石川九楊『書く―言葉・文字・書』(中公新書、2009年)
石川九楊『書く―言葉・文字・書』(中公新書、2009年)
年末にはたいていこの一年に出版されたなかでお薦めの三冊とか五冊なんて特集がどの新聞でもあるのだが、昨年の年末には多くの評者がこの本を挙げているのに驚いて、いったいこの人だれなんだろうと思っていたが、図書館に行ったらちょうどこれがあった。
しかし読んでみてさらに驚いたのは、なにが言いたいのか私にはさっぱり分からないことである。漢字・平仮名・カタカナ、要するに東アジアの漢字文化圏での文字は、欧米のアルファベットとはまったく違う、文字そのものが意味をもつという特徴があるのはその通りだろう。
文学も含めた芸術作品が芸術たるゆえんは鑑賞行為にあるように思う。どんな芸術作品もそれ自体では存在しえず、鑑賞行為によってなんらかの価値を持った芸術作品となる。ただジャンルによって鑑賞行為のあり方は直接的であったり、重層的であったりするし、また鑑賞の対象となるものの媒体が重要かどうかに違いがある。しかし、鑑賞行為によってさまざまな芸術的価値が生まれてくるのであって、作品そのものになにか客観的な価値のようなものが存在するわけではない。だから文学の場合だって、まったく印象的な鑑賞行為もあれば、作品が書かれた時代におきなおして新たな価値を浮き彫りにするような批評という鑑賞行為もある。こういう書き方では何を言っているのか分からないだろうから具体的に書いてみる。
文学の場合、文字を使って表記されるが、その表記が印刷によるものであろうと手書きによるものであろうと関係なく、それにはなんら意味表出機能はなく、書かれた内容だけが意味をもつ芸術である。つまり表現媒体そのものは意味がゼロであるから、いくらでも複製が可能になる。したがって、何年に印刷されたものであろうと、文字のフォントが違おうとも、それは文学作品の価値になんら影響をあたえることがない。
文学の場合、鑑賞行為はこの媒体にこだわらない紙に印刷された文字あるいはパソコンの画面に表示された文字と鑑賞者とのあいだで行なわれる直接的なものになる。あいだには何も介在しない。それは言葉というものが鑑賞者が日常的に使用しているものであるという特殊性があるからだろう。批評というのは批評家による一つの鑑賞行為をとおして鑑賞することになる。その意味で重層的な鑑賞行為ということになるだろう。
これと同じように鑑賞行為が直接的なものに絵画がある。鑑賞者が作品を見るということだけで鑑賞が成り立つ。あいだに介在するものはなにもない。しかし文学と違うところは対象としての作品が一回限りのもので、作品の意味と素材との関係が密着していることにある。同じ対象を描いた絵画であっても、それが油絵の具によるのか水彩絵の具によるのかエッチングによるのか、またエッチングでもどんな種類のものかによって、まったく意味産出が違ってくるので、作品の価値を異ならせることになる。
これにたいして、音楽と書は、一部の人を除いて、作曲家の書いた作品を演奏者という鑑賞者が芸術的価値を付与したものをさらに鑑賞するとか、誰かの書いた詩を書家という鑑賞者が芸術的価値を付与したものを鑑賞するというように、鑑賞の仕方が重層的である。しかしだからといって、鑑賞行為によって初めて作品が芸術的価値をもつという芸術固有のありかたにはなんら違いがない。もちろん書には書に固有の芸術的価値産出の機能がある。それがこの本で書かれているような筆圧だとか流れだとか書体だとか墨の濃淡だとかということになるのだろう。
こういう視点からみれば、書というのも、同じ漢字あるいはおなじ詩を書いたものであっても、どのような書体でどのような紙にどのような筆で描いたかによって、作り出される価値が、あるいは意味内容が違ってくるわけで、つねに一回限りのものとして存在するという意味において、あるいはこの人も言っているように、そこに倫理的な価値までが付随するようになるという意味において、それは絵画や音楽と同じ芸術である、と考えてしかるべきと思う。
ところが、どうもこの人は、そうではないと言い張り、やたらと書は文学であると繰り返しているが、なにをもって書は文学だと言いたいのか、まったく理解できない。たとえば8ページから9ページにかけて、まさに「書は文学である」という見出しで書かれている。そこでは「書は裏返した文学である」という定義が提示され、その一例として、拓本の存在が挙げられている。通常の白地に墨による黒字によるものにたいして、拓本は黒地に白字で描かれている。そこで説明されていることはただそれだけのことで、いったい拓本のどこが「書は裏返した文学である」という定義の一例になるのか、さっぱり分からない。
万事がこんな調子で話が進んでいくこの本のどこがいったいすごいのか、今年のお薦めの本なのか、私にはまったく理解できない。ある意味、こんなわけの分からない本にめぐり合うというのも、はっきり言って初めてのことで、世の中にはこんなわけのわからないことが書かれているのに、「すごい」とか言われるということもあるものなんだなと、驚いた。
私の勘違いで、この本のことではなかったのかもしれないな、となんだか不安になってきた。アマゾンのレビューを見たら、これまた絶賛ものばかりで、またまた不安になってきた。
石川九楊『書く―言葉・文字・書』(中公新書、2009年)
年末にはたいていこの一年に出版されたなかでお薦めの三冊とか五冊なんて特集がどの新聞でもあるのだが、昨年の年末には多くの評者がこの本を挙げているのに驚いて、いったいこの人だれなんだろうと思っていたが、図書館に行ったらちょうどこれがあった。
しかし読んでみてさらに驚いたのは、なにが言いたいのか私にはさっぱり分からないことである。漢字・平仮名・カタカナ、要するに東アジアの漢字文化圏での文字は、欧米のアルファベットとはまったく違う、文字そのものが意味をもつという特徴があるのはその通りだろう。
文学も含めた芸術作品が芸術たるゆえんは鑑賞行為にあるように思う。どんな芸術作品もそれ自体では存在しえず、鑑賞行為によってなんらかの価値を持った芸術作品となる。ただジャンルによって鑑賞行為のあり方は直接的であったり、重層的であったりするし、また鑑賞の対象となるものの媒体が重要かどうかに違いがある。しかし、鑑賞行為によってさまざまな芸術的価値が生まれてくるのであって、作品そのものになにか客観的な価値のようなものが存在するわけではない。だから文学の場合だって、まったく印象的な鑑賞行為もあれば、作品が書かれた時代におきなおして新たな価値を浮き彫りにするような批評という鑑賞行為もある。こういう書き方では何を言っているのか分からないだろうから具体的に書いてみる。
文学の場合、文字を使って表記されるが、その表記が印刷によるものであろうと手書きによるものであろうと関係なく、それにはなんら意味表出機能はなく、書かれた内容だけが意味をもつ芸術である。つまり表現媒体そのものは意味がゼロであるから、いくらでも複製が可能になる。したがって、何年に印刷されたものであろうと、文字のフォントが違おうとも、それは文学作品の価値になんら影響をあたえることがない。
文学の場合、鑑賞行為はこの媒体にこだわらない紙に印刷された文字あるいはパソコンの画面に表示された文字と鑑賞者とのあいだで行なわれる直接的なものになる。あいだには何も介在しない。それは言葉というものが鑑賞者が日常的に使用しているものであるという特殊性があるからだろう。批評というのは批評家による一つの鑑賞行為をとおして鑑賞することになる。その意味で重層的な鑑賞行為ということになるだろう。
これと同じように鑑賞行為が直接的なものに絵画がある。鑑賞者が作品を見るということだけで鑑賞が成り立つ。あいだに介在するものはなにもない。しかし文学と違うところは対象としての作品が一回限りのもので、作品の意味と素材との関係が密着していることにある。同じ対象を描いた絵画であっても、それが油絵の具によるのか水彩絵の具によるのかエッチングによるのか、またエッチングでもどんな種類のものかによって、まったく意味産出が違ってくるので、作品の価値を異ならせることになる。
これにたいして、音楽と書は、一部の人を除いて、作曲家の書いた作品を演奏者という鑑賞者が芸術的価値を付与したものをさらに鑑賞するとか、誰かの書いた詩を書家という鑑賞者が芸術的価値を付与したものを鑑賞するというように、鑑賞の仕方が重層的である。しかしだからといって、鑑賞行為によって初めて作品が芸術的価値をもつという芸術固有のありかたにはなんら違いがない。もちろん書には書に固有の芸術的価値産出の機能がある。それがこの本で書かれているような筆圧だとか流れだとか書体だとか墨の濃淡だとかということになるのだろう。
こういう視点からみれば、書というのも、同じ漢字あるいはおなじ詩を書いたものであっても、どのような書体でどのような紙にどのような筆で描いたかによって、作り出される価値が、あるいは意味内容が違ってくるわけで、つねに一回限りのものとして存在するという意味において、あるいはこの人も言っているように、そこに倫理的な価値までが付随するようになるという意味において、それは絵画や音楽と同じ芸術である、と考えてしかるべきと思う。
ところが、どうもこの人は、そうではないと言い張り、やたらと書は文学であると繰り返しているが、なにをもって書は文学だと言いたいのか、まったく理解できない。たとえば8ページから9ページにかけて、まさに「書は文学である」という見出しで書かれている。そこでは「書は裏返した文学である」という定義が提示され、その一例として、拓本の存在が挙げられている。通常の白地に墨による黒字によるものにたいして、拓本は黒地に白字で描かれている。そこで説明されていることはただそれだけのことで、いったい拓本のどこが「書は裏返した文学である」という定義の一例になるのか、さっぱり分からない。
万事がこんな調子で話が進んでいくこの本のどこがいったいすごいのか、今年のお薦めの本なのか、私にはまったく理解できない。ある意味、こんなわけの分からない本にめぐり合うというのも、はっきり言って初めてのことで、世の中にはこんなわけのわからないことが書かれているのに、「すごい」とか言われるということもあるものなんだなと、驚いた。
私の勘違いで、この本のことではなかったのかもしれないな、となんだか不安になってきた。アマゾンのレビューを見たら、これまた絶賛ものばかりで、またまた不安になってきた。