心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

哲学A1文章講義(第22回)

2020-07-12 09:19:14 | 哲学

今日は第8章の第2節に関する話をする。

しかし、この節を単に要約しただけでは芸がない。

各人が読んでいるわけだし、本文とは別の観点から話した方が有益だろう。

 

問題は「心」について考えたり研究する際、哲学と科学ではどう違い、またどのような共通点をもつのか、ということである。

 

心という現象が対象化しにくく、概念的にも内実的にも把握しにくい、ということは前回説明した。

しかし、哲学者や心理学者や他の学問・科学の諸分野では古くから心について考察し研究してきた。

また、文学や芸術は心について暗示的に表現してきた。

 

心についての哲学的考察は、人間の意識、経験、認識能力の発生と構成とその限界を論じるという仕方で論じられてきた。

また、心を身体との関係において捉え、両者の関係を深く考察する心身問題の観点から心について研究してきた。

さらに、哲学においては心と生命の関係が非常に重視される。

通俗的哲学の観点では、心と人生、心と実存の関係が重視される。

私は心と書いて「いのち」と読むべきことを提案しているが、これを踏まえて、生理学、医学、脳科学、生命科学とのリンクも視野に入れている。

それに関しては、後で精神医学や臨床的話題でも触れられるので、楽しみにしてほしい。

 

現代の心の哲学は、ほぼ科学哲学であって、脳科学との対話が主となり、意識と脳の関係をどう扱うべきか、に考察が集中している。

私は自前の心の哲学として認知臨床神経哲学というものを提唱しているが、これは心について哲学と臨床神経科学、脳科学、心理学、意識科学、コンピュータサイエンスなどを綜合して、

心の本質、とりわけ意識の本質を探るものであり、認知神経哲学と臨床神経哲学という両翼から成っている。

また、私は文学も重視する。

宗教は否定する。というか無視する。

基本的観点は心身問題的であり、心と身体の見かけの相違と真の一体二重性を明らかにすることを趣旨としている。

 

ところで、心についての科学的研究は長い間、タブーとされてきた。

特に意識に関しては厳しく、そんなものを研究対象としようとすると、オカルトとみなされて、大学や研究所から追い出された。

ところが、20世紀の後半になると、意識の研究が科学として認められるようになり、哲学との協調において今日まで発展してきている。

しかし、驚くべきことに意識科学の端緒を切り開いたのは心理学者ではなく、物理学出身の分子生物学者フランシス・クリックであった。

クリックはワトソンと協働でDNAの分子構造を解明した生物学者だが、その後、脳の機能との相関において意識の本質を探る意識科学に向った。

しかし、その構想はすでに数十年前に医学部出身の哲学者ジェームズが立てていたものなのだ。

しかし、ジェームズの意向は長い間無視され、行動主義の心理学の支配によって意識科学の成立は阻まれていた。

 

このように心とか意識は意外に物理学や生物学や医学の方から支持され、積極的に研究され始めたのである。

心理学は意外と頑なで、内面的意識の存在を否定して、心を行動に還元する姿勢を取っていた。

これは分別臭い疑似科学主義であって、外部から定量的に観察し把握できるものに視野を狭めた結果である。

 

現代において科学と哲学は相変わらず対立する面もあるが、協力し融合する部分もある。

もともと科学は哲学から生まれてきたものなので、当然だ。

心とか意識に関しては、従来の還元主義的方法は科学の側からも反省が加えられ、哲学と近似の柔軟な姿勢に変化して生きている。

精神医学においても同様である。

そもそも医学の進歩は、本来進歩したら排除されるはずだった「心」という現象を重視する方向に転換した。

 

かつては馬鹿にされた心のケアは極めて重要なものとして医学の臨床の場で認められている。

全国のがんセンターに先駆けて、築地の国立がん研究センター中央病院は1992年に精神腫瘍科を設置して、がん患者の心のケアに医師があたっている。

なお、天皇陛下の心臓手術の執刀医・天野篤(順天堂大学医学部心臓血管外科教授)は、「優れた医師は医学と看護の両方ができなければならない」と言っている。

 

そりゃそうだよにゃ、にゃ

 

 

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