東大医学部と慶應医学部は特に関東の医療界を中心として、全国規模で二大学閥、二大ブランドを形成しているが、同時に互いに敵対し排除しあう確執関係にもある。
この確執の元は、両学部の成立過程にある。
周知のように東大医学部は、帝国大学医学部として日本最初にできた大学医学部である。
それはドイツ医学を範とする研究中心の医学を推進することを趣旨とするもので、さらに権威主義と官僚主義という悪しき傾向を携えていた。
東京帝大医学部が目指したのは、ドイツ医学を日本に輸入し、患者の治療よりも官僚的医学者を養成することを重視し、全国の大学に教授をばらまき、権威のピラミッドを築くことであった。
その運動の中核を担い先導役を果たしたのが、東京帝大医学部初代内科教授の青山胤通(たねみち)であった。
彼は医学者としてはたいした実力はなく、組織の長となって派閥を形成することを目指す、いわゆる出世志向、権力志向の俗物学者であった。
彼は東大医学部に絶対的権力を与え、その他の大学を服従させるために、全国の新設医学部に弟子を教授として送り出し、学閥を形成しようとした。
しかし、青山が活躍していた頃、ドイツからノーベル賞の候補にも挙がった世界的細菌学者・北里柴三郎が、欧米の大学・研究所の誘いをすべて断って、祖国・日本に戻ってきた。
青山はとんとん拍子に進学・卒業・出世したエリートであるのに対して、北里は東京帝大医学部出身とはいえ、苦学を重ねた傍流であった(31歳で卒業)。
ただし、医学者としての実力は北里>>>>青山であった。
それに対して、官僚的学者としての権力は青山>>>>北里であった。
北里は帰国後、東大医学部付属の伝染病研究所の所長となり、そこを開かれた組織にしようとしたが、北里の純粋な学究心と反権威主義を嫌った青山は北里を自らの権力によってクビにした。
路頭に迷った北里に救いの手を差し伸べたのは、慶應義塾の創立者・福澤諭吉であった。
福澤は権威主義と官僚主義に反発した思想家であったが、彼が北里を援助して慶應医学部とその附属病院を設立させたのである。
これが、今日まで至る東大医学部と慶應医学部の確執の源泉である。
北里は臨床医ではなく基礎医学者であったが、日本医師会の初代会長となり、患者の治療中心の医療の推進と開業医の地位の向上に尽力した。
それ以来日本医師会は慶應医学部出身者がトップに就くことが多く、その中で一際光り輝いていたのが、かの武見太郎である。
「けんか太郎」の異名をもつ武見は、東大や旧帝大などの国立医学部の研究至上主義に対抗して、私立医学部と開業医の地位の向上に尽力した。
その姿勢はまさにけんか腰であった。
慶應医学部は1970-1980年にかけて東大医学部を偏差値で少し上回っており、慶應出身者の子弟や臨床医志望の学生を中心として東大理Ⅲを蹴って慶應医学部に進学する者もいた。
これは武見の威光が強かった時代である。
頭のよさでは東大医>慶應医あるいは東大医=慶應医だが、医者としての腕では慶應医>>東大医、かっこよさでは慶應医>>>東大医とみなされていたのである。
もともと慶應義塾の方が東大より古く、東京帝大の初代教授は外国人以外は慶應から多く来たのである。
今の価値観ですべて割り切るのは軽薄すぎる。
慶應とはじめとする私立の医学部はイギリス医学の臨床主義、現場主義、治療中心主義を受け継ぎ、旧帝のドイツ的研究第一主義と敵対している。
慈恵医大も日本医大も日大もみなそうである。
東大医学部の外科の教授が官僚的学者にすぎず、手術もへたくそで、いざとなると私立医大のゴッドハンドに泣きつくことは、去年全国民に知れ渡ってしまったではないか。
天皇陛下の心臓バイパス手術の際に、東大の心臓外科のペーパードライバー的教授は、近くの順天堂大の神の手・天野篤さまにお頼み申したのである。
*参考文献は多数あるが、とりあえず米山公啓『学閥支配の医学』(集英社新書)を挙げておく。