今日、次に書いてみたい本のタイトルを思いついた。
忘れないために書き残しておこうと思う。
まず『意識・生命・時間』あるいは『意識と生命の接点としての時間』。
これは私の意識哲学を時間論の方向へと発展させたものとなる。
とりあえず意識と生命の関係を論じたいのだが、それを何とか時間論と結び付けたいのである。
もともと私は時間哲学を専門としていた。
その後、意識哲学と生命哲学に転向したのだが、最後に時間哲学を結節点として意識と生命の関係を論じたいのだ。
とりあえずベルクソンの『物質と記憶』を批判的に検討し、プルーストの『失われた時を求めて』のライトモチーフを継承したい。
それを創発的生命主義の意識哲学の文脈に引き込むのが味噌となる。
次に『崩壊する自我の自然 - 自殺に関する臨床哲学的考察 -』。
この主タイトルの響きはいい。
迫りくる自我崩壊の危機に面して人は恐怖と戦慄を覚え、底知れない不安に陥る。
その様態をありのままに描き、自然へと還る人間の逆説的栄光を解き明かしたいのだ。
精神的に追い詰められての自殺は実に痛ましいが、自然主義の観点からすると、一つの生命現象として美の光を放っているかのように感じる。
要するに自殺について哲学的に考察したいのである。
しかも、それは精神医学や臨床心理学に通じる「臨床哲学」的方法によってなされる。
その際、際立った自殺の例、つまり際立った「崩壊する自我」の例を取り上げたい。
とりあえず、有島武郎、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫という作家の自殺が念頭に浮かぶ。
この四人は十代の頃から私の心をつかんで離さなかった。
彼らの自我崩壊の病跡から説き起こして、自殺に関する臨床哲学的考察を展開したいのである。