今後書きたい本を備忘のために記しておく。
『哲学的短編小説集』
『偽善の研究』
『心と神経の哲学 / あるいは脳と精神の哲学』
『新・人間失格』
『情報と形相』
『猫ロジカルな心の哲学』
『ネコでも分かる哲学入門』
『意識哲学入門』
『君自身にではなく自然に還れ』
その他
すべてKindleで出版する予定なので、確実に出せる。
後は執筆力のみ。
今後書きたい本を備忘のために記しておく。
『哲学的短編小説集』
『偽善の研究』
『心と神経の哲学 / あるいは脳と精神の哲学』
『新・人間失格』
『情報と形相』
『猫ロジカルな心の哲学』
『ネコでも分かる哲学入門』
『意識哲学入門』
『君自身にではなく自然に還れ』
その他
すべてKindleで出版する予定なので、確実に出せる。
後は執筆力のみ。
昨日観てきた大宮公園の桜です。
宴会自粛のため露店なし、花見客まばらです。
特に第一公園の雰囲気は異様です。
毎年酒臭くて汚いので、嫌だったのですが、今年は綺麗です。
まず、大好きな第二公園の桜。
次に第一公園の桜。
御覧の通り、ブルーシートを敷いたグループ客がほとんどいません。
歩いている人も例年よりかなり少ないです。
たしか、ジョン・レノンがビートルズ時代に「神はオカマの燻製ニシンだ」と言っていたと思う。
けだし、名言である。
ところで、「ニシン」と入力しても、魚のニシンの漢字が出てこない。
どういうわけだ。
グーグルのブラウザだと出てこないがこのブログの編集ブラウザでは、ちゃんと「鰊」と出力される。
しかし、「神はオカマの燻製鰊だ」には笑ってしまう。
猫も笑ってしまいそうだ。
10月12日、台風19号が関東地方を直撃した。
長時間、大雨が降り続き、荒川は氾濫寸前までいった。
実に数十年ぶりであった。
翌日は快晴であり、私は荒川の状況を見に行った。
そして、驚いた。
正に海のような状態である。
普段は、ゴルフ場や飛行場やグランドとして使われている河川敷が全部川になっている。
普段の川幅の10倍である。
2014年の医学部偏差値です。
国公立と私立を一緒にしたものです。
偏差値は必ずしも医学部の質と格を反映しません。
70-80%反映すると考えたほうがいいです。
また個人の実力は大学の集合的レベルでの偏差値では測れません。
そのことを顧慮してください。
心の哲学と臨床哲学を合わせて「心の臨床哲学」というものを造れないだろうか。
心の哲学は現代英米において主流をなしている哲学の一大潮流である。
それは一世代前の分析哲学を心身問題の方向で深めたもので、心の概念を脳科学(神経科学と認知科学)と対話しつつ分析している。
しかし、その方法は分析哲学と違って、単に言語使用の規則や概念分析や論理的議論に尽きるものではなく、心と身体、心と脳の関係を事実性の次元に置いて解明しようとする点に特徴がある。
ところで、臨床哲学とは臨床医学や生命倫理と対話しつつ、人間の心と生命の意味を考えようとするもので、基本的に人間学的である。
それゆえ、臨床哲学は分析哲学よりは実存哲学や現象学と親近性がある。
人間の心をテーマとする点で心の哲学と臨床哲学は接点をもっているが、方法という点では乖離している。
過去の哲学者で心の哲学と臨床哲学の両要素をもち、この二つを統合するような思索をしていた人というとジェームズやメルロ=ポンティを思い出す。
ただしこの二人には分析哲学的な心の哲学の資質がない。
そこで、パットナムなどの思想を加味して、新たな心の臨床哲学を構築することが求められる。
とにかく、心の臨床哲学は心の諸科学(神経科学、認知科学、精神医学、臨床心理学)と対話しつつ、心身問題と心脳問題を考究していかなければならない。
その際、生命の本質へと食い入るまなざしが要求される。
私自身、数年後に『心の臨床哲学』という本を書こうと思っているのだが、このブログはそのための覚書という性格をもっている。
文学者の病跡の話題もそれに含まれる。
英米の分析哲学経由の心の哲学、実存哲学と現象学の影響を受けた臨床哲学、さらに心の諸科学、これらをすべて取り入れて、総合的な心の臨床哲学を構築しようと思っている。
ちなみに、一般市民の闘病記も参考になる。
それテーマとしたブログも多数存在する。
病に苦しむ人と心の本質に科学的にアプローチする人双方に興味がもてるような心の哲学を構築したいものである。
来年の春に出版される予定の新著『新たな哲学の創発 - 22世紀に向けての超-哲学入門』の原稿が出来上がり、現在推敲中である。
しかし、もう、次の本の構想が浮かんでいる。
『心の臨床哲学』と『生命の神秘と時間の深淵 - 失われた時を求めて』の二冊である。
前者はこのブログのタイトルのままになるかもしれない。
つまり『心と神経の哲学/あるいは脳と精神の哲学』である。
これに副題を付けて『心と神経の哲学/あるいは脳と精神の哲学 - 臨床哲学的考察』でどうだろうか。
忘れないように書いておく。
もう何度も書いてきたが、備忘録としてまた書いておく。
とりあえず『哲学の諸問題』と『臨床神経哲学への誘い』という本を書きたい。
前者は私にしては恐ろしく平凡なタイトルの本である。
内容は私が重要だと思った哲学の問題を10ぐらいあげて、初心者にもわかりやすいように論じる、というものである。
要するに哲学入門ないし哲学概論である。
ただし、私なりにバイアスがかかっており、アクが強いものになるであろう。
「日本に哲学なし」ということも大々的に主張したい。
後者は2001年に上梓した『脳と精神の哲学』のライトモチーフを受け継ぐ本である。
脳と心の関係を、脳科学と精神医学を参照しつつ、心の哲学の手法で論じるのが、私流の「臨床神経哲学」である。
それはアメリカの神経哲学よりは人間学的であり、臨床哲学的なのである。
タイトルは一見入門書を思わせるが、臨床的な神経哲学の面白さへと引き込むという意味合いのほうが強い。
もちろん、入門書的傾向も兼ね備えたものになるであろうが。
別の案もある。
『意識と生命 ー失われた時を求めてー 』というものである。
あるいは『意識と生命 ー 時間を超えて時間の中で生きる ー』
これはのっぴきならないテーマである。
最後の渾身の力を振り絞って書きたい。
備忘録として書いておく。
『死の意識と心の本質』という本が書きたくなった。
単純に『心とは何か』でもよかったが、それでは芸がない。
それにそのタイトルはありあれている。
意識哲学、死生観、生命科学、脳科学、心理学、精神医学、文学、宗教心理と題材は豊富である。
いい本が書けたらいいな、と思う。
それにしても最近、がんで死んだ人の闘病記を多数読んでいる。
昔からよくよくでいたが、また読んでいる。
逸見政孝さんとかみんなおぼえてるかな。
逸見政孝(1945~1993)
元フジテレビアナウンサー
48歳のときスキルス胃がんのため死去
あと、近藤誠をどう扱うかも問題だ
『忘却された存在の深みを求めて』ないし『忘れられた存在の深みを求めて』という本が書きたくなった。
どちらも副題は「意識・生命・時間」である。
『失われた存在の深みを求めて』でもよいが、あまりにプルーストに頼りすぎな感じがする。
あるいはもっと単純・率直に『存在の深みを求めて』でもよい。
書きたいことの輪郭ないし概要はすでにできている。
付録として、哲学的心境小説の試み『北上尾にて』を書くことも構想のうちにある。
これは言うまでもなく志賀直哉の『城の崎にて』をモデルにしているが、もっと深いものになるであろう。
ところで「深み」ってなんだろうか。
特に「存在の深み」ってなんだろうか。
この素朴な疑問を、意識と生命と時間の三者関係から炙り出すのが眼目なのだ。
『失われた存在の深みを求めて - 意識・生命・時間』 というタイトルの本を書きたくなった。
出来たら、ものすごい傑作になるであろう。
何度も備忘録として次の著書のタイトルを書いてきたが、そろそろ最終案を打ち出そうと思う。
それは『意識・生命・時間』というものである。
このように三つの語を中黒(・)で結んだタイトルは好き嫌いが分かれる、と思う。
私自身もこれまで『時間・空間・身体』 (1999) と『心・生命・自然』 (2009) というこの種のタイトルの本を二冊上梓している。
なんか安直なタイトルのつけ方のような気もするが、意外とこれが内容にジャストフィットしているのだ。
まだ決定したわけではないが、最も書きたくて、かつ最も書きやすそうなのをタイトル化すると『意識・生命・時間』となるのだ。
実は2007年の『自我と生命』の最終章のタイトルが「生命・時空・意識」となっている。
これを大幅に改変し内容を増幅すれば件の本になる。
基本的に意識哲学と生命哲学と時間哲学の三位一体構造を体系構築的に論じるつもりである。
なお、空間の問題も論じることになると思うが、今回はわき役に徹してもらうので、時間のほうを前面に押し出した。
また、件のタイトルを副にして主タイトルを「哲学の最後の輝き」ないし「哲学の究極」とすることもできる。
その他「存在の深淵」とか「存在の深み」とかでもよい。
すると件の本のタイトルは『哲学の最後の輝き - 意識・生命・時間 - 』となる。
こっちのほうがいいかも。
Life is short. Art is long.
次に書く本のタイトルが思い浮かんだ。
それは「神経哲学入門」というものである。
そのためには先日入手したGeorg Northoff の著書 Philosophy of the Brain を読まなければならない。
ノルトフはドイツ出身のアメリカの精神医学者だが、哲学にも極めて造詣が深く、自ら立てたneurophilosophyを展開している。
それはパトリシア・チャーチランドのものとは別物で、大陸の哲学・現象学にも開かれている。
もちろん英米の心の哲学も幅広く取り入れている。
これは私と同様の立場である。
また「神経哲学入門」には必ず、前の記事に書いた「芥川龍之介と神経哲学」という章を設けたい。
これは忘れないために書いた記事である。
今日、次に書いてみたい本のタイトルを思いついた。
忘れないために書き残しておこうと思う。
まず『意識・生命・時間』あるいは『意識と生命の接点としての時間』。
これは私の意識哲学を時間論の方向へと発展させたものとなる。
とりあえず意識と生命の関係を論じたいのだが、それを何とか時間論と結び付けたいのである。
もともと私は時間哲学を専門としていた。
その後、意識哲学と生命哲学に転向したのだが、最後に時間哲学を結節点として意識と生命の関係を論じたいのだ。
とりあえずベルクソンの『物質と記憶』を批判的に検討し、プルーストの『失われた時を求めて』のライトモチーフを継承したい。
それを創発的生命主義の意識哲学の文脈に引き込むのが味噌となる。
次に『崩壊する自我の自然 - 自殺に関する臨床哲学的考察 -』。
この主タイトルの響きはいい。
迫りくる自我崩壊の危機に面して人は恐怖と戦慄を覚え、底知れない不安に陥る。
その様態をありのままに描き、自然へと還る人間の逆説的栄光を解き明かしたいのだ。
精神的に追い詰められての自殺は実に痛ましいが、自然主義の観点からすると、一つの生命現象として美の光を放っているかのように感じる。
要するに自殺について哲学的に考察したいのである。
しかも、それは精神医学や臨床心理学に通じる「臨床哲学」的方法によってなされる。
その際、際立った自殺の例、つまり際立った「崩壊する自我」の例を取り上げたい。
とりあえず、有島武郎、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫という作家の自殺が念頭に浮かぶ。
この四人は十代の頃から私の心をつかんで離さなかった。
彼らの自我崩壊の病跡から説き起こして、自殺に関する臨床哲学的考察を展開したいのである。