【32日勤 行路】
このブログで触れたくない事っていっぱいあります。
ブログ運営していて、不愉快な事あったり気持ち悪い事あったりしたら嫌ですからね。
また、「思い出したくない」事だってあります。
その一つが「能登線廃止」
自分の生まれた昭和39年に全線開通して、自分とともに育ってきて、自分の「厄年」の年に一番身近で、思い出深い鉄道が廃止され、一番仲良かった友達を亡くしたような気持ちが、ずっとずっとありました。
だから、あえて「能登線」については触れていなかったし、今まで思い出したくないので、車では線路のあった場所を避けるように走っていました。
でも、今日で廃止されて七年。
いつまでもよかった思い出ばかり引きずってばかりもいられません。
「鉄道」がなくなったという現実に立ち向かっていかなくては・・・との思いで、久しぶりに珠洲市内の各駅のあった所へ仕事帰りに行ってきました。
「珠洲駅」は昔の面影はわずかにホームにあるだけで、あとは全くなし・・・
「能登線」生みの親と言われる「益谷秀次先生顕彰碑」が静かにたっているのが哀れでした。
3歳ころから、父と貨物列車を見に来た場所・・・
私が「鉄道好き」になったいつも貨物列車を見ていた「原点」となる場所・・・
そこだけが、かろうじて今もレールもホームもそのまま残ってくれた事が嬉しかったです。
帰りに“すずなり”という「道の駅」となった「駅」で“記念きっぷ”購入しました。
「蛸島駅」は悲しいことに“荒れ放題”
某NPO法人が体験運転や駅売店などで観光の目玉一つとして「のと鉄道」から車両や土地を購入して、維持・管理・運営するようになったのですが、最近は全然聞かなくなりましたね。
地元の蛸島の人たちは、「鉄道好き兄弟」の私と弟もこのNPO法人に加わっていると思っている方も多く、超~閉鎖的で荒れ放題の駅を見て、苦情を言って来たり嘆いたりしています。
実は、私たち兄弟は全く関与しておりません。
最初から声すらかかっていません。
NPO法人には、どんな思惑があるのか知りませんが、せっかくの「貴重な財産」をいつまでも残していくためにも、町ぐるみで行動していかないといけないのに、いったい何を考えていらっしゃるのか・・・
7年前、蛸島駅最終列車でここで「1歳9か月」になる姪っ子から花束受け取ったのが遠い昔のよう・・・
《写真提供 湯浅 啓 氏》
当然ながら今「8歳」の姪っ子は覚えていないようで、ここに列車が走っていたという事実すら知らないようです。
姪っ子のために最終日には「臨時列車」を走らせたんですがね・・・
《写真提供 湯浅 啓 氏》
色あせた「61キロポスト」が7年の年を経て風化してしまっていましたが、植えられていた「桜」だけはしっかりと蕾つけていましたね。
桜の「花見」シーズンには駅を開放してほしいと思っているのは、私だけではないと思います。