今日もキム・テヒ登場です。
なんか神秘的ですね。
見返り美人@韓国って感じですね。
森雅之(1911-1973)は、有島武郎の長男で本名は有島行光。
京大哲学科中退のイケメン俳優である。
彼は武郎が北大に勤めていたとき白石村(現 札幌市白石区)に生まれた。
3歳まで札幌で過ごし、1914年に東京麹町の有島邸に一家で引っ越してきた。
父の死後、1931年に旧制成城高校を卒業し、京都帝国大学哲学科美学美術史専攻に入学した。
しかし、その後中退し、俳優となった。
彼は、高校生のときから舞台俳優を目指していたのだ。
出演代表作は『安城家の舞踏会』(1947)、『羅生門』(1951)、『白痴』(1951)、『雨月物語』(1953)、『或る女』(1954)など。
このうち『安城家の舞踏会』は武郎の弟・里見が武郎の心中を題材にした小説『安城家の兄弟』の改作版であるが、森は長男の役、つまり武郎を演じたのである。
また『或る女』は武郎の代表作の映画化であるが、森は船の事務長・倉地三吉役を演じた。倉地は荒々しい野性的な男である。
森は父親がイケメン、母親が美人だったので、類まれなるイケメンになった。
そのイケメンぶりを見てみよう。
有島武郎の息子で京大哲学科中退→知性の憂い、官能の惑わし→父親譲りがさらにエスカレート、である。
これは『羅生門』の一コマ。文芸作品がよく似合う。
原節子と。『安城家の舞踏会』で共演した。
淡島千景と。
最初の写真は高峰秀子とのツーショットだった。
和田さんの『東大の大罪』(朝日新書)を読み終わった。
大変面白かった。
おすすめである。
和田さんは自ら母校である東大を徹底的に批判している。
まず、東大の教授は努力していないし官僚や政府におもねって独創的研究を放棄している、とこき下ろす。
そして、教授の人選が教授会に委ねられていることの弊害を指摘する。
教授は終身雇用ではなく任期制にして、業績のない者はすぐに辞めさせ、優れた非常勤講師や助教や他大学の准教授を引き抜くべきなのである。
また、最初にノーベル賞受賞で京大>>>>東大であることを強調している。
京大は東大とは違って権威主義的ではないので、純粋の探究心を押し進め独創的な成果を上げやすいのである。
京都大教授として受賞した学者でも、ノーベル医学・生理学賞の山中教授は神戸大医学部出身だし、物理学賞の益川教授は名古屋大理学部出身である。
また、反原発の旗手の京大助教・小出裕章さんも東北大出身である。
つまり、京大は東大よりも開かれた学問用大学なのである。
和田さんは、東大の入試が20年ぐらい前から易化したことと中高のゆとり教育の弊害も指摘している。
それでも東大が最難関であることは変わりないので、日本全体の学問水準が下がることを危惧しているのである。
それと和田さんは拝金主義を嘆いている。
真のエリートは教養高い進歩主義者であるべきで、拝金主義などもってのほか、というわけである。
私としては和田さんの意見に大方賛成であるが、「これは違うな」という部分もけっこうあった。
それは、受験勉強の重要性を強調する姿勢である。
彼は受験勉強や大学での講義の充実が優れた教養人としてのエリートを養成すると主張するが、それは違うと思う。
それらは手段ではあっても目的ではない、必要条件ですらない。
それは道具である。
前に取り上げた天野篤教授の例を参照すれば、それはすぐ分かると思う。
また、益川教授は入試問題は易しくして、大学に入ってから自由に猛勉強することを推奨している。←これ俺がやったことだ。
益川さんは英語が苦手で、会話は全くできないし、英文の論文もまともに書けないので、海外の学術誌に発表する英文の論文は大学院生に添削してもらっていたのである。←豪傑!!
益川さんは名古屋大の大学院修士の入試では英語が20点、ドイツ語が0点で、不合格になりそうになったが、物理学の才能と努力を認められて、ようやく合格したのである。
そういえば、ノーベル化学賞の田中耕一さんも英語とドイツ語が苦手で東北大の大学院進学をあきらめ、ソニーの入社試験でも落とされ、島津製作所に拾われたんだよね。
こういうことを顧慮すると、和田さんの意見には「ちょっとね」という感じになるが、全体としての姿勢には共感する。
なお、和田さんの専門の精神医学の話は少ししか出てこないが、東大医学部精神科の事情を垣間見させる箇所には引きずり込まれた。
東大精神科は大学紛争の火種となった所でもあり、もともと研究派(教室派) と治療派(臨床派、病棟派)に分裂しており、それは建物が別になっていることにも表れている。
和田さんは反権力派の病棟派に属し、しかも精神分析系だったので、東大精神科の主流から外れたのである。
これはそのまま日本の精神医学界の主流から外れたことを意味する。
ちなみに、和田さんは現在の東大精神科の教授が画像診断を専門とする研究者で、問診を軽視する傾向があり、これが教室員や日本の精神医学の主流になることを危惧している。
これには大いに共感をもった。
精神科診断における画像診断は道具ではあっても目的ではないのだ。