カントは「善意志のみが無条件に善である」と言った。
本当にそうであろうか。
「善意志」の「意志」とは本人の意識の問題である。
本人が自分の意志が「善」だと思い込んでだけの場合は、どうであろうか。
てゆうか、そういう場合はけっこうある。
善は社会的人間関係の中で機能する規範的なものであり、個人の内面的良心意識に還元できるものではない。
この点でカントを叩いたのはヘーゲルとディルタイである。
簡単に言うと「私はコレコレのことが善だと思い、それを行おうと意志していますが、あなたはどう思いますか」という確認が最低限必要なのである。
それをしないと、独善主義に陥る。
オウム真理教の連中は自分たちがしていたことは善だと思い込んでいたのである。
そして、自分たちの行為は善意志に由来するものとみなしていた。
しらけ世代の彼らのどこまでが本当にそう考えていたかは疑問が残るが、大枠ではそうであろう。
第二次世界大戦中の日本の軍国主義とその教育はどうであろうか。
この場合、善意志は全悪であった。
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