原良節」になったとの説が有力な一つの説のようだ。薩摩文化の影響を受けていた天草の牛深にも「牛深おはら(神輿かつぎ唄)」として伝わっている。
 しかし、「おはら節」が全国的に知られたのは昭和8年頃、鹿児島種子島出身の芸者歌手新橋喜代三の唄で制作された「鹿児島おはら節」のレコードが世に出てからである。また、その4年前、開局間もない九州初の熊本放送局(今のNHK熊本放送局)の特別番組で九州各県の民謡が紹介された時には、喜代三も出演し、「おはら節」を含む鹿児島民謡を全国に紹介している。
 彼女に一目惚れした作曲家の中山晋平(後に結婚)らの力もあって、一躍大スターとなった喜代三は後に映画にも出演、山中貞雄監督の名作「丹下左膳余話 百万両の壺」などが有名である。
※右の写真は「丹下左膳余話 百万両の壺」に出演した時の喜代三


ここはどこ?(その2)

2015-05-10 22:15:32 | 熊本


 今回も森様にご提供いただいた熊本の古い写真です。

 さて、ここはどこでしょう?

 大洋デパートの看板と前方に見える電車がヒントです。
 
 商店の店先にアーケードが見えますので、50年程前ではないかと思われます。
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 実は、ここなんです。



下通り界隈を歩く

2015-05-09 23:22:11 | 熊本
 先日、母を病院へ連れて行き、待ち時間が長くなりそうだったので付近を散策した。歩きながら古い町名の標識を見るとふと、祖母のことを思い出した。一番被分町(現在の中央区水道町)生まれの祖母は熊本の街についてやたらと詳しかった。生前に聞いておけばよかったと思うことがしょっちゅうある。

▼光琳寺通り



 昔、この辺に光琳寺というお寺があり、肥後細川藩初代・細川忠利公が没した時、殉死した犬曳き役の津崎五助と、主人の後を追った愛犬の墓があったという。
 また、夏目漱石が熊本に赴任して最初に住んだ家がこの寺の裏にあった。この家で鏡子夫人との結婚式もあげたのだが、この家はすぐ前が墓場で、その上、昔ここに住んでいた武家のお妾さんが不義をはたらいてお手打ちになったという不気味な家で、鏡子夫人がいやがり、わずか三ヶ月で引っ越したという。
 漱石はこんな句を残している。

すゞしさや裏は鉦打つ光琳寺

 今ではこの通りも、夜はネオン煌めく歓楽街だが、昼間に見ると薄汚れて見えるのはなぜだろう。

▼相撲町


 光琳寺通りから下通りを横切って東の方に進むと相撲町がある。ここは三代藩主・細川綱利公が相撲の宗家・吉田司家十五代追風を招聘し、ここに屋敷を構えさせた。以降、この界隈に力士など相撲関係者が多く住むようになりこの名がついた。
 維新十傑の一人である横井小楠は、沼山津に引っ越す前の約10年間、ここに住まい私塾「小楠堂」を開いた。

シャーロット と 猿丸太夫

2015-05-08 19:34:53 | 歴史
 大分・高崎山の「シャーロット騒動」も英国王室のおとがめなしで一段落したようだ。そもそも抗議した人たちは何に対して怒ったのだろうか。シャーロットという名前は英国王室しか使えない名前ではないし、シャーロット王女を猿呼ばわりしたわけでもない。どうもよくわからない。もし今回、猿以外の動物にシャーロットという名前をつける話だったらどんな反応だっただろう。そこにはやっぱり人間の「猿観?」が表れているように思う。歴史的に猿は人の真似をする愚かな存在としてあざけられ、「猿」という言葉は小知恵が働く人に対する「蔑称」としても使われてきた。動物の中で最も人間に近い高度な知能を持ったばかりに猿が味わうこの悲哀。どうしたものか。
 ところで、先月から読み始めた梅原猛著「うつぼ舟シリーズ」もやっと3冊目の「世阿弥の神秘」を読み終えた。初めて知ることばかり次から次に出てくるので少々混乱気味だ。中でも飛鳥時代の歌人で三十六歌仙の一人である柿本人麻呂が、同じく三十六歌仙の一人である猿丸大夫と同一人物だという話は興味深かった。政敵などから「人麻呂(丸)→猿丸」とあざけられていたのだという。梅原氏のこの説が定説になったわけではなさそうだが、今から千三百年も昔、既に「猿」は蔑称として使われていたわけだ。
 旧藩時代、肥後の飛び地だった大分の鶴崎には、400年以上も続く祭り「鶴崎踊」が毎年8月に行われる。この祭りでは「左衛門」と「猿丸大夫」の二つの曲が踊られるが、江戸時代中期、お伊勢参りが一大ブームになった頃、お伊勢帰りの人たちによって鶴崎に持ち帰られたというのが「猿丸大夫」。現在歌われる詞章は時代が下ってから作られたものと思われるが、ゆったりとして古雅な趣のある曲調は、おそらく室町時代あたりに伊勢で踊られた風流踊りの流れを汲むものではないだろうか。悲劇的な最期をとげた柿本人麻呂こと猿丸太夫を偲んで踊り始めたのかもしれない。 

栗田弘一氏撮影

Oh ! ビバリ!

2015-05-07 19:43:47 | 音楽芸能
 今日のお昼、NHKの「スタジオパークからこんにちは」に前田美波里さんが出演していた。同局の木曜時代劇「かぶき者慶次」に和泉局の役で出演中なのでその番宣を兼ねてだろう。
 今年、なんと67歳になるという。今や伝説となったあの資生堂のポスターから49年。僕の学生時代、店舗などに貼られたポスターが次々と持ち去られ、マスコミをにぎわしたものだ。その頃、彼女はまだ19歳だったわけだが、それから10数年後、30歳を超えたばかりの美波里さんを間近で見ることができた。赤坂での彼女のディナーショーだった。ほんの2、3メートル先で網タイツの彼女が唄い踊る姿に圧倒された。ちょうどミュージカルの舞台「コーラスライン」で新境地を開き、自信をつけた頃だったと思う。映画「キャバレー」のライザ・ミネリにもけっして負けていないな なんて思ったりしたものだ。あれからもう30余年。ほとんど同世代の彼女にはまだまだ頑張ってほしい。


ビエント くすのきコンサート

2015-05-06 17:26:25 | 音楽芸能
 熊本県伝統工芸館でビエントViento:吉川万里・竹口美紀)のコンサートを観る。ビエントのファンになってもう10年以上。以前はコンサートにもよく行ったものだが、最近は、お城まつりなどで花童と共演される時しか見ていない。そんなわけで今日は久しぶりにじっくり観させていただいた。
 会場となった伝統工芸館のテラスは、来るとよく木陰でひと休みするのだが、いつも決まって、昔はすぐ下を坪井川が流れていて、少し下流へ行ったところに宮本武蔵の屋敷があったことなどを思う。今日もそんなことを考えていたら、MCの吉川さんが、テラスに残る古井戸にちなんで、ちゃんとそんな話を織り込んでいた。さすがだ。 


相変わらず音楽性豊かなビエントサウンド


パーカッショングループ、テレピーも出演

ちびっこテレピーも!


さくらちゃんのラテン系(?)舞踊


▼ビエント作曲「細川ガラシャ」

「明治日本の産業革命遺産」世界遺産へ!

2015-05-05 12:39:11 | ニュース
 「明治日本の産業革命遺産」について、ユネスコの諮問機関イコモス世界遺産への登録を勧告したことにより、熊本県内の二つの遺産世界遺産登録がにわかに現実味を帯びて来た。
 おめでたいことには違いないが、喜んでばかりはいられない。世界遺産となると今まで以上に維持保全に力を注がなければならないからだ。ところが、これが実は簡単ではない。老朽化した箇所を補修するにしても歴史を感じさせる風合いが消えてしまっては興醒めになってしまう。数年前、万田坑の竪坑櫓の防錆塗装が問題になったこともあった。
 また、炭鉱事故・災害や劣悪な労働環境、強制徴用など、負の遺産も包み隠さず公開しなければならないことはいうまでもない。

▼万田坑
2008年9月、映画「信さん」ロケに参加した時に撮影







▼三角西港
2011年4月、大矢野町上小学校を訪問した際に立ち寄り撮影



ここはどこ?

2015-05-03 21:26:43 | 熊本

 熊本の古い写真です。(ネットを通じてご交誼を賜っている森様のご提供です)

 さて、ここはどこでしょう?

 ダンスホールシロミの看板がヒントです。
 また、前方に今はなき某デパートが写っています。
 従って、40~50年ほど前ではないかと思われます。