仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

平常心

2021年09月03日 | 仏教とは?

法話メモ帳より

 

平常心

 

白隠さんがあるとき、四国に渡るため、船に乗った。夕刻兵庫を出発して、朝讃岐に着くという夜行便だったが、折からの満月。皆大喜びで船ばたに出て、酒を飲んだり談笑したり大にぎわい。酔うほどに声高に自慢話をするものも出てくる。

 自隠さんもそれを、皆の中に交って二コニコしながら聞いていたが、一刻もするうちにどうしたことか一天にわかに曇って雨がパラパラ落ちてきた。

「おや雨か?」

と空を見上げる間もなく、風はゴウゴウ。雨はザアザアの大しけ模様。

「ワーツ。こりゃあ大変だ。桑原桑原」

船ばたで騒いでいた連中も、しけとの闘では生きた心持もなく、みんな一目散に船底に駆けこんで、隅の方で真っ青な顏をして震えている。

 「うーむ。これは大分ひどい風雨になった」

 白隠さんも笠で雨を避けながら、船室に入ろうとしてふと見ると、ともの方に一人の武士が、つたって海をにらんでいる。

「お武家様。これ、お武家隊。いかがなされた。そこではずぶぬれになりましょう」

「なあーに案ずるな。これしきの雨風。どうということはない」

「しかし。無理にぬれることもありますまいに」

「それよりも和尚どう思う。あれだけ騷いでいた奴が、これしきの嵐で、急に弱虫になりおって。何とも歯がゆいことじゃないか」

「それで。お武家様はどうなんで」

「わしか、わしはこのとおり何ともない。この大風、この大雨。それにあのぶつかってくる大波。みんな子守唄のようじゃ。わしの心はいつだって平常心じゃ」

「ほほう、じゃが、わしには、船底の連中は、しいで弱い方に変わったが、お武家様はことさら強い方に変わろうとなさっているように見えまする。弱くなっても、強くなっても、ふだんと変わったら、こりゃ平常心とはいえないんじゃありますまいかのう」(以上)

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白隠の地獄と極楽の教え

2021年08月30日 | 仏教とは?

法話メモ帳より

 

白隠の地獄と極楽の教え

 

江戸時代の中期の頃のある日のことである。織田信茂(おだのぶしげ)という彦根藩の武士が、白隠慧鶴(ハクインエカク・1685一1768)の住持する松蔭寺を訪ねてきた。

 白隠は臨済宗中興の祖といわれ、沼津市で生まれた高僧である。

 武士は白隠に質問した。

「地獄、極楽はどこにあるのですか?」

 すると、白隠はこう答えた。「地獄、極楽かどこにあるのだと? ほほー、そんな所を探しているようなやつはろくなヤツではないな」

 「ろくでない?」

 「そうじゃ、この腰抜け侍」

 「なななな何! 腰抜けだと」

 武士は怒りだした。

 「せっかく遠くからやってきたのに、失礼ではないか。謝れ、さもなくば切る!」

 武士は手を刀にかけ、白隠をにらんだ。しかし、白隠が、さらに、

 「腰抜け」

 と言ったため武士は顔を真っ赤にして、刀を抜いた。

 白隠は身をひるがえして、逃げだした。

 「待てーっ」

 武士は追いかけてきた。さらに、武士がもう一太刀浴びせようとした瞬間、自隠はこう叫んだ。

 「そこが地獄じゃ!」

 武士はピタリと止まり、刀を収め、そり場に正座し、謝罪した。

「申し訳ないことをしました。一瞬のいかりで身を滅ぼすところでした」

 「やれやれ、落ち着いたな。何のことはない、そこが極楽じゃよ」

 白隠はにっこりと微笑んだ。

白隠は地獄極楽は自分の心の中にあることを身をもって導いたのだった。(以上)

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大号尊者と二匹の鬼

2021年08月28日 | 仏教とは?

法話メモ帳より

 

『仏説無量寿経』

我聞きたまえき  かくのごとき。一時、仏  王舎城耆闍崛山の中に住したまいき。大比丘衆、万二千人と倶なりき。一切の大聖、神通すでに達せりき。

その名をば、尊者了本際・尊者正願・尊者正語・尊者大号…

 

その大号尊者の逸話です。

 

 

釈尊に大号尊者という弟子がある。彼が商人であったとき他国からの帰途、道に迷って日が暮れた。
宿もないので仕方なく、墓場の近くで寝ていると無気味な音に目が覚める。
一匹の赤鬼が、人間の死体を持ってやって来るではないか。いで木に登って震えながら眺めていると、間もなく青鬼がやって来た。
「その死体をよこせ」と青鬼が言う。
「これはオレが先に 見つけたもの、渡さぬ」という赤鬼と大ゲンカがはじまった。
その時である。赤鬼は木の上の大号を指さして、「あそこに、 さっきから見ている 人間がいる。 あれに聞けば分かろう。証人になって 貰おうじゃないか」と言い出した。
大号は驚いた。
いずれにしても食い殺されるのは避けられぬ。ならば真実を言おうと決意する。
「それは赤鬼のものである」と証言した。
青鬼は怒った。大号をひきずり下ろし、片足を抜いて食べてしまった。
気の毒に思った赤鬼は、誰かの死体の片足をとってきて大号に接いでやった。
激昂した青鬼は、さらに両手を抜いて食べる。
赤鬼はまた、他の死体の両手を取ってきて大号につけてやった。
青鬼は大号の全身を次から次に食べた。
赤鬼はその後から、大号の身体を元どおりに修復してやる。
青鬼が帰った後、「ご苦労であった。 おまえが真実を 証言してくれて 気持ちが良かった」と赤鬼は礼を言って立ち去った。
一人残された大号は、歩いてみたが元の身体と何ら変わらない。
しかし今の自分の手足は、己の物でないことだけは間違いない。
どこの誰の手やら足やら、と考えた。
街へ帰った彼は、「この身体は誰のものですか」と大声で叫びながら歩いたので、
「大号尊者」とあだ名されるようになった。(以上)

 

上記の話は、児童文学全集「印度童話集」に掲載されており、『(自選)ー大岡信詩集』略年譜に「要約」が紹介されている。

出展がわかりましたら、またご紹介します。

 

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宗教とは

2021年08月07日 | 仏教とは?

法話メモ帳より

ある年の夏、島根県のある農村の、研修所へお話にまいりました。座談会の席上で、一人の青年が、こういう質問をしました。「人間は、生きることと、信ずることと、つまり生活と宗教と、どちらがさきでしょうか。わたくしの先輩の話に、戦争中、南方の孤島で、糧食がたえてしまったとき、念仏してみてもも、お祈りしてみても、お腹はふくれなかった。しかしジャングルを探していたら鱈、蛇がいたからそれを捕ってたべたり、野生の芋を喰ってようやく生命を繋いだ。人間は信心よりも、まず生きることのほうが、たいせつだと申しましたが。わたくしもそうだと思います。生活が安定して、そして余裕があるなら、宗教があってもよいと思います。どうでしようか」。

 なかなか青年としては要点をついた。よい質問だと思います。がんらい、宗教と生活を、このようにべべつのものに、考えてはならぬと思います。宗教というものを、なにか生活のため資源を供給するもののように解釈すると、このような質問が出てくると思います。しかし、宗教というものは、そういう、ものができたり、金がもうかったり、病気がなおったり、すなわち物質的にのみ生活とつながるものではないと思います。そういう面が全然ないわけではありませんが、そういうふうにばかり、解釈すべきではないと思います。うではなくて、宗教というものは、人生の意義とか目的とかいう、生活の根源的なあり方を、しめしてくれるものだと思います。そこでわたくしは、ざっとつぎのような、お答えをしたことです。

 

 さきほどから聞いておると、あなたは、生きる生きるとおっしやるが、われわれはいったい、どれだけ自分の力で生きられるものでしょうか。われわれが、生きるのにまず必要なものは空気ですが、これは、われわれの力で、できたものでしょうか。つぎに水、太陽の熱、光などでありますが、これら必要なものが、われわれの手でこしらえられるものでしょうか。われわれが生まれたとき、すぐに乳というものがあたえられましたが、これはだれから、めぐまれたのでしょう。食物は十日や二十日、食べなくても生きられますが、水と空気は、一日もなくてはならぬのです。そういうたいせつなものを、われわれは、ただでいただいておるのです。天然資源はすべてただであいます。農村のみなさんは、自分で米をつくり、野菜を作るといわれろかもしれませんが、自分の力で、どうして米や野菜ができましょう。すべて大自然のおめぐみで、ものはできるのであります。みなさんは、ほんのてつだいをされただけです。だから、秋のみのりには、それを、お初穂としてまず神さまにそなえて、感謝するのではありませんか。

  こう考えて、自分が生きておるのではない、生かされておるのだと気がつき、合掌し感謝する気持ちが湧いてきたとき、これを宗教心の目覚めだと思うのです。天地自然のめぐみ、そして、人類はじまって以来の、多くの先人のおかげ、社会のすべてのひとびとの、労働の恩恵であると、感謝合掌して生活できることが、われわれの正しい生活ではありますまいか。南方の孤島で、蛇や芋を発見して喰べられたとき、「ここにも、おめぐみがあった」と、合掌されるならば、そこに宗教があるのではないかと思います。ただ生きるということだけでなくて、日々感謝とよろこびで生きられるということが、人生のもっともこのましい生き方ではないでしょうか。

こんなようなお答えをして、どうやらなっとくしてもらったのであります。

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アヒルの水かき

2021年05月31日 | 仏教とは?

本31日『読売新聞』「顔」覧に「女性科学者に贈られる猿橋賞受賞―田中幹子(みきこ)さん50」という記事が出ていました。研究のテーマは次のようにありました。

 

人間の手足にアヒルのような「水かき」がないのは、受精卵から手足ができる過程で指の間の細胞が消えるためだ。この現象は酸素の濃度が高いと起きることを突き止めた。生物が海から陸上に進出し、大気の豊富な酸素にさらされて体が進化した可能性を示し、「独創的」と高く評価された。(以下省略)

 

仏さまの手足の指の間には水かきがついていて、仏の三十二相では「曼網相」(まんもうそう)といいます。一般的には、苦しみに悩み喘いでいる人間を両方の手で、水も漏らさぬように救い上げる、慈悲の姿を表したものだと言われているが、水鳥は、水の中でも空も陸も対応でき機能を備えています。その意味から言えば、苦しみ悲しみ怒りの中でもはたらける仏さまを示したものだとも言えます。

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