心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

哲学A1文章講義(第10回)

2020-05-27 11:52:50 | 哲学

今回は第4章の第1節と第2節について話す。

 

ハイデガーの『存在と時間』は20世紀最高の哲学書の一つ、プルーストの『失われた時を求めて』は20世紀最高の小説の一つである。

両方とも読んだ方がよい逸品だが、必ずしも読まなくても我々は件のタイトルが惹起する哲学的問題を自分で考えることができる。

 

「存在と時間」という問題設定は、何か分からないが、とにかく我々の心をくすぐる。

人生の意味、生命の意味、存在の意味・・・・、それと時間の関係。

我々各自の人生の持ち時間は限られているし、刻々と過ぎ去る時間は我々の生命と存在の根底に関わっているように感じる。

その漠然とし曖昧模糊とした感情ないし深層意識を直視して、刻々と過ぎ去る時間と自己存在の関係を考えてみればよい。

その際、自己の存在だけではなく、世界全体、宇宙全体の存在にも思いを馳せるのである。

 

こうした問いは答えがすぐ出てくるような代物ではない。

しかし、自分で一度この問題を考えてみるのである。

その際、テキストの当該の箇所を参照すればよい。

さらに興味がある学生は、私の他の著書『存在と時空』を読めばよい。

また、ハイデガーの『存在と時間』に挑戦するのもよい。

 

次に「失われて時を求めて」という思考案件ないし意識について。

これは問題というよりは思考案件であり、深い意識である。

我々は時々過去を思い出し、懐かしんだり後悔したりする。

そして、それを取り戻したり反復したくなる。

しかし、過去は二度と戻ってこない。

また、後悔が強く、過去の汚点や苦しい思い出を消し去りたい衝動に駆られる。

しかし、消せない。

結局、失われた過去は、文字通りの仕方では取り戻せないのである。

 

しかし、たんなる「失われた過去」と深い意味での「失われた<時> 」は違う!!

「失われた時を求めて」という意識は、単に過去をやり直そうだとか、タイムマシンに乗って帰ってみようだとか志向しているのではない。

それは、存在の意味、人生の意味、生命の意味を根底から規定する「根源的時間性」を志向しているのである。

つまり、「失われた時を求めて」という思慕的意識において、我々は自己と世界の存在の根源、人生の真の時間的意味、魂の故郷を求めているのだ!!

 

次に「時間の中で時間を超えて生きる」ということ。

我々は、通俗的な不老不死、霊魂の不滅、死後の世界などの観念を完全に捨て去って、時間の中で生きるという現実を直視しなければならない。

その中で「時間を超えて生きる」という普遍的姿勢が獲得できるのである。

それも、あくまで「時間の中で」である。

 

有限な各自の人生の時間の中に生命の大いなる連鎖の痕跡を見出し、時間泥棒にそそのかされてあくせくと生活して、存在の真の意味を見失っている自己の意識を

根源的時間性に向けて深めるのである。

これは天上への超越ではなくて、自然と市民社会と大地という肥沃な地盤への下向きの超越である。

 

齢を気にしたり、寿命を気にしたり、自由時間が少なすぎることを嘆く前に、時間泥棒の誘惑、翻弄に逆らって、時間の中で時間を超越するのである。

これは不老不死や霊魂の不滅の対極にある哲学的姿勢である。

これによって男女ともに知的ダンディズムが身に着き、ニヒルな男の色気や陰りのある知的な美貌(女性)を獲得できるのだ。

 

鶴は千年、亀は万年、しかし猫は質に満ちた20年!!

 

そして、はかない命を恋のため捧げるのだ。

それを歌った森山佳代子の1970年のヒット曲『白い蝶のサンバ』の動画

https://www.youtube.com/watch?v=jqj7fb-r9pA

 

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