いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

ミスマッチ正当化。 missing justification

2015-03-16 19:44:05 | 日記
 (1)政治家というのは「全体」を見ない。国の主権、国民の権利を守る、保障する手立てを考え実践するのが政治の役割なのだが、政治家の本質はほとんどが地域の代表としてその限られた選挙区民から選出されてくる「個人事業主」だ。

 「政治とカネ」の問題を取り上げた新聞コラムで「縛りばかりで本質を見失っちゃいかん。消費期限だ賞味期限だと縛れば食べずに廃棄される食品が増えるようなものでね。食生活の本質が見失われる。政治も同じですよ」(コラム記事)と伊吹前衆院議長の話だ。
 伊吹さんがどれだけ立派な政治家なのかは知らないが、「立派な政治家」の話としての本質論としてはわかる話だ。

 (2)しかし本質論を述べたつもりでも、現在の政界の「本質」(essence)をとらえたものでもないし、そもそも本質でもない。安倍首相は「憲法」は今の時代に合っていないところもあるので変える必要がある(報道趣旨)と述べて、改正にあらためて意欲を示したといわれるが、その前にまず成立当時からザル法と呼ばれて不備、不足だらけを政治家自己保身のために放置してきた「政治資金規正法」こそ、早急に改正すべきもので、あべこべだ。

 (3)安倍内閣の閣僚の政治団体で国から補助金を受けていた企業から献金を受けていたことが相次いで発覚し、安倍首相の政治団体まで波及して民主党の岡田代表の政治団体もそうで、与野党を問わずに国家議員(政治団体)の「政治とカネ」のいいかげんな管理体制、理念がまん延している政治実情だ。

 何しろ政治資金規正法では議員本人が「知らなければ」不正に問われないという「あきれた」規正法なので、誰もが「知っていた」などと言うわけもなく、安倍首相も規正法の見直し、検討を指示してはいる。

 (4)与野党を問わずに国会議員にまん延した「いいかげん」で「でたらめ」な政治資金、献金意識、管理体制が国民から負託を受けた政治家、団体の現状本質なのはあきらかなのに、冒頭の伊吹さんの「普遍的な本質論」での披露だから政治本質、実情とは隔たりがあり、ミスマッチ正当化(missing justification)となるのだ。

 同コラムでは不正献金の金額が「億のカネを得たわけではない」と金額の多少が罪の意識の多少につながるような本質理論を暗示しているようにも受け取られるところもある。そうしておいて直後に少額、妥当な献金なのに不当に糾弾されたとは言えないと一応は回りくどく罪の意識の度合いは否定はしている。

 (5)伊吹さんの冒頭発言は「ささいな」ことで国民の負託を受けた政治能力のある政治家の役割、使命、可能性を閉ざしてはならないという自己擁護のように聞こえて、相変わらずの政治家の都合主義の正当化の主張でしかない。

 国民の多くが求めるのは、良識と人格、自己規正、自己犠牲のある政治家像のはずだ。今は政治家「総とっかえ」をしたいぐらいの気持だ。

 (6)期待感だけの株価方式のような実体のともなわない安倍内閣支持率の安定に自己満足、好き勝手を正当化していると、食品の「誇大表示、擬装表示」のように社会の批判を招くことになるだろう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする