「バチカン サン・ピエトロ大聖堂を学ぶ!」に参加してきました(2017.6.1)@クラブツーリズム旅の文化カレッジ
今回のクラブツーリズムのこの「サン・ピエトロ大聖堂を学ぶ!」という講座に加えて この春から毎月開催されている黒田講師の「知ればもっと旅が楽しくなる 世界の遺産講座」にも参加し始めたので だんだんとうちに届く「旅の友」の袋がぶ厚くなってきましたョ(笑)
今回の講座はパワーポイントのレジュメがついており嬉しかった♡ 会場は満席近く 皆さん旅行好きな方のようです
私はヴァチカンには2008年秋のローマの語学学校の短期留学の時に行ったので 内容がわかりやすくて嬉しかった~ ← 毎月の世界遺産講座では行ったことのない場所が取り上げられるとちょっと難しいので( ..)φメモメモ
* * *
まずはローマ教会と教皇領についてざっとおさらい 313年のミラノ勅令(コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認した) 西ローマ帝国滅亡後もキリスト教は広まり続け その拠点がまずローマ (使途ペテロの殉教地でもあったため)
ランゴバルド族を打ち破った フランク王国のピピン3世が 勝ち取った領土を教会に寄進したことから教皇領が誕生したこと等...
バチカン市国の誕生について これは1861年の サルデーニャ王国によるイタリア統一のあと 1870年にサルデーニャ王国が教皇領を接収し 教皇側と断絶したこと そして1929年にムッソリーニが教皇側に歩み寄り ラテラノ条約締結により(教皇の領地と教皇地位を保証した) 世界一小さな主権国家バチカン市国が誕生したことを ざっとおさらい...
ここで雑学をちょっと:
カテドラルCatedraleは司教座大聖堂のことで Catedraは司教座 つまり「司教座のある聖堂」のことをカテドラルと言います (ただ大きい教会だからだけじゃなく)
ヴァンダル族(蛮族による民族移動時代にローマ領内へ侵入し 北アフリカにまで進軍した)は破壊を好む民族で ヴァンダリズムは破壊主義 アンダルシアはもともとヴァンダルシア(ヴァンダル族が通った所)といった
ゲルマン民族の南下のところで... フランク王国が大きくなったのはフランクフルトからあまり動かなかったから また結婚政策もあったため(ハネムーンのホントの意味を知る!)
フランクフルト(Frankfurt)のFurt(フルト)は 「渡河点(洗い越し)」という意味とのこと(地元の人は川の浅い所を知っていて どんどん渡って進軍していった)
バチカン市国はローマ北西部のバチカヌスの丘にあり 独立国としては世界最小で 世界遺産でもあります
独立国家としての「バチカン市国」そして カトリックの総本山としての「法王聖座」の両方の意味があり 後者は正しくは「教皇庁」と呼ばれます
聖ピエトロ大聖堂は聖ペトロの墓跡に建てられたという伝説があります (ペトロはラテン語で「岩」という意味)
この講座では 公になっていない数字(居住権を持つ人の数等)が色々聞かれて興味深かったです♡ 居住者の多くはやはり聖職者ですが 職務に就いている間のみ居住権があり(=免税) 不動産を所有することはないとのこと
また利益追求型の経済活動は行われず 代わりに信者からの献金や美術館の入場料や販売収入等があります ← この辺のお話を聞きながら 私の行った時も そんな雰囲気を感じたこと(バチカンで働く人々の態度とか物価など)を思い出しました
教皇は 公式な文書にはラテン語で「ポンテフェクス・ロマヌス Romanus Pontifex」という称号で表記されます かぶりものに「RP」とあるのを機会があれば見てくださいとのこと 法王ではなく 教皇が正式名称です
神のメッセンジャーである教皇は決して誤ることがないとされ 一度採決された決定は再審請求はできないのですが だからこそ謙虚に過去を改めたヨハネパウロ2世(ポーランド出身で「空飛ぶ教皇」とも呼ばれた)は素晴らしいですね
教皇の次の地位にあるのが枢機卿です 枢機卿団は教皇を補佐して教皇庁を運営したり外交活動も行います(日本でいえば国会のようなもの) コンクラーヴェ(cum clavi/ラテン語で「鍵のかかった」の意)も枢機卿団が行いましたね
ちなみに 法王が亡くなられた時は「帰天」という言葉を使います キリスト教では天国と地獄しかなく 中間がありません
さて サンピエトロ大聖堂はルネサンス時代に改築されたのですが もともとはコンスタンティヌス大帝(キリスト教を公認した)の指示で4世紀に建てられたバシリカ式教会堂です この「バシリカ様式」(パルテノン神殿がルーツ、ストア/古代ギリシャの市民の集う所に建てられた列柱廊建築で「店」の語源)について 図を描きながら細かい説明をしていただきました!
もともとは殉教教会堂・巡礼教会堂であり 教皇の住まいは長いことラテラノ宮殿にありましたが アヴィニョン捕囚によってラテラノ宮殿が荒廃してしまったため 1377年よりサンピエトロ大聖堂がローマ教皇の座所となります (ムッソリーニが結んだ条約がラテラノ条約というのはここから来ています)
今ある大聖堂は1499年に教皇アレクサンドル6世が改築を思い立ち 1505年に教皇ユリウス2世によって決定されたのですね
4大バジリカについて:
サン・ピエトロ大聖堂(バシリカ様式は残っておらず完全なバロック様式)
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(マリア様の教会ではここが世界最大、教皇リベリウスへのお告げで建てた伝説により「雪の聖母聖堂」とも言われる)、
サンジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂(312年コンスタンティヌス帝が建てた世界初の本格的なキリスト教聖堂、313年ミラノの勅令よりも前です、ローマ教皇のローマ司教としての司教座聖堂です)
サンパオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(聖パウロの墓があるバシリカ様式の聖堂、フォーリ・レ・ムーラfuori le muraは「城壁の外」の意味で城壁から南2キロの所にある)を 「4大バジリカ」と呼びます (「バシリカ」は建築様式から生まれた言葉) 3つはローマにありますが バチカンの管轄です
さて昨年(2016年)は「慈しみの特別聖年(Anno Santo straordinario della Misercordia)」でしたね! 通常は25年毎に行われる聖年ですが(1300年に始まりました) テロなどあまりにも様々なことが世界で起きており 教皇フランシスコが特別に聖年を設けられ 2015年12月8日に 聖ペトロ大聖堂の「聖年の扉(Porta Santa/ポルタ・サンタ)」が開けられました (2016年11月20日 キリストの大祝日に終了) 講師の先生も4つの聖なる扉が開けられた時に中に入られたそうです この扉はそのあと閉じられコンクリートで封印されたとのこと...
* * *
次は 世界最大級のバチカン美術館のコレクションについてです もともとはユリウス二世等の教皇の私的コレクションの収蔵・展示場所だったのですが 1506年に「ラオコーン群像」購入後に展示が始められたそうです これはベルベデーレの中庭にあり 私も見ました! ヘレニズム美術の代表作ですが ミケランジェロはこの時なかった右腕の真実を 筋肉の表現などから言い当てたとのこと(のちに発見されミケランジェロ説が証明された) 歴史は真実を語る...
← ラオコーン群像
さていよいよシスティーナ礼拝堂(Cappella Sistina)についてです ここはバチカン宮殿付属の礼拝堂で 教皇シクトゥス4世が建て直したことから 彼の教皇名Sisto Ⅳにちなんで命名されたそうです
(ここに入った時は喋ってはいけないため緊張しましたが あれだけの人数がいたら息遣いだけでも音が充満している感じがしました!)
ここで雑学: チャペルとは 教会が事情があり作れず 学校や病院等に設けたのがチャペルで プライベートな礼拝所でもあり だからコンクラーヴェはシスティーナ礼拝堂で行われたのですね チャーチとチャペルは違うと言う説明でした!
「ミサ」はラテン語で「派遣」の完了形であり ラテン語がわからない信者の人たちにもわかるように祭壇画が多く描かれ ミサの最後に「ミサ(解散)」と言われ 解散だと分かったのだそうです ← 言葉のことになるとアンテナがピーン(笑)!
ここからはミケランジェロについて!! ここでかなり聞きやすくなります(笑)
バチカンに最も貢献したミケランジェロは もともと石工一家のもとで暮らしており 絵画よりも彫刻に重きをおき 自分は彫刻家だと言っていていたのですが その彼の生きた時代背景について また作品についても伺いました
彼がシスティーナ礼拝堂の天井画に着手したのが1508年 その後1517年にマルティン・ルターの「95箇条の論題」による宗教改革があります(レオ10世がサンピエトロ大聖堂修復資金集めのために免罪符を発行したことがきっかけ) 1536年に「最後の審判」に着手するのですが 宗教改革前に描かれた天井画とは画風が変わっているのですね~φ(..)メモメモ
また ミケランジェロの「ピエタ」像 これは必見! 25才での作品ですが 若造と言われて彼は聖母マリアの肩にかかる飾り帯に ひそかに唯一のサインを刻むのです!! そのエピソード(夜中に忍んで...)が実に面白かったです( *´艸`)
そして ラファエロの「ユリウス2世肖像画」(システィーナ礼拝堂はこの人のコレクションがあったため作られたようなもの) 「レオ10世と枢機卿たち」(最年少で教皇になった)についても詳しく説明していただきました
そしていよいよ「システィーナ礼拝堂の天井画」 そう 「アダムの創造」(昔は神は姿を描いてはいけなかったそうで 手のみOKでした) 「イヴの創造」 「原罪と楽園追放」(蛇が知恵の木の実をアダムとイブに食べさせましたが 智天使ケルビムは命の木の実を食べないよう用心した)について説明していただきました!
ユリウス2世は教皇を中心に描いてほしかったそうですが ミケランジェロは旧約聖書の「創世記」を中心に描いたそうです
静謐な空気の中で見たこれらの絵を見た時の感激が脳裏によみがえりました...
また「ノアの泥酔」(ノアはワインを発明したが飲みすぎて裸体で寝込み、息子たちに見られる、2人の息子は父の裸体を見ないで着物をかける)の絵ですが これはキリスト教では 母の裸体はよいが 基本的に父の裸体は見てはならかったのだそうです なのでこのような絵画が生まれたわけですね
そして祭壇画「最後の審判」 これは祭壇画で個人の描いた絵画作品としては西洋で最大とのこと! ゲーテの賛美の言葉が見事です また物議をかもした全裸表現では 「風呂屋か安宿向きの作品だ」とこきおろした儀典長の顔が この絵の死者の世界の地獄図で 地獄の王ミノスの顔として描かれていますね!
またあとから腰布を描き足したヴォルテッラは それにより取り壊しの危機を脱したにもかかわらず 「ふんどし画家」と呼ばれたなんて可哀そう~!!
またこの絵に使われたのは高価なラピスラズリのような顔料で ブオン・フレスコという正当のフレスコ画ですね ヨーロッパの絵はブルーの色でチェックするとよいそうです (ピカソはマラガブルーを使ったそうです)
また 「最後の審判」の構図と見方について詳しく説明していただきました これは例の宗教改革のあとで彼の画風が変わったということなんですね やはり画家は決定的な出来事によりその画風が変わるのですね~ (作家もそうですが)
天国に昇る人々よりも地獄に落ちる人々の方が多いのは 当時のカトリックに対するミケランジェロの意思表示であり 天国に昇る人たちであっても混乱したように描かれています
3段目左の 地獄に落ちる人々のモデルは カール5世がイタリアに侵攻してきて苦しみ嘆くローマ市民たちだそうで 当時の現実を表しています
聖バルトロマイが皮剥ぎの刑で殉教するのですが 剥がれた皮の部分に描かれた顔がミケランジェロの自画像と考えられているそうです
そして一番最後に紹介されたのが この「最後の審判」のモデルともなった オルヴィエート大聖堂のサン・ブリツィオ礼拝堂の壁画でした!! 師匠でもあったルカ・シニョレッリ作『罪されし者を地獄へ追いやる天使』という壁画で この裸体表現をミケランジェロは参考にしたと言われているそうです
やはり ミケランジェロだけじゃなく そのまわりも色々見てゆかないと複眼的にはわからないものがありますね!
2008年にヴァチカンに行った時のことが 昨日のように思い出されます...
← 二重らせん階段
* * *
また クラブツーリズムでは 10月末に「サン・ピエトロ大聖堂で歌う旅」のツアーを予定しているそうです
さて 私はまた 月1回水曜夜の黒田講師の「知ればもっと旅が楽しくなる 世界の遺産講座」に出ます~ 韓国の遺産の次は 軍艦島 そして7月はノルマンディーだそうです!! ← イタリアとドイツと日本の世界遺産だけでいいかと思ってたけど~いちおう世界遺産検定受けるので(笑)
「バチカン サンピエトロ大聖堂を学ぶ!」の講座のお知らせは こちら
また 今公開中の「ローマ法王になる日まで」もぜひご覧ください♪ もう少しで終わるみたいです...
素晴らしい講座を開催してくださいました㈱クラブツーリズム様に心よりお礼申し上げます
* 写真は バチカン美術館の中庭 (Cortile della Pigna)pignaは松ぼっくりの意味
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今回のクラブツーリズムのこの「サン・ピエトロ大聖堂を学ぶ!」という講座に加えて この春から毎月開催されている黒田講師の「知ればもっと旅が楽しくなる 世界の遺産講座」にも参加し始めたので だんだんとうちに届く「旅の友」の袋がぶ厚くなってきましたョ(笑)
今回の講座はパワーポイントのレジュメがついており嬉しかった♡ 会場は満席近く 皆さん旅行好きな方のようです
私はヴァチカンには2008年秋のローマの語学学校の短期留学の時に行ったので 内容がわかりやすくて嬉しかった~ ← 毎月の世界遺産講座では行ったことのない場所が取り上げられるとちょっと難しいので( ..)φメモメモ
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まずはローマ教会と教皇領についてざっとおさらい 313年のミラノ勅令(コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認した) 西ローマ帝国滅亡後もキリスト教は広まり続け その拠点がまずローマ (使途ペテロの殉教地でもあったため)
ランゴバルド族を打ち破った フランク王国のピピン3世が 勝ち取った領土を教会に寄進したことから教皇領が誕生したこと等...
バチカン市国の誕生について これは1861年の サルデーニャ王国によるイタリア統一のあと 1870年にサルデーニャ王国が教皇領を接収し 教皇側と断絶したこと そして1929年にムッソリーニが教皇側に歩み寄り ラテラノ条約締結により(教皇の領地と教皇地位を保証した) 世界一小さな主権国家バチカン市国が誕生したことを ざっとおさらい...
ここで雑学をちょっと:
カテドラルCatedraleは司教座大聖堂のことで Catedraは司教座 つまり「司教座のある聖堂」のことをカテドラルと言います (ただ大きい教会だからだけじゃなく)
ヴァンダル族(蛮族による民族移動時代にローマ領内へ侵入し 北アフリカにまで進軍した)は破壊を好む民族で ヴァンダリズムは破壊主義 アンダルシアはもともとヴァンダルシア(ヴァンダル族が通った所)といった
ゲルマン民族の南下のところで... フランク王国が大きくなったのはフランクフルトからあまり動かなかったから また結婚政策もあったため(ハネムーンのホントの意味を知る!)
フランクフルト(Frankfurt)のFurt(フルト)は 「渡河点(洗い越し)」という意味とのこと(地元の人は川の浅い所を知っていて どんどん渡って進軍していった)
バチカン市国はローマ北西部のバチカヌスの丘にあり 独立国としては世界最小で 世界遺産でもあります
独立国家としての「バチカン市国」そして カトリックの総本山としての「法王聖座」の両方の意味があり 後者は正しくは「教皇庁」と呼ばれます
聖ピエトロ大聖堂は聖ペトロの墓跡に建てられたという伝説があります (ペトロはラテン語で「岩」という意味)
この講座では 公になっていない数字(居住権を持つ人の数等)が色々聞かれて興味深かったです♡ 居住者の多くはやはり聖職者ですが 職務に就いている間のみ居住権があり(=免税) 不動産を所有することはないとのこと
また利益追求型の経済活動は行われず 代わりに信者からの献金や美術館の入場料や販売収入等があります ← この辺のお話を聞きながら 私の行った時も そんな雰囲気を感じたこと(バチカンで働く人々の態度とか物価など)を思い出しました
教皇は 公式な文書にはラテン語で「ポンテフェクス・ロマヌス Romanus Pontifex」という称号で表記されます かぶりものに「RP」とあるのを機会があれば見てくださいとのこと 法王ではなく 教皇が正式名称です
神のメッセンジャーである教皇は決して誤ることがないとされ 一度採決された決定は再審請求はできないのですが だからこそ謙虚に過去を改めたヨハネパウロ2世(ポーランド出身で「空飛ぶ教皇」とも呼ばれた)は素晴らしいですね
教皇の次の地位にあるのが枢機卿です 枢機卿団は教皇を補佐して教皇庁を運営したり外交活動も行います(日本でいえば国会のようなもの) コンクラーヴェ(cum clavi/ラテン語で「鍵のかかった」の意)も枢機卿団が行いましたね
ちなみに 法王が亡くなられた時は「帰天」という言葉を使います キリスト教では天国と地獄しかなく 中間がありません
さて サンピエトロ大聖堂はルネサンス時代に改築されたのですが もともとはコンスタンティヌス大帝(キリスト教を公認した)の指示で4世紀に建てられたバシリカ式教会堂です この「バシリカ様式」(パルテノン神殿がルーツ、ストア/古代ギリシャの市民の集う所に建てられた列柱廊建築で「店」の語源)について 図を描きながら細かい説明をしていただきました!
もともとは殉教教会堂・巡礼教会堂であり 教皇の住まいは長いことラテラノ宮殿にありましたが アヴィニョン捕囚によってラテラノ宮殿が荒廃してしまったため 1377年よりサンピエトロ大聖堂がローマ教皇の座所となります (ムッソリーニが結んだ条約がラテラノ条約というのはここから来ています)
今ある大聖堂は1499年に教皇アレクサンドル6世が改築を思い立ち 1505年に教皇ユリウス2世によって決定されたのですね
4大バジリカについて:
サン・ピエトロ大聖堂(バシリカ様式は残っておらず完全なバロック様式)
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(マリア様の教会ではここが世界最大、教皇リベリウスへのお告げで建てた伝説により「雪の聖母聖堂」とも言われる)、
サンジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂(312年コンスタンティヌス帝が建てた世界初の本格的なキリスト教聖堂、313年ミラノの勅令よりも前です、ローマ教皇のローマ司教としての司教座聖堂です)
サンパオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(聖パウロの墓があるバシリカ様式の聖堂、フォーリ・レ・ムーラfuori le muraは「城壁の外」の意味で城壁から南2キロの所にある)を 「4大バジリカ」と呼びます (「バシリカ」は建築様式から生まれた言葉) 3つはローマにありますが バチカンの管轄です
さて昨年(2016年)は「慈しみの特別聖年(Anno Santo straordinario della Misercordia)」でしたね! 通常は25年毎に行われる聖年ですが(1300年に始まりました) テロなどあまりにも様々なことが世界で起きており 教皇フランシスコが特別に聖年を設けられ 2015年12月8日に 聖ペトロ大聖堂の「聖年の扉(Porta Santa/ポルタ・サンタ)」が開けられました (2016年11月20日 キリストの大祝日に終了) 講師の先生も4つの聖なる扉が開けられた時に中に入られたそうです この扉はそのあと閉じられコンクリートで封印されたとのこと...
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次は 世界最大級のバチカン美術館のコレクションについてです もともとはユリウス二世等の教皇の私的コレクションの収蔵・展示場所だったのですが 1506年に「ラオコーン群像」購入後に展示が始められたそうです これはベルベデーレの中庭にあり 私も見ました! ヘレニズム美術の代表作ですが ミケランジェロはこの時なかった右腕の真実を 筋肉の表現などから言い当てたとのこと(のちに発見されミケランジェロ説が証明された) 歴史は真実を語る...
← ラオコーン群像
さていよいよシスティーナ礼拝堂(Cappella Sistina)についてです ここはバチカン宮殿付属の礼拝堂で 教皇シクトゥス4世が建て直したことから 彼の教皇名Sisto Ⅳにちなんで命名されたそうです
(ここに入った時は喋ってはいけないため緊張しましたが あれだけの人数がいたら息遣いだけでも音が充満している感じがしました!)
ここで雑学: チャペルとは 教会が事情があり作れず 学校や病院等に設けたのがチャペルで プライベートな礼拝所でもあり だからコンクラーヴェはシスティーナ礼拝堂で行われたのですね チャーチとチャペルは違うと言う説明でした!
「ミサ」はラテン語で「派遣」の完了形であり ラテン語がわからない信者の人たちにもわかるように祭壇画が多く描かれ ミサの最後に「ミサ(解散)」と言われ 解散だと分かったのだそうです ← 言葉のことになるとアンテナがピーン(笑)!
ここからはミケランジェロについて!! ここでかなり聞きやすくなります(笑)
バチカンに最も貢献したミケランジェロは もともと石工一家のもとで暮らしており 絵画よりも彫刻に重きをおき 自分は彫刻家だと言っていていたのですが その彼の生きた時代背景について また作品についても伺いました
彼がシスティーナ礼拝堂の天井画に着手したのが1508年 その後1517年にマルティン・ルターの「95箇条の論題」による宗教改革があります(レオ10世がサンピエトロ大聖堂修復資金集めのために免罪符を発行したことがきっかけ) 1536年に「最後の審判」に着手するのですが 宗教改革前に描かれた天井画とは画風が変わっているのですね~φ(..)メモメモ
また ミケランジェロの「ピエタ」像 これは必見! 25才での作品ですが 若造と言われて彼は聖母マリアの肩にかかる飾り帯に ひそかに唯一のサインを刻むのです!! そのエピソード(夜中に忍んで...)が実に面白かったです( *´艸`)
そして ラファエロの「ユリウス2世肖像画」(システィーナ礼拝堂はこの人のコレクションがあったため作られたようなもの) 「レオ10世と枢機卿たち」(最年少で教皇になった)についても詳しく説明していただきました
そしていよいよ「システィーナ礼拝堂の天井画」 そう 「アダムの創造」(昔は神は姿を描いてはいけなかったそうで 手のみOKでした) 「イヴの創造」 「原罪と楽園追放」(蛇が知恵の木の実をアダムとイブに食べさせましたが 智天使ケルビムは命の木の実を食べないよう用心した)について説明していただきました!
ユリウス2世は教皇を中心に描いてほしかったそうですが ミケランジェロは旧約聖書の「創世記」を中心に描いたそうです
静謐な空気の中で見たこれらの絵を見た時の感激が脳裏によみがえりました...
また「ノアの泥酔」(ノアはワインを発明したが飲みすぎて裸体で寝込み、息子たちに見られる、2人の息子は父の裸体を見ないで着物をかける)の絵ですが これはキリスト教では 母の裸体はよいが 基本的に父の裸体は見てはならかったのだそうです なのでこのような絵画が生まれたわけですね
そして祭壇画「最後の審判」 これは祭壇画で個人の描いた絵画作品としては西洋で最大とのこと! ゲーテの賛美の言葉が見事です また物議をかもした全裸表現では 「風呂屋か安宿向きの作品だ」とこきおろした儀典長の顔が この絵の死者の世界の地獄図で 地獄の王ミノスの顔として描かれていますね!
またあとから腰布を描き足したヴォルテッラは それにより取り壊しの危機を脱したにもかかわらず 「ふんどし画家」と呼ばれたなんて可哀そう~!!
またこの絵に使われたのは高価なラピスラズリのような顔料で ブオン・フレスコという正当のフレスコ画ですね ヨーロッパの絵はブルーの色でチェックするとよいそうです (ピカソはマラガブルーを使ったそうです)
また 「最後の審判」の構図と見方について詳しく説明していただきました これは例の宗教改革のあとで彼の画風が変わったということなんですね やはり画家は決定的な出来事によりその画風が変わるのですね~ (作家もそうですが)
天国に昇る人々よりも地獄に落ちる人々の方が多いのは 当時のカトリックに対するミケランジェロの意思表示であり 天国に昇る人たちであっても混乱したように描かれています
3段目左の 地獄に落ちる人々のモデルは カール5世がイタリアに侵攻してきて苦しみ嘆くローマ市民たちだそうで 当時の現実を表しています
聖バルトロマイが皮剥ぎの刑で殉教するのですが 剥がれた皮の部分に描かれた顔がミケランジェロの自画像と考えられているそうです
そして一番最後に紹介されたのが この「最後の審判」のモデルともなった オルヴィエート大聖堂のサン・ブリツィオ礼拝堂の壁画でした!! 師匠でもあったルカ・シニョレッリ作『罪されし者を地獄へ追いやる天使』という壁画で この裸体表現をミケランジェロは参考にしたと言われているそうです
やはり ミケランジェロだけじゃなく そのまわりも色々見てゆかないと複眼的にはわからないものがありますね!
2008年にヴァチカンに行った時のことが 昨日のように思い出されます...
← 二重らせん階段
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また クラブツーリズムでは 10月末に「サン・ピエトロ大聖堂で歌う旅」のツアーを予定しているそうです
さて 私はまた 月1回水曜夜の黒田講師の「知ればもっと旅が楽しくなる 世界の遺産講座」に出ます~ 韓国の遺産の次は 軍艦島 そして7月はノルマンディーだそうです!! ← イタリアとドイツと日本の世界遺産だけでいいかと思ってたけど~いちおう世界遺産検定受けるので(笑)
「バチカン サンピエトロ大聖堂を学ぶ!」の講座のお知らせは こちら
また 今公開中の「ローマ法王になる日まで」もぜひご覧ください♪ もう少しで終わるみたいです...
素晴らしい講座を開催してくださいました㈱クラブツーリズム様に心よりお礼申し上げます
* 写真は バチカン美術館の中庭 (Cortile della Pigna)pignaは松ぼっくりの意味
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