ギリシャ語には「愛」を意味する語が二つある。
一つはエロースで、もう一つはアガペーである。
エロースはギリシャ哲学において提唱された愛の概念であり、プラトンの対話編『パイドロス』において最も深く論じられている。
それに対してアガペーは新約聖書において典型的な愛の概念である。
エロースと聞くと何か性的なものを思い浮かべてしまうが、それは派生的な意味であって本質的なものではない。
エロースは低俗なものから高貴なものへと上昇する一種の向上心を示唆している。
それはまた、醜いものから美しいものへ、弱いものから強いものへ、不完全なものから完全なものへ、それぞれ上昇する精神の志向性を意味する。
それに対してアガペーは弱い者、虐げられた者、貧しい者への慈しみを意味する。
エロースが人間的欲求を示唆するのに対して、アガペーは神の愛を意味するのである。
我々の中には、自らを成長させたり欲求を満足させたりしようとするエロース的要素と、自分を犠牲にしてでも他人を救済しようとするアガペー的要素が併存している。
人によってその割合は違うだろうが、併存している点は共通である。
しかし、この二つが一人の人間の中で併存していることに無頓着だったり、この二つの接点ないし共通点に対して盲目な人も多い。
そこでどっちか一つを重視したくなる。
理想的なのは向上心を堅持しつつ隣人愛を失わないことである。
しかし、現実にはエロースが独り歩きしてアガペーが見失われている例が多い。
またはアガペーを重視すると禁欲的理想主義になって、自然的欲望が著しく抑止されてしまう、と危惧している人も多い。
自民党、特にアベノミクスはどうだろうか。
東京オリンピックは必要だろうか。
原発再稼働は必要だろうか。
何とか細胞を持ち出して利権を確保しようとすることは、本当に病気や障害で苦しんでいる人を救おうとして、そうしているのだろうか。
それにしてはあまりにスキャンダラスなことや過剰な贅沢が多いような気がするが。