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旅限無(りょげむ)

歴史・外交・政治・書評・日記・映画

ちょと皮肉な「正しい日本語」

2005-07-12 23:58:54 | 日本語

■英語に押されて、ずっと痛めつけられている日本語は、「てにをは」の間違いや慣用句の誤用など誰も気にしないで戦後60年を転げ落ちています。「どうやら日本は米国にはなれないらしい」と気が付いた人達が、何度目かの日本語ブームを起こしています。それが案外若い世代から起きているらしい、と素人の勘で考えていたのですが、どうやら本当のようですなあ。随分むかし、「世代の断絶」などと言われまして、今をときめく井上陽水さんのデヴュー・アルバムは『断絶』でした。しかし、「断絶」が活字や音楽になっている時代は断絶を克服して繋がろう、理解し合いたいという気分が渦巻いていたのです。

■誰も「断絶」を気にせず商売にもならなくなった時代が、本当の断絶なでしょうなあ。国家意思が激突する様子が露(あらわ)になって、これから日本にしがみついて生きて行かねばならない世代が自分達が教え込まれた「日本語」を見直して生き残ろうとする気分が高まるのは言葉を使う生き物としては当然の反応でしょう。テレビやラジオが生活に欠かせない道具になっていても、「言葉のプロ」だと認められる人(声)が見つからないし、学校に行っても「日本の専門家」にはなかなか会えないですから、困ったものです。文学界では、絶望に狂ったかのように開き直って、乏しい語彙を物ともしせずに書き散らした、エネルギーだけが満ち溢れているような本で商売しようとしているような気配です。

「青田買い」→「青田刈り」など、中高年ほど“誤用”

 「青田買い」よりも「青田刈り」、「汚名返上」よりも「汚名挽回(ばんかい)」など、本来とは異なる慣用句を使う人が、中高年に多いことが12日、文化庁が発表した国語に関する世論調査で判明した。
 若者の方が正しい使い方をする人が多く、文化庁は「中高年は言葉を知っているがゆえに、混同してしまうのでは」と分析している。

 調査は、今年1~2月に、16歳以上の3000人を対象に実施。「青田買い」「汚名返上」「伝家の宝刀」の3語について、正しい表現と本来とは異なる表現のどちらを使うか聞いた。その結果、「青田買い」を使う人が29・1%だったのに対し、34・2%は「青田刈り」を使うと回答。「汚名挽回」も44・1%で、「汚名返上」(38・3%)を上回った。本来の「伝家の宝刀」は41・0%で、「天下の宝刀」(25・4%)を上回った。

 年齢別に見ると、30代以下では、「青田買い」が多いが、40代でほぼ同じ割合になり、50代で逆転。「汚名返上」も、10~20代は正しく使う人が多かったが、40代の5割が「汚名挽回」とした。

 文化庁によると、「青田刈り」は、辞書によっては容認しているが、「汚名挽回」「天下の宝刀」は誤用とされる。若者に“模範解答”が多かったことについて、文化庁は「授業で取り上げられることが多いからでは」としている。
(読売新聞) - 7月12日


■後は野となれ山となれ、俺達は生活を支えるので精一杯だ!と余りにも大きくなり過ぎたバブルを吹き飛ばして、後始末など思いも及ばない世代は逃げに入っているのでしょうか?この記事の問題は、最後の段落に有りますぞ!。
「青田刈り」は正しく使われていると敢えて主張します。稲穂が実っていない内に刈り取ってしまうことを「青田刈り」と言います。刈った後は藁(わら)にも使えない堆肥の材料です。「青田買い」は収穫が定かでない時期に投機的に売買契約を結ぶ事です。では、全ての能力において即戦力になど絶対になれない大学生達を大量に採用して、不況になったらリストラ(正しくは首切り)の標的にするのを、「青田刈り」と言わずに何と言うのでしょう?今も、「青田刈り」が日本のちょっと有名な大学では続いているでしょう。

■「汚名挽回」も正しい!毎日毎日、「どうも、申し訳ありませんでした」と髪が薄くなった頭を三つ四つ並べて平身低頭している風景が、テレビ・ニュースで続いています。そこでは必ず、

「これを教訓として、二度とこのような不祥事が起こらないように、最大限の努力をして行くことをお誓い申し上げまして……」

と業種や業界の区別無く、視聴者側の記憶を混乱させようとしているかのように、同じ台詞が流用されいます。以前に比べて、問題が発覚すると直ぐにこうした会見を開くのは良いのでしょうが、「二度とこのような……」と言った翌日に、もっと許せない問題が暴露される事が恒例になりつつあります。そして、各種の調査報道が進むと、必ず「以前にもこの会社では……」という話が発掘されます。
ですから、会見を開くと「汚名」が消えるどころか、隠し通そうと思っていた「汚名」を「挽回」してどろどろになってしまう様を、「汚名挽回」と言っても良いのではないでしょうか?正しくは「恥の上塗り」「藪蛇」「頭隠して尻隠さず」と言います。

■「天下の宝刀」も正しい!封建的な家社会が崩壊したら、家族や家庭まで崩壊してしまったのが、米国の模倣をし続けた日本社会の業績です。従って、家法も家訓も無くなった今の日本で「伝家」は意味が無くなったのです。そこで、最後の切り札・最終兵器として取り出す物は「伝家」ではないのです。そして、伝家の宝刀を抜く時は、「家」を守る時だけと決まっているのですから、そんな時は絶対に来ません。それよりも、トボケた日本外交の御蔭で、近所が騒がしくなっている昨今、「天下の宝刀」を用意して対処しなければならい日が間も無くやって来るのです。

■他の報道では、否定的表現が強調表現に「誤用」されているとの指摘も有りましたが、そんなものは言語学の世界では当たり前田のクラッカーなので取り上げる必要は有りません。

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テレビで美しい日本語方言!のはずが…

2005-07-12 17:35:40 | 日本語


■2005年6月30日、午後9時から久し振りにテレビに少しばかりの期待を持って、やりかけの仕事を放り出してスイッチを入れてみました。

マシューTV日本全国“なまり”頂上決戦!芸能人が方言まる出しだべさSP 米倉涼子VSデビ夫人……

などと新聞のテレビ欄に有りましたので、以前、拙ブログで「日本語のテレビ朝日」などと、5分観ていればが画面上のテロップに誤字脱字が見つかって楽しめる、などと失礼なことを書いてしまって、こんな素敵な番組を作れる企画力が有るのだ!と番組半ばから拝見しました。

■最近、ヒット曲も無い歌手や代表作も見当たらない俳優崩れ、そんな人たちを集めただけにしても、「方言の美しさ」を競う番組ならば見る価値はあるだろうと思っていたら、これは沖縄県が日本本土復帰直前に狂奔し、戦後の日本が体罰まで動員して徹底させた「方言蔑視」運動の再現です!旅限無は、「方言ゲーム」というから、美しく心地良い(意味はとりあえず判らなくて結構)方言という文化の宝を、ゲイノー人と呼ばれる人達が隠し持っているのを、この機会に開陳する、そんな番組だと思い込んでいたのでした。

■ところが、待ちに待っていながら、小一時間も遅れて拝見して見れば、ゲイノー人に故郷の家族や知人に電話をさせて(シコミとヤラセは当然ですが)、「うっかり」方言を話すように意図的に仕向けて、一音節ずつを≪減点≫してスタジオ中で笑うという企画だったのです。親会社の朝日新聞のネタを流用したら、こんな「反動」「地方蔑視」「反革命」番組は作れないはずなのですが?思わず新聞のテレビ欄を確認してしまいましたぞ!『マシュ-テレビ』という訳けの分からない番組は、テレビ朝日の番組と確認。方言を「ケガレ」のように扱うテレビ朝日の「笑い」に恐るべき危機を感じて、ザッピングしてみると、新たな発見がありましたぞ!

■NHKでは一人暮らしの老人が増えて、空き家と不審火の問題が深刻との番組。NHK教育では、物まね歌手のグッチ裕三さんが腕を振るう料理番組です。『ハッチ・ポッチ』という名作をマンネリになるまでだらだらと放送するだけでは足りないらしく、「料理番組」の主人公にして良いのか?まるでフジテレビの「鉄人」ブームを今ごろになって追い回す「間抜け番組」に受信料を注ぎ込む根性は偉い!因みに、調理前のジャレ合いしか観ていないから何の料理をしたかは知らない。グッチさんという奇妙な芸名の小太りで器用なゲイノー人には好感を持っていますが、NHKの料理番組が持っていた地位、その意味をNHK自身が見失っている事だけは確認しました。

■フジテレビは『とんねるずのみなさん食わず嫌い!』が同じ時間帯です。この番組は一度観れば判る企画で、四つか五つの料理を並べて男と女が、バカ面を晒して大口開けて食べる風景を大写しにして笑う?番組です。まあ、その中に一つだけ「大嫌いな食べ物」を混ぜ込んでいて、嫌な物を無理に食べているのを互いに推理する番組です。これは実に見事な企画ですぞ!嫌な物を無理に頬張るマゾヒズムと、それを強要するサディズムを交互に見せるという趣向です。「食べること」に押し込められた表の文化の広さと多様性、そして裏の文化の深さを知った上で作った番組でしょう。こんな番組を思春期のややこしい世代が見慣れてしまうと、身近なコンビニやらネット上に無造作に並んでいるSだのMだのの特殊な?趣向を身に付ける準備が整ってしまうのではなかろうか?でも、この番組は案外人気があるらしく、結構な長寿番組らしいのですが、大丈夫ですかな?

■共に飲食をする事は、共に死ぬ事とも「まぐわう」事とも共通する意味を持たせたのが人類の文化です。誰とでも会食する人間に人格はありません。乞食に徹していた原始仏教の僧達も異教徒からは残飯は貰いませんでしたし、会食の招きにも応じませんでした。淑女も紳士も、武士も大和撫子も見ず知らずの人間の前で飲み食いはしませんでした。「食う」のは恥ずかしくないけれど、人前で「出す」のは恥ずかしい、そんな理屈が通った文化はありません。文化の裏面で、人前で「食ったり出したり」する職業は、大昔から存在します。おそらく、日本の江戸文化はその頂点に位置しているでしょう。日本のテレビは、やはり、薄暗い江戸文化の裏面を、煌々とライトが照らし出すスタジオに再現しようとしているようですなあ。

■お目当ての「方言まるだしSP」ですが、[SP]というのはスペシャル・特別制作の意味だと思うのですが、それ以前に「方言」を扱っていたかどうかは知りません。しかし、他のチャンネルを見て回った後に再びテレビ朝日に戻って見ると、何故か「食い物コーナー」になっていましたなあ。方言の話題はどこに行ったの?

■「視聴率命!」の日本テレビは、『新どっちの料理ショー』という番組を放送していました。短時間だけ覗いても、アホ面さらしたゲイノー人がケイジからクビを出すブロイラーか、畜牛のような状態になって、通常では手に入らないし口にも入らない食材を一流の料理人が特別な「餌」に仕立て上げるのを、動物そのままに生唾を湧かせて食欲を露に表現するのを面白がるという、これまたマゾヒズムとサディズムの企画です。オウム事件で一度死んでも元気なTBSは、ドラマスペシャル!27歳の夏休み『理想の王子様が突然現れた……結婚?仕事?女の幸せに悩む負け犬寸前2人のちょっぴりせつないラブバトル!』という番組を放送していたようです。

■ここまで説明されて、二時間近い学芸会を堪能できる才能を持っている日本人に、黒澤だの小津だの山本……と「名画座」紹介しても、それは上質のヨーロッパ映画にしか観えないでしょうなあ。それは別の記事に譲りますが、最近のテレビは、やたらと「喰う」場面が多いのは確かです。ハリウッドの成金映画スターならばともかく、欧州の頑固で保守的な映画・舞台俳優に、意味も無く「これは美味しいから」と言ってカメラの前で物を食わせてみれば良い。美味しいお店の紹介であろうと、有名人の好物紹介番組であろうと、生々しく人が物を喰う風景を放送したいテレビ局は、本当はもっと露骨な映像を放送して商売したいのでしょうなあ。

■奇怪な事件が起こった時に、多くの知らない人が聞いたことも無い映像ソフトやゲーム作品の名前が取り沙汰されて、「教育上問題だ!」などと騒ぎますが、トンデモない強姦事件や猟奇的殺人事件を起こした犯人が、通常の無料放送番組の中から「刺激を受けた」番組を名指ししたらどうするのでしょう?せっかく、美しい日本語を視聴できるかと思ったら、とんでもない心配事が噴出してしまいました。世界でも珍しい、露骨な女性の下着CMだけではなく、魅力的な女性が商品を飲み食いする姿にも、重大な意味が有るという単純な事実を知っておいた方が良い時代になっています。これ以上の考察は、別の機会に……

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日本語を苛めないでおくれ 其の弐

2005-05-27 15:12:24 | 日本語
其の壱の続き。

■テレビやラジオのアナウンサーが平気で使う恥ずかしい日本語の代表例は、「なんですが」の連打に尽きます。


「はい、というわけで、次ぎの話題ナンデスガ、先週もお伝えしたンデスガ、昨日の夜ナンデスガ、また放火事件が起こったンデスガ、犯人の手掛かりナンデスガ、警察が必死で探しているンデスガ……」


少しばかり誇張はしていますが、こんな滅茶苦茶な日本語を天下に向って喋っている社員に給料を払ってはいけませんぞ!原稿を正確に読み上げられないような素人に、気の聞いたフリー・トークをさせようとしても、無理に決っているでしょうに!これから続々と新人アナウンサーが出て来ますから、御用とお急ぎでない方は、一分間に何回「ナンデスガ」を使うか、ちょっと注意して数えてみて下さい。その多さに腹が立ったら、あなたは立派な日本語使いです。

■ちょっとした歴史や科学に関連する話題になると、「ぜんぜん知らないんですが……」などと気楽に白状するような人も画面に出してはいけませんなあ。入社時には「教養テスト」を実施しているはずなのですが、教養の厚みがまったく感じられない人が随分と増えました。それが正直さと親しみを醸し出しているのならば、視聴者はますます馬鹿になってしまいます。幅広い教養と知識を持っていないという事は、意味も分からずに報道原稿を読み上げているという事ですから、必要な情報がまったく得られない薄っぺらな報道番組しか作れないわけですなあ。

■苦し紛れと余った時間の埋め草用に、宣伝番組としか思えない「情報提供コーナー」があちこちに挿入される悪癖(あくへき)がテレビ界に蔓延してるようですが、何を食っても「おいしい!」。小物や衣類を見れば「かわいい!」。何も言わずに、宣伝費を貰っている商品を時間枠いっぱいに大写ししておけば良いものを、若い娘さんが大口開けて物を喰らっている姿と、貧弱な言語表現を垂れ流すのはいい加減にして貰いたいものです。大きな事件や事故が起これば、嫌でも実況放送を見る必要が有る場合、見たくもない画像と聞きたくも無い暇つぶしの「タメグチ」お喋りを聞かされるのは、大変な苦痛です。問題は、この苦痛に多くの人々がすっかり慣れてしまっていることなのですが……。

■話言葉も絶望的ですが、書き言葉の基礎となる漢字の扱いに関しても呆(あき)れたニュースを見つけました。


「人名漢字表」間違いだらけ
国のホームページ「電子政府の総合窓口」から見ることができる人名用漢字の一覧表に、誤字や字体の違いが多数あったことがわかった。……一覧表の字を使って名前をつけたところ、名前には使えない字だったため出生届が受理されなかった例もあり、HPを管理する総務省は正しい字に直す作業を進めている。……規則改正で大幅に増えた新しい人名用漢字に総務省のパソコンが対応していなかったことや、パソコンの操作ミスが原因とみられる。


なつかしい森総理大臣の時代に「IT化政策」を推進したのではなかったでしょうか?お上がコンピュータの基本ソフトを扱えないような国が、どんなデジタル技術を開発するのでしょう?漢字の扱いに関しては、戦後の「当用漢字」と「常用漢字」を決める時にも、専門家の意見を一切聞かずに、二流・三流の御用学者を呼び集めて強引に決定した負債がありますし、人名漢字の制限と追加の決定も素人仕事でした。お役人は、高度な知識を持つ専門家が嫌いです。パソコンの扱いにしても、専門家を入れないから、こんな恥をかくのです。

■テレビ局が視聴率を追い回している間に日本語口語が傷つき、お役人の縄張り根性が優先される間に表記文字がボロボロにされてしまいます。そして、最も弁舌と文章に敏感でなければならない国会議員が奇怪な言語を吐き散らしているのなら、将来を担う幼い日本人は誰を手本にして日本語を身に付ければ良いのでしょう?苦労してやって来る留学生は、どうやって「使える日本語」を身に付ければ良いのでしょう?

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日本語を苛めないでおくれ 其の壱

2005-05-26 06:45:00 | 日本語
■4月から新社会人になった若者の中には、根強い人気の有るテレビ局に就職した人もいるでしょうが、御自分の職業に課せられている責任を自覚して欲しい、と溜息をつきながら思っております。映像を伴って速報性の高いテレビは、今でも報道の中心に君臨しています。「局アナ」と呼ぶそうですが、民放テレビのアナウンサーも皆様のNHKのアナウンサーも不特定多数の視聴者に向って「日本語」を読んだり語ったりする仕事の重みをよくよく自覚して頂きたいと切に願っております。

■先日のチャイナで起こった「反日暴動」に関連した報道番組の中で、日本に留学中のチャイナの学生に感想を聞いていた民放が有りました。語学学習に関しては「習うより慣れろ」が徹底している文法無き言語の中国語を母語とする人達は、語学留学に熱心です。運良く留学出来たら、必死で友人を作ってひたすら聞いて覚えて口真似をしながら、日本語の会話能力を身に付けます。立派な態度だと賞賛すべきことだと思います。しかし、今回の街頭インタヴューに応じてくれた留学生の発言には驚きました。聞くに堪えない軽薄な日本語を流暢に話していたからです。その留学生が交流している日本人がどんな人物なのかが良く分かるインタビューでしたから、聞いている内に強い同情心が湧いて来たのです。

■同年代の日本人と交流しながら、生の日本語を身に付けていることに薔薇色の将来を夢見ているに違いないその留学生は、折角(せっかく)身に付けたその「生の日本語」が障害となって、日本企業には就職できないでしょう。本当に可哀想です。海外からの留学生と交流する時に、自分が相手にとっては唯一の日本代表なのだ、という自覚が無い人物と仲良しになるのは悲劇です。その日本人自身が、就職活動を始めれば、突如として話し方を豹変させる事実を、留学生は知りません。豹変させられない者には内定が届かないという現実を知らずに、ノッペラボウの「タメグチ」を熱心に口真似している留学生は本当に可哀想です。


「……っていうかぁ。……みたいな感じでぇ。……じゃないでかぁ。」


「てにをは」に不自然なアクセントを置いて、語尾をだらしなく引っ張る話し方を熱心に覚えている留学生の姿は痛々しいものが有りますなあ。

■チャイナの奥地から、幸運にも日本に技術研修留学する機会を得て2年間過ごした経験を持つ人を知っています。彼は或る地方都市の小さな工場で働きながら日本語を独学したのでした。彼の教材は、恐ろしいことに「テレビ」でした。彼が熱心に覚えた日本語は、敬語も改まった口調も無い、ブッキラボウな「タメグチ」日本語でした。初対面から馴れ馴れしく話す流暢な日本語に驚いていると、彼は自分の「自然な日本語」に驚嘆していると誤解したらしく、得意になって日本で覚えた「流行語」も熱心に混ぜ込んで話し続けるのでした。留学生を壊してしまうテレビ放送ならば、幼い日本人も壊してしまうでしょう。金貸しと博打の宣伝を垂れ流しながら、「内輪の悪ふざけ」と「醜い喰う姿」ばかりを無責任に放送しているテレビを、日本語の先生と思って凝視している人が沢山いるのです。何と恐ろしいことでしょう。

■頼みもしない番組予告を執拗に流す皆様のNHKも、既に日本語文化に対する責任を放棄しています。親しみを演出しているつもりなのか、馴れ馴れしい「タメグチ」が蔓延する傾向がはっきりして来ましたなあ。今は、受信料を食い散らしている企業体質を糾弾することに話題が集中していますが、NHKに迫るべきは「日本語文化」に対する態度ではないでしょうか?国会でも横領問題を追及するセレモニーを催しましたが、文部科学省がNHKを追求すべき問題は別に有るのです。


読書週間初日の10月27日を「文字・活字文化の日」と定め、「言語力」を育てることを目指した法案が今月下旬にも国会に提出される見通しとなった。超党派の国会議員286人がつくる活字文化議員連盟が成立を目指す「文字・活字文化振興法案」。子供たちの学力低下が指摘される中、国語力の向上につなげる狙いもある。…………
「人類が蓄積してきた知識や知恵の継承や向上、健全な民主主義の発展には文字・活字文化は欠かせない」と明記。知的で豊かな国民生活や、活力ある社会の実現に寄与することをうたっている。さらに、読み書きにとどまらず、調べる力や伝える力を含む幅広い能力を表わす言葉として「言語力」との概念を規定。教職員の資質の向上、学校図書館の充実などを通じて、学校教育における言語力の涵養(かんよう)を図るよう、国や地方公共団体に求めている。
5月10日 朝日新聞記事より


■涙が出るくらい有り難い「御上の御威光」を感じますが、議員の先生方の日本語能力の向上がすっぽり抜けているのはどうしたわけでしょう?難問山積の日本の政治状況ですから、テレビでも「激論!」だの「討論」だのが企画されることが増えました。そこで語られる議員先生の奇怪な日本語を誰も問題にしないのは面妖ですなあ。個人的に「迷子のワタシ」と名付けているのですが、議員先生が所見を述べ始めると、唐突に「ワタシは」が挿入されるのです。一体、どこで完結するのかと心配していると、「述語」が無いまま「なんです。」で終ってしまうことが非常に多いのですよ。

■「○○の問題に関して、ワタシは△△と考えているので、ワタシは責任をもって×××という法案を提出します。」という具合に話す議員先生が余りいないようです。


「郵政民営化というのはですね。ワタシは、今の政府案ではユニバーサル・サービスの維持は不可能なんです。もう一つ言うとですね。ワタシはですね、ワタシは、民営化されれば、どうしても利益優先になって収益が上がらない地方が切り捨てられることは目に見えているんです。」


余り気の利いた例ではありませんが、こんな「迷子のワタシ」を強引に挿入して放置してしまう「言語力」をどうにかするべきでしょうなあ。本当は、「この○○県第△区の××は」と言いたいのでしょうが、文法的に破綻している発言は、論旨不明なだけでなく、無責任な放言で終ってしまうのです。

其の弐に続く。

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日本語で言ってみな!

2005-03-12 12:32:40 | 日本語
■これは正確な知識ではないのですが、「浅草キッド」という二人組の芸人がいます。美空ひばりさんの「東京キッド」のパロディのつもりなだと思いますが、この二人組が深夜のテレビ番組に出演して結構面白いインタヴューをしてくれています。彼の芸自体は見た事が無いのですが、注目すべきは二人の芸名です。
 一人は「水道橋博士」とテロップが出ていますから、名作鉄腕アトムに出て来る尊敬すべき「御茶ノ水博士」のパロディなのでしょう。そして、問題なのはもう一人の方で、「玉袋筋太郎(たまぶくろ すじたろう)」と言うらしいのです。沖縄には島袋というちゃんとした苗字が有りますから、音はそれに似せているようですが、こうして五文字並べると、一つの意思を感じませんか?この名付け親は、ビートたけしさんだったと記憶していますが、間違っていたら御免なさい。
 ビートたけしさんは、自分の弟子達に変な芸名を付けていますから、その一連の流れでこの芸名も出て来たのではないか、と推測されます。「そのまんま東」は面倒臭かったから、「ガダルカナルたか」は同じ音を並べただけでしょうが、「グレート義太夫」は以前有名だった「グレート歌舞伎」という米国帰りのプロレスラーのパロディでしょう。

■さて、玉袋筋太郎に話を戻します。最初の三文字を見れば、漢字の意味を知っている人なら、ひとつの映像が脳裏に浮かぶはずです。まあ、最近珍しくなった「汚れ無き処女」やら「深窓の令嬢」の皆さんには、さっぱり分からないかも知れませんが、……そう言えば、最近「カマトト」という言葉も聞かなくなりました。何故でしょう?……大方の日本国民は、多分同じ映像を思い浮かべるでしょう。チャイナの識字階層の人たちが、同じ映像を共有するかどうかは調べていないので分かりません。お暇な方は、新宿駅辺りを大挙して歩き回っている方々に聞いてみてください。
 ビートたけしさんは、NHKに出演しません。カンヌ映画祭のグランプリを取った時には、ニュース映像として出ていたかも知れませんが、基本的にNHKには出ないようです。そして、そのビートたけしさんに芸名を付けてもらった「玉袋筋太郎」もNHKには出た事が無いようです。本人の方で、主演しない特別な理由が有るのかも知れませんが、おそらく、この芸名ならばNHKは出演させない事を予め見越して名乗っている節が濃厚ですから、NHK側としては取り立てて「名前が悪いから」と理由を公表して出演依頼をしないという大人気ない事はしないようです。
 もしも、玉袋筋太郎が大人気を博して、紅白歌合戦の応援団長にでもならないと、視聴者の収まりが付かないような状況になったら大変でしょうが、今のところ、その心配は無いのでNHKも安心しているでしょう。
 人権擁護の運動家や差別問題に取り組んでいる皆さんから、「玉袋筋太郎を差別しないで出演させろ!」というNHKに対する抗議運動も起こっていません。それは、本人が初めからNHKには出演できない名前自体を売り物にしていると、誰にでも分かるからです。本人の意思と自由を尊重すれば、余計な世話を焼く必要はないわけです。

■あまり歌番組など観ない者としては、世の中の音楽文化をあれこれ論じても実のある話は出来ないのですが、少々、外来語と日本語の関係について、気になることが偶々音楽業界に起きているので、駄文を書いてみます。


1960年代、ビートルズの長髪
1970年代、T・レックスの女装、グラム・ロック
1980年代、セックス・ピストルズの「パンク」 
1990年代、停滞と反動期


 素人の目に映った若者文化の代表格だったロックの変遷は、英国では上のような流れでした。専門家や熱烈なロック・ファンの皆さんからは、激烈な抗議が起こりそうですが、日本が戦後のロカビリー時代から英米の大衆音楽文化を模倣しながら吸収して来た流れを追うと、英国のこうした変化が目に付くということで、御了承下さい。

■昨年の紅白歌合戦は、NHK自体の不祥事が絡んで、受信料支払い拒否の比率と視聴率が連動するかが注目されたり、出場する歌手の選定方法に関する議論が起こったりで、日本の音楽歌謡文化がどうなっているのかは、ほとんど問題にされなかったようです。
 暴れん坊将軍の『マツケン・サンバ』だけが、後の歴史に記録されるぐらいでしょうか。個人的には、紅白歌合戦に特別な感慨は持ちませんが、既に権威と伝統を持つに至っている催し物ですから、時代の変化を知る材料として若干の興味は覚えます。

■1960年代の若者文化は、ヴェトナム戦争に対する反戦運動を核として展開しました。さまざま表現方法を取って平和を求めた若者達の中に、徴兵拒否を象徴する「長髪」が広まって行きました。それがインドの長髪行者や、古代ギリシアのヒッピアス伝説とも結び付いて、ビートルズもその流れに乗って変貌し続けました。しかし、この長髪文化が日本に入ると、単に「男が美容室に入るようになった」だけの変化しか起こしませんでした。
 1970年代の女装ロックは、男女差別に対する抗議の意味を持つと同時に、英国流の紳士文化を根底から破壊しようとする運動でもあったのでしょう。この文化も日本に入ると急に薄められて、沢田研二さんの化粧が少し濃くなったぐらいの変化しか起こらなかったようです。伝統的な歌舞伎という世界に冠たる女装芸術を持っている日本ですから、どんなに頑張ってもロックは歌舞伎に勝てる文化にはなれないという限界を証明しただけでした。
 1980年代は、見た目の奇抜さは出尽くしたようで、特に抜きん出た時代の象徴となるような人物は現れなかったような気がしますが、その中で何よりもグループの名前が過激だった「セックス・ピストルズ」という社会に対して自らの退路を断ったような、破れかぶれの連中が彗星のように出現して、メンバーの一人が破滅的な事故死を遂げて、その名前が伝説となって残りました。
 そして、1990年代となると、大御所のエリック・クラプトンが静かに弾き語りなどを始めて、一種の反動期に入った観が有りました。

■バブルのお祭り騒ぎの後の日本は、若者文化も中心点を見つけられずに漂流していたように思えますが、「Jポップ」という名称が定着して、やっと英米の模倣を卒業したと言える時期だったのかも知れませんが、特に財産となるような作品が生み出されたのかどうかは疑問です。CDの購買層を中学生と高校生に移した音楽業界は、飽きっぽくて移り気な子供達に振り回され始めた時代に突入したと言えるでしょうか。
 目まぐるしく交代する「今週のトップ・テン」は、年末のレコード大賞や紅白歌合戦を大混乱させることになりました。大半の国民が口づさんだ一年を象徴する作品は皆無となって、巨大な購買層となった十代の子供達は、何も残そうとはしませんから、その需要に応じ続ける業界は、只管(ひたすら)新曲を発表し続けましたから、新品なのか中古品なのか区別の付かない商品が市場に氾濫してしまい。収拾が付かない状態になったのもこの時期でした。

■本物の社会性を持った英国のロック歌手達の挙動は、強固な身分制社会に対する抗議と叛乱を意図しています。1980年代に巻き起こった「パンク」ブームは、実際に緊張感が有って、演奏会場周辺には警備の警察官が出動することが珍しくなかったのです。偶々、英国滞在中に、会場の前を通った経験が有りますが、金色や紫色に染めた髪を思い思いに固めて尖らせた若者は、素肌に鋲(びょう)を付けた黒い皮ジャンパーを羽織っていましたが、擦れ違う度に強烈な悪臭が鼻を衝いたのを覚えています。貧しさと怒りがない交ぜになったエネルギーを吸い集めた会場は、どこでも異様な熱気に包まれるのは当然で、反社会的な歌詞と攻撃的な演奏に興奮した連中が暴動騒ぎを起こすのは簡単だったのです。
 ですから、日本でもパンクが流行、との報道を目にしても、「大人しくて綺麗なもんだなあ」と微笑ましくも思ったものです。世界一の入浴文化を持ち、江戸時代には巨大に結い上げた髪に、あれこれと髪飾りを衝き立てていた歴史を持っていますから、日本で髪の毛を固めて角のように立てて見せてても、三本ならば鉄腕アトムのようですし、余り長いと玄関に入るのに不便であろうに、と少し心配になるぐらいで、危険性はまったく感じられませんでした。手間と金が掛かる割には、人を驚かせる効果が少ないと判断したのか、短期間で和製パンクは消滅したようです。

■閑話休題。ここからが本論になります。最近、新聞のテレビ欄を見ておりまして、NHKの深夜枠に「ポルノ」という文字を見つけて、ぎょっとする経験をしました。とうとう、来るべき時がやって来たのか?と数秒間、感慨に浸(ひた)ったのですが、番組名から察すると、歌番組のようなので落ち着いて少ない記憶を辿りましたら、確か去年の紅白歌合戦に出場したグループの中に、そんな名前が有ったような気がして来ました。
 既に、音楽番組は視聴者の年齢による住み分けが完了していますから、中高生に絶大な人気を誇って、年間数億円の売り上げを記録する歌手の名前も曲もぜんぜん知らない中年と老年人口は増え続けていますから、特に時代に取り残されたような絶望感には襲われません。
 「児童ポルノ規制法」が取り沙汰されていますが、多くの日本人は「ポルノ」という言葉の意味を正確には知らないのではないでしょうか?「ポルノ映画」「日活ロマン・ポルノ」「ポルノ雑誌」「ポルノ写真」等、マスコミも愛用したこの単語は、既に外来語として定着していますが、1980年代に急速に普及した家庭用ビデオの販売を文字通り「裏」で支えた不埒なビデオ作品を英米と同じ「ポルノ・ビデオ」とは呼ばずに、「アダルト・ビデオ」という和製英語を考案した知恵者が居たようです。省略してAVなどと書く雑誌も出現して、Audio and Visual(音響と映像)の略語と区別が付かなくなってしまいました。少し遅れて、女子高校生を中心とした未成年者の売春が問題となりましたが、その時も「援助交際」という意味不明の新語が考案されました。この単語も、マスコミ関係者は平然と取り入れて書いたり放送したりし続けました。「高校生売春」或いは「未成年者売春」が正確な表現です。
 昔から、忌み嫌う単語を別の単語に言い換える文化を日本語は持っています。結婚式の祝辞で、「切れる」「分かれる」「終る」を禁句として、「ケーキをカットする」とか「この辺でお開き」とか言い替えないと大変なことになります。便所(これ自体が外来語でしたが…)を「川屋」「雪隠」「はばかり」「遠方」、「山」なんていうナゾナゾのような言い換えも有ったようです。山には草木が生えているので、「臭き」が有る便所を意味するというわけです。

■皆様のNHKとしては、中高生に絶大な支持を得ている歌手を出演させるのは、義務なのだと強弁するのでしょうが、「ポルノグラフィティ」という名前を自分達のグループ名にした若者達は、単に奇抜な印象を求めただけなのかも知れませんが、彼等が意識しようとしまいと、この名前に決めた瞬間に、社会に対して一定の意思表示をした事になります。おそらく、彼等の方ではNHKに出演する意思は初めから無かったのではないでしょうか?それをNHKが、人気と売上高だけで『紅白歌合』に出場させ、その名前を放送中に司会者が何度も口にし、当然、画面にはカタカナ表記でグループ名を示したのでしょう。
 実際の番組では英語表記も有ったのかも知れませんが、それならば尚更(なおさら)視聴者を馬鹿にしています。実際に観ていませんが、まさか、


「では、次の出場者はポルノグラフィティの皆さんでーす。拍手でお迎え下さい。ようこそいらっしゃいました。ポルノグラフィティの皆さんは……なんですか?なるほど、ではポルノグラフィティとしましては今年はどんな年だったのでしょうか?ああ、そうでしょうねえ。それで、今夜、ポルノグラフィティの皆さんが歌って下さるのは……。では、お願いしましょう。ポルノグラフィティの皆さんで、歌は……です。」などとこの名前を連呼したのではあるまいな? そして、御丁寧にも
「ありがとうございました。ポルノグラフィティの皆さんでした。大変な人気ですね。今やポルノグラフィティは……。更なるポルノグラフィティの活躍を期待しましょう。」


などと歌の後にも連呼してのではあるまいな?どうせ放送するのならば、高齢者を中心としてカタカナ語の意味を知らない視聴者のために、

「ご存じない方もいらっしゃるかと思いますので、ちょっと説明しておきますと、ポルノグラフィティというのはですね。日本語で言いますと、「マグワイ落書き」今風に言いますと「エッチな落書き」。まあ「セックスの落書き」とか「スケベな落書き」の方が分かり易いですかね。ええ、九州地方の視聴者には「ボボ落書き」、四国では……、東京では「オマンコ落書き」でしょうかねえ。新潟ですと「マンジョコ落書き」で、東北の方ですと「ヘッペ落書き」なんてことになりますかね。皆様、お分かりになったでしょうか?はい、名前の意味もはっきり分かったところで、歌っていただきましょうか。「マグワイ落書き」の皆さんで、「愛の……」です。どうぞ。」

これくらいのサービス精神が無ければいけません。

■「ポルノ」はラテン語で、穢れた物を意味して特に売春婦を指して使われた言葉で、そのまま欧米に伝わり現在も変わらぬ綴りと発音で通用している。取り立てて性交のみを描写する小説や、性交や性器を撮影して商品化する場合にも、この単語が使われている。
 彼の地では、真面目なニュース番組か文化批評の番組の中でしか使えない単語で、その時も慎重に真剣な表情と物言いを維持しなければならない。映像作品として、性交も性器も鮮明に映し出す商品は以前から有るけれど、厳しく制限された特定の場所の外に出す事は禁じられている。それらの商品名は全て「ポルノ・…」である。公共の場所や電波、一般家庭に持ち込む事も厳しく禁じられていて、インターネット上でも摘発と処罰が続いている。
 伝統的に、キリスト教諸国に比べれば性に関して大らかな態度を持ち続けた日本文化ではあるが、時と場合の区別が無かったわけではありません。恋愛感情を直截な表現で歌ったり物語にしたのは確かだが、夜と昼の区別、各種のタブーは守られた上での表現であった事は忘れてはいけません。

■視聴率と人気を優先して「ポルノグラフィティ」を解禁したからには、これから更に露骨なグループ名を持った出演者も拒否できなくなってしまった。外国語さえ使えばどんな不道徳で露骨な意味を持った名称でも使用が許される。日本語に責任を持たないと自ら1980年代に表明して以来、NHKのアナウンサーの劣化は酷過ぎる。民放に負けずに台本無しのフリー・トーク番組を垂れ流しても、視聴率は絶対に上がらない。そんな番組ならば、誰でも民放を観るに決っている。民放が得意の「ピー」音が連続する俗悪番組をNHKも製作する日も近いのかも知れない。
「本日のゲストは、玉袋筋太郎さんです。」とNHKが放送する時も近いぞ。頑張れ、筋太郎!

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犯罪と日本語を考える

2005-03-02 21:07:09 | 日本語
■2月と3月は、年度末ということで、お役所や企業からいろいろな数字が発表されます。最近は姿を見なくなってしまいましたが、『気配りのすすめ』等のベスト・セラーも書いた鈴木健二という、今はすっかり悪名高くなってしまったNHKの元アナウンサーがいます。映画監督の鈴木清順さんの弟さんですが、1981年に始まった「面白ゼミナール」という番組は大人気で、その後のテレビ番組にも多大な影響を残しました。
 アシスタントをしていた三人の娘さんが、後にキャンディースになってしまったのも話題ですが、賞金で参加者を釣る下品なスタイルを取らない情報重視のクイズ番組の原型となったのがこの番組でした。ビートたけしさんが、フジテレビ出身のアナウンサーを過労死させた「平成教育委員会」などは、完全なパクリ企画です。
 本家の「面白ゼミナール」は小学校教科書からの出題といいながら、矢鱈と詳しい数値データが出て来る番組で、「本番中に台本を手に持っているアナウンサーにギャラは要らない」と豪語する鈴木御大でしたから、恐ろしく桁数の大きな数値も、総て暗記して披露するというプロの技が話題となったものです。彼は或るインタヴューに答えてこう言いました。「数字には必ず意味が有ります。その意味を考えればどんなに大きな数字でも覚えられます。」と。
数字には意味が有るというのは重大な指摘です。


朝日新聞 2月25日の記事より
 違法に稼いだ収益を資金洗浄したとして組織手犯罪処罰法で摘発された事件は、昨年1年間に65件あり、そのうち40件が暴力団らによるもの…… ヤミ金融や振り込めさぎと見られる取引に関する情報は6万件を超えた。……
 逮捕や書類送検された来日外国人は前年より約2千人増の約2万2千人にのぼり、過去最高……
 窃盗や強盗、詐欺などの財産犯で摘発された事件の総被害額は約65億1千万円にのぼった。警視庁は「組織化が進み、暴力団と役割分担するケースも目立つ」……。来日外国人全体の摘発件数も前年より16%増の約4万7千件で過去最多だった。国籍別の事件件数は中国36%が最も多く、トルコ(16%)、ブラジル(15%)、韓国(7%)……
 インターネットのオークションを利用した詐欺などの事件は前年より44件増の588件……。サイバー犯罪は約13%増の約2千件に上り、不正アクセス禁止法が施行された00年以降で最多。
 代金を振り込んでも品物が届かない詐欺が259件、海賊版DVD販売などの著作権法違反が105件、偽ブランド品販売などの商標違反が65件、猥褻物、頒布が62件、銃刀法違反が24件……。


■いかにも外国人が悪さばかりしているような数字が並んでいますが、良く読むと、振り込め詐欺の被害額が何故か明記されていない記事です。一説には200億円を超えているといわれる劇団型電話詐欺と、ネット利用料金詐欺の規模に比べると、外国人犯罪による被害額は意外と小さいようにも見えて来ませんかな?
 突然、家に押し入って来た不良外国人がガムテープで住人を縛り上げ、片言の日本語で、「カネ、カネ、ドコ、ドコ」と脅すのは、勿論、トンデモナイ悪行ですが、彼等は逆襲されて負傷したり、最悪の場合に返り討ちに遭って殺される危険を冒して犯罪を行っているとも言えるわけで、大韓民国の山の中にはスリ専門の訓練所が有って、日夜厳しい訓練に明け暮れているとの情報も有りました。
 それに引き換え、どこぞのカラオケ屋のソファに寝転んで、手当たり次第に電話を掛けている屑のような若者の姿を想像すると、悪事をするのにも、もう少し努力をしろ、と言いたくなりますなあ。中には、賢い暴力団に「授業料」まで払って調教された揚げ句にノルマを課せられてしまう、絵に描いたような間抜けもこの業界?にはいるそうですから、救いようの無い馬鹿者達でしょう。

■オレオレ詐欺、何だかラテン系の音感が有る名称でしたが、お上が発案した「振り込め詐欺」という味も素っ気も無い名称に変えられたこの犯罪は、被害者の顔を見ないで犯行に及べる所が問題なのです。プロの詐欺師は、獲物となる相手をじっと見詰めて嘘八百を信じ込ませる技術を磨きます。
 映画化もされた『白昼の死角』などの映画もありますし、ハリウッドではリメイクもされた『俺たちは天使じゃない』という詐欺映画の名作も有ります。映画といえば、天才オーソン・ウェルズの遺作が『フェイク(偽物)』でしたから、映画という産業自体が詐欺なのでしょう。楽しめる詐欺には、誰もが喜んでお金を払いますが、下手糞な詐欺作品には「木戸銭(きどせん)返せえ!」の怒号で応じたものでした。
 頼みもしないのに、電話で下手糞なラジオ・ドラマのような素人芝居をするのが「振り込め詐欺」です。テレビ報道などで公開される録音を聴くと、奇妙なことに気が付きます。
「皆、口調・アクセントが同じ」なのです。詐欺要請学校の存在が報道されたので、プロトタイプ(原型・お手本)が有ることが判明しました。それが名門「中野学校」の名を借りていたのには苦笑しましたが、おそらくは、有名な詐欺師が一堂に会したと言われる「豊田商事」あたりに詐欺口調の原型が有るのでしょう。

■どこか、ファミレスやコンビニで耳にする平らなアクセントと、表情の無い発生方法に酷似(こくじ)した口調ですから、80年代に東日本に根付いた「リクルート社製マニュアル日本語」に通じている者の関与も疑われます。徐々に、この「新・標準日本語口語」が西にも広がっているらしいのですが、まだ完全に「関が原」を越えてはいない事が判明しました。被害の少なさを誇って「大阪人は騙されない」と、鼻息も荒く公共広告にまで登場した関西のオバチャンですが、金銭感覚の違いではなく、詐欺集団が西の日本語を操れない事が理由のようです。
 西川のりお、という元漫才師がいまして、昔は名作『じゃりん子チエ』の鉄役が見事でした。漫才自体は喧しいだけで、大して面白くないので、転職を考えたらしく、投資話に乗せられて「うどん屋チェーン」で大金を失ったようです。しかし、彼には素晴らしい名人芸が有りました。
 それは、関東人が喋る「下手な関西弁」の真似です。大ヒット・シリーズとなった映画『極道の妻たち』で、岩下志麻さんが熱演する関西ヤクザの姉さん、ドスを効かせた啖呵(たんか)が人気でしたが、これが西日本では噴飯(ふんぱん)もののアクセントらしく、少し大袈裟に西川のりおが真似すると、確かに聞き覚えの有る「関東風関西弁」なのでした。その表現力には脱帽しました。
 それほど、アクセントに敏感な関西人を相手にして、親族に成り済ますのは至難の技です。残念ながら、関東以北は高度成長期以来、東京へと巨大な人口移動が有ったために、地元の方言を使えない者が親族の中に多数含まれてしまっているので、被害者が続出しています。
 どうやら、「振り込め詐欺」の被害者が多い地域というのは、方言力が弱っている場所と一致するようです。東京都内でも、生粋の江戸下町言葉を使う一族や、同じように山の手言葉を守っている家族には被害は出ないのではなかろうか、と考えられます。方言を失った馬鹿者が、方言を失った家族を食い物にする、実に悲しく卑劣な犯罪が流行したものですなあ。

■ネット詐欺というのも、どこかのワンルーム・マンション(カタカナにすると上等に聞こえますが、要するに鉄筋性の長屋)に暮らすネット中毒の若者が、事の重大性も考えずに、デジタル・カメラとキーボード操作だけで、詐欺商売をしている図も、余り逞(たくま)しさを感じられない不健康さが有ります。
 電話機を使った肉声も、サーバーを通る画面上の文字も、日本語ですから、不良外国人が振り回す刃物よりも、碌(ろく)な読み書きも出来ない不良日本人が操る「日本語」の方が、遥かに危険である事が分かります。言葉は性善説を前提にして生まれたのですが、チャイナには、「文字が生まれてから詐欺師が増えた」という格言が有るそうですから、言葉は生まれて直ぐに性悪説を考える種を落としていたようです。
それでも、日常生活を支えているのは、性善説を共有する言語活動ですから、「嘘をつくな」が幼児教育の基本に置かれるのです。昔は、あの世で待ち構えている閻魔(えんま)様が持っている巨大なヤットコが大きな抑止力となっていたり、「武士に二言は無い」という痩せ我慢の美学が広まっていたので、卑怯者と嘘つきは、人間扱いされない暗黙のルールが有ったようです。
最近、「嘘をつくな」と熱心に説く大人が減ったような気がしませんか?「騙される奴が悪い」という風潮が広まってしまった社会は、殺伐(さつばつ)として楽しくない場所になり、「信じる奴が間抜けなのだ」と皆が考える時代は、「正直者が馬鹿を見る」時代ですから、魅力的な人物が現れない時代でもあります。それはとても寂しい事です。
 毎日耳にしたり目にする「メディア」という言葉が有りますが、片仮名でもあるので、案外意味を知らない日本人が多いようです。「媒体」と訳されたり、もっと丁寧に「情報媒体」とも訳されましたが、日本人の悪い癖(くせ)で「知ったかぶり」の誤用と乱用が増えてしまうので注意しましょう。
 
■生物は原生動物の段階から、体の動きや特定の物質を分泌する事でコミュニケーションを取っています。人間が人間らしくなってからは、猿から受け継いだ「叫び声」や「唸り声」で感情をしている内に、直立歩行が上手になると猿よりも首が長くなって気管を器用に使って、猿には出せないいろいろな声が出せるようになったものですから、「言葉」を作りました。
 大地を離れた手で道具を持てましたから、例えば、棒や長い骨を振り上げれば「怒り」を表し、その先端を相手に向ければ「殺意」も表現出来ました。大き目の石を握って頭上に構えれば、喧嘩の前触れだと、年少組みの幼稚園児も理解します。それやこれやの動作が複雑な意味を持ち始めて文化が生まれます。この原初の文化が地球上のあちこちで創られたので、今でも動作が持っている意味は文化ごとに違います。指の形や腕の動きが、思い掛けない誤解の元になるような事にもなりました。例えば、親指と人差し指で丸を作ったら「お金」の意味だと考えるのは日本人だけで、この動作が露骨に性交を意味する場所が案外に多いので、突然殴られる被害を受けた日本人が結構多いのです。

■さて、人間は遠くの仲間ともコミュニケーションしたくなって、大声を上げるだけではなく、発声方法にも工夫をしました。砂漠の民が甲高い声を出しながら口中の舌先を左右に振ったり、アメリカ原住民が掌で発生音を細かく区切ったりするのも、遠くに声を届ける工夫です。勿論、敵に対する威嚇の効果も有ります。
 火を焚いて煙を利用することから始まった地平線の向こう側との交信は、手紙となり、伝書鳩、電信、無線と際限も無く相手との距離を縮めました。
 古代ギリシアで発達した「演説技術」が、ローマでは教会の説教になり、各種の広告文化の元になったようですが、今では「マスコミ」という無責任で危険な職業になってしまいました。この一連の流れは、相手を特定しない情報・言葉を送るので、非常に危険なのです。本家のギリシアでも、下手な演説をしたばかりに石を投げられて負傷したり、最悪の場合には死刑に処せられてしまいました。一番有名な演説は『ソクラテスの弁明』でしょう。
 そのソクラテスは「真理」を語って政治的陰謀の犠牲者になったのですが、「虚偽」を喋り散らして金儲けする輩(やから)も古代から活躍しています。今では、その子孫達が朝から晩まで、テレビという迷惑千万な箱の中から愚にも付かない戯言(たわごと)を流布(るふ)させています。中には、貴重な情報源となる良心的な番組も有るのですが、これを探すのが大変に面倒です。
 相手の顔が見えない、という一事が人間の判断力や倫理性を狂わせてしまいます。最近、永ろくすけさんが、朝日新聞のインタヴューで言っておりましたが、「或る外国の友人に、「日本のテレビは悪ふざけと物を食ってばかりいる」と言われて返す言葉が無かった」そうです。実に良く日本のテレビを観ている人の指摘だと思いませんか?

■時報代わりに受信している朝の番組、既に死語となった「一家団欒」を偽造するために受信する夕食時の番組、どちらも実に良く「喰ってます」なあ。年頃の娘さんが、大口を開けてぱくぱくもぐもぐと、彼女達は「仕事」だと言いくるめられて羞恥心を必死で抑えているのではなさそうです。視聴率1%が200万人に当たるそうですから、5%も有れば1000万人がその「喰いっぷり」を凝視している事になります。仮に、満席の東京ドーム5万人を前にして、ピッチャーズ・マウンドに置いたテーブルで、あの女性は何かを食えるのでしょうか?勿論、巨大な液晶画面で大写しもしてです。
 そんなに大掛かりではなくとも、数人の会食の席で、彼女以外の全員が食事の手を止めて彼女の口元を凝視している時に、あの女性は平然と大口開けて喰えるのでしょうか?もしも、その時に羞恥心が噴き出すのならば、彼女自身もテレビ局も「マス・メディア」という存在を忘れ去っていることになります。他人の目を気にしないその姿は、視聴者の行動も変えてしまっているような気がします。
  化粧室ではない電車や店内で、奇怪な表情をしながら化粧をする女性達を目にする度に、彼女達の祖母の代までは、「恥ずかしくて出来なかった事」が今では平気になっている時代の変化を考えてしまいます。人前で平気で化粧をし、飲食の出来る人々が子を持つとしたら、と空想が広がって、その内どこかの週刊誌の記事に、「最近では、女性が電車内で生理用品を………。」などという話が載るのではなかろうか、と心配になってしまいます。これが決して冗談では無いと思えるテレビCMを目にする機会が有りました。
 女性の悩みと言われる便秘の薬、便器に腰掛けたうら若き女性が、唸っています。ドアの外の廊下を真っ黒な遮光土偶が歩いて来る。そして、その女性は「脱糞の瞬間」を演じて、「ホッ」などと言います。次の段階は、出た物体を画面に映すしか無いのではなかろうか?

■言葉自体には、時と場所を選んで決定する能力も機能も有りません。それを決めるのは、言葉を使う者の美意識と判断力です。そして、その基盤が伝統と文化です。これは個人の力で勝手に変更は出来ません。しかし、ウッカリ者が毎日犯す失敗が積み重なっていくと、気が付いた時には大きなものを失ってしまった後の祭ということになります。片方では「個性」「自由」と喚(わめ)き散らしながら、いざとなると「みんながやってる」「流行っている」「テレビで観た」と、個性の欠片も無い無責任な言動をする者が年齢に関係なく大増殖してしまった責任の多くは、「マスコミ」に有ります。
 言葉で稼ぐ商売なのに、その商売道具を粗末に扱い過ぎる姿勢を反省しないと、大きな揺り戻しが来た時に対応不能になりますぞ。
「人を見たら泥棒と思え」「電話が鳴ったら詐欺と思え」「テレビを観たら、悪ふざけか広告宣伝と思え」……言葉を信じられない社会では、きっと言葉が衰え続けるのでしょう。
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OH! 我らが「南セントレア市」よ!

2005-03-02 20:53:01 | 日本語
■「それでも日本人か?!」を代表とする非難が集まって困っている気の好さそうな市長さん、どこかのテレビ取材に応じて用意された紙板に「南セントレヤ」と書いて自分で笑った好人物。「日本語らしくない」「日本の地名に相応(ふさわ)しくない」そして、「それでも日本軍人か、ではなく日本人か?」と匿名電話をする楽しい人たち。皆が「日本」を遊んでいます。この騒動は、きっと国土交通省とそれに寄生する族議員が仕掛けた罠でしょう。この空騒ぎが起こるまで、伊勢湾の東端を埋め立てて建設した空港の名前が「セントレア」だと、一体誰が知っていてのでしょうか? 降って湧いたような「南セントレア市」騒動から、では、その北には何が有るのかいなあ?と新聞を読んだりテレビを観た人達は考える。そこで初めて、中部日本空港のような地味な名前で叩かれ放題になる危機を脱して、「皆様ご存知のセントレア空港」のお目見えです。きっと、あの田舎市長は大出世しますよ。

■「セントレア」と聞けば、「レア」という名の聖人が知多半島の歴史の中にいたのだろう、と思う。長崎大殉教以上の、悲しい隠れキリシタン伝説が、あの知多半島にも有ったのか、と自分の不勉強を反省する。ところが、よく聞いてみれば、これは立派な日本語だと言うじゃありませんか!
 central airport の何処をどうすると、「セントレア」と言う名称になるのか、英米人にも分からない。彼等は、それを純粋な日本語だと思うでしょう。英語で考える外国人にも正体が分からない。カタカナで考える日本人にも分からない。では、誰がこんな名称を喜んでいるのか?「グリーンピア」だの「メルク・パルク」等の奇怪な名称を喜ぶ漢族ならぬ「官族」の人達です。
 戦争に負けるまでは、日本のお役人は時代の最先端、トラック・コースの二周も三周も先行するエリートでしたが、戦争に負けて無様な生き残り合戦をやってしまってからは、もう駄目です。GHQと直接渡り合った裏と表の武勇伝を持っている世代は、「言わぬが華よ」と、カッコ良く時代の舞台を去りましたが、その後の学生運動崩れや、バブルが羨(うらや)ましい世代になったら、もう駄目です。

■裏金流用天下り、恩給割り増しヤミ保障、納税者に負けるな!の号令の下、一致団結血判同盟。税収予算は我らが収益!二重帳簿に税逃れ、コクドに負けるな!ヤクザの上を行け!飼いならした田舎議員の使い時!法律遵守、民主政治、ならば「美味しい法律」作りゃ良い、よいよい。と歌ったかどうかは知らないけれど、詐欺同然の法律さえ通せば、後は公明正大清廉潔白、厚顔無恥の鉄壁の守り。絶対防衛圏の構築が終れば、すぐさまお里が知れるネーミング。貯めに貯めた外務省の機密費、時代を遡(さかのぼ)れば、日露戦争の勝利を導いた明石元次郎大佐の革命工作、平成の世になれば、その名も「アケミボタン」ちゃん。月給取りが競馬馬を買うとは、余程使い先に困った揚げ句の話です。
 セントレアとアケミボタン、外務省は他の公務員採用試験とは別枠の外交官試験を実施て、自らの特殊性を誇示していたお役所ですから、ネーミングの感覚も独特のズレ方をしておるようです。それでも、外し方には共通性が有るような気がします。

■ここからが本題、「何を今更、セントレア」。
日本や日本語を振り回して、「南セントレア市」を怒ったり笑ったりする人々よ。今の小学校低学年から、幼稚園、更にその下の子供らの名前をよくよくお調べになった方が宜しい。「セント」チャンも「レア」チャンも元気に日本で暮らしていますぞ。
 「南」チャンも元気です。バブル時代に流行った、奇妙なほど汗と無縁な野球漫画のヒロインの名前が流用されたようです。しかし、さすがに「市」ちゃんはいないようです。織田信長ブームが有ったから、「お市の方」に肖(あやか)ろうとする女親が居るかと思えば、自分の娘に「いち」と名付けたことは無いようです。
 というわけで、「南」「セント」「レア」が読みにくいだの、日本語らしくないだのと、何を今更騒いでいるのやら、さっぱり気持ちが分かりません。
 自分の子供にアニメの登場人物の名前を付けるのは狂気の沙汰なのか?戦争中に「勝つ」だの「誉(ほまれ)」だのを名前に使ったのが悪かったのか?それは誰にも判断できないことなのです。

■ただ、白粉・香水で作り上げたお姉さん達が、赤い灯青い灯の下で使っている「源氏名」を、我が子に付ける感覚は理解し辛いものがあります。少子高齢化の時代ですから、苦労して生んで育てる我が子に、はっきり言えば「色香で売れる」時限付き名称を付けるのは、何だか我が子の早死にを願っているような、嫌な感じを受けてしまいます。
 今もモンゴル辺りには残っているようですが、生まれた子供を魔物から守る為に、酷(ひど)い名前を付ける風習が日本にもありました。「捨」だの「与」だのの漢字を付けて、魔物がさらって行く気を無くすように親は工夫したのです。
 その逆に、十代ぐらいまでは、「可愛い名前ねえ」と周囲に受ける名前でも、(おそらく実現しないでしょうが)年金手帳を貰う頃になって、お役所や郵便局のカウンターで大声で呼ばれると返事がし辛いようなキャピピャピした名前を付けられると、きっと苦労するのではないかなあ、と他人事ながら考えてしまいます。
 人の名前というのも実に厄介(やっかい)なもので、昔は元服・成人の段階で改名し、それ以外にも理由が有ればどしどし改名したから良かったのですが、国が戸籍を完全に掌握してしまってからは、通称も俗称も禁じられ、命名は一生に一回という無茶なことになったものですから、親のプレッシャーは相当に大きくなってしまいました。

■一時「悪魔」君騒動というのが有りました。「あ」と「ま」のア段の音が二つ入っているこの名前は、漢字さえ見なければ聴き易いものです。しかし、二つの漢字が持っている意味が、余りにも反社会的だ、とお役所が登録を拒否しました。さすがのワイド・ショーも、命名権の侵害だあ!、と単純にキャンペーンも張れずに困惑気味でしたが、小生意気な口調で無内容のコメントを吐き続けた若夫婦が、そろって覚せい剤常用者だった事が判明して、「悪魔」ちゃん騒動はまったく別の方向で解決したのでした。
 親が、良かれと思って凝りに凝った名前を付けて下さったばかりに、頼みもしないトラブルに巻き込まれる人の苦労はなかなか、他人には分かりません。名前というものが、人間関係の中で、或いは社会生活の中で、どれ程の力を持っているのかを知るのに、手っ取り早し方法が有りますから、是非一度、お試し下さい。

■学生時代のことです。ムクツケキ男ばかりで酒盛りをしておしました時、歌も冗談も猥談も出尽くしたのですが、有り余った体力の持ち主が集まってしまったので、なかなかお開きにならなかったのでした。仲間の中に、世が世ならば、タモリさんの数倍も面白い芸達者が1人おりまして、突然「改名ゲーム」の開始を宣言したものです。それは、自称・他称に関係なく、香港人のように横文字の「ファースト・ネイム」を付けて互いに呼び合い、極普通の酒盛りを続けるというゲームでした。するとどうなるか……。

 「おい、ジェームズ、さっきからぜんぜん飲んでないじゃないか。  まあ、飲めよ。」
 「やあ、有難う、マイク。君のそういうところが僕は大好きさ。  ねえ、フランク、君もそう思うだろう?」
 「そうだよ、マイク。ジェームズは優しいからなあ。君もそう思  うだろう、トム?」

と、絶対に日本語名前を言わないというルールで、笑いを堪(こら)えながら酒盛りを続けるのです。耐え切れずに噴き出した奴が負けで、罰を受けるわけですが、当時はこれで存分に笑えたのです。バブル時代の前でした。
 
■そろそろ、このゲームの逆、つまり妙に和風の名前を古い小説から抜き出して仮に名乗り合って大笑いする時代が来るのでしょうか。欧米は、『聖書』という名前図鑑が有りますから、出身地によって他称の発音の違いは有っても、時代によって大きく変化することはありません。というわけで、今の日本人に「南セントレア市」という日本語に手向かえる根拠は無いのです。
 でも、あの市長さんが言っていた「全国何処へ行っても、渥美半島は有名でも知多半島は誰も知らない。」という発言は解せません。寅さんの渥美清は誰でも知っているけれど、知多という名前の俳優は居ない、という話ならば分かるのですがね。

常用漢字をぶっとばせ!其の弐

2005-02-27 21:04:55 | 日本語
(「常用漢字をぶっとばせ!其の壱」のつづき)

■何はともあれ、昔は奴隷がやっていた仕事を機械にやらせるようになる事を「歴史の進歩」と呼ぶようです。日本の武士の時代に祐筆(ゆうひつ)という口述筆記専門の役目を命じられていた侍が、必ず殿様の近くに待機していました。一番有名な祐筆は信長に仕えた太田牛一さんでしょう。『信長公記』という岩波文庫にも入っている伝記を残している人です。昔は特権階級しか持てなかった祐筆が、今はワープロという機械となって誰でも手に入れられるようになったという訳です。
 キーボードが嫌い、ローマ字が分からない、という人の為に、音声入力機能という実に便利な技術が開発されまして、随分賢くなりました。米国で開発が始まった頃は、「蠅が飛ぶ」という文が壁になっているという噂が流れてきまして、商品化は不可能だろうというのが大方の意見だったようです。A fly flies. つまり、名詞の「蠅」と動詞の「飛ぶ」は両方とも fly なので、馬鹿なコンピュータは混乱してしまうんだという話です。
 しかし、技術は勝利しまして、名詞と動詞の区別も出来るようになったコンピュータは、とうとう人間様の方が多少言い間違えても、正しい文章を作ってくれる段階に到達しました。ですから、どんなに簡単な漢字が書けなくても、読めさえすれば機械が見事な漢字仮名混じり文にしてくれるのです。
 それは丁度、昔の殿様が、「祐筆の○○をこれへ。」と呼びつけて、「ははあ、○○ただ今参上仕(つかまつ)りまして御座います。」「ふむ、△△に書状じゃ、文面はこうじゃ。……出来たか?」「ははあ、これに」という場面が、机の上で再現されるという事です。

■ですから、御主人様が読めない漢字だけは、どれ程優れたコンピュータでも書けないのです。「入力」→「演算」→「出力」という段取りだけは守らないと駄目なのです。膨大な漢字の読みを記憶するのを助けるのが「振り仮名」です。これを撲滅しようとした戦後の一勢力は、ワープロの出現で息の根を止められたのですが、御役人達は、過去の決定と通達を変更するのが大嫌いなので、「あれは間違いでした。これから振り仮名を大いに活用するようにしましょう。」とは言いません。阿辻先生は続けてこう書いていますよ。


どれほどコンピューターが進歩しても、文章の読み書きが国語力の基本であることは絶対にかわらないし、そのための基本教育がおろそかにされることは決して許されない。
 ただ、手書きの時代には大きな労力を必要とした複雑な漢字が、今は機械によって簡単に書け、きれいに印刷までできるようになったことに対しても、客観的事実としてはっきりと目をむける必要があろう。


■この提案は朝日新聞の一般読者に向けて述べられているのではありません。地方代表を三人にしろ、いや二人で充分だろう、などと馬鹿馬鹿しい内輪揉めを続けている中央教育審議会の30人、それに中山文部科学大臣様、その下に従っている文部官僚の皆様方に対して注文しているのです。特に、中央教育審議会の「初等中等教育分科会」の「教育課程部会」と「教員養成部会」に所属する皆様は、こうした意見を真面目に聞かないと、またしても半世紀の大間違いを仕出かしてしまいますよ。「阿辻先生の提案には続きが有ります。

かならず手書きで書けなければならない一群の基本的な漢字群と、正しい読み方と使い方を把握さえできていれば必ずしも手で正確に書けなくてもよい漢字群、というように、漢字全体を二層の構造にわけてもいいのではないだろうか。

 日常的にワープロと手書きのメモを併用している人ならば、何を今更、と腹が立つほど当たり前の提案です。況(ま)して、携帯電話を辞書代わりに使いこなしている若者達を見れば、ワープロ技術が出現した段階で、この意見が出て来なかった事の方が不思議なのです。そして、総ての「当用漢字」1850字を正確に読めて書けるように指導せよ、と昭和21年11月16日の内閣告示が出た瞬間から今まで、この字数が最高値と勘違いされてしまい、人情として五割か六割も書ければ穏当だろう、という空気が全国の学校に充満したのです。昨年も、「ゆとり教育」が吊るし上げられた際に、文部省が示す指導要領は「最低限」を示すのだ、という学校関係者にとっては寝耳に水、驚天動地の裏切り発言が有りました。

■思い出して頂きたい!小学校時代、漢字テストで満点を取れずに悔し涙を流した思い出がお有りか?泣いていた同級生が居たか?上限を定めると平均点付近に人数が塊(かたま)って、下限は際限も無く下降して行くのです。ですから、仮に1981年に「常用漢字」を定める時に5000文字としておけば、半分覚えても2500文字となったはずなのです。これだけの負荷を掛けられた生徒は、最近の調査で明らかなように、「家庭学習時間無し 四割」などという事態にもならず、週に四時間の国語授業などいう先進国中で最低の言語教育しかしていない状況も生まれなかったに違いないのです。
 小学生が最も努力しなければならないのは、「総合的な学習」でも「生きる力を身に付ける」ことでもありません。只管(ひたすら)文字を覚えることです。数字を含めて、社会を支えている知の基本要素である文字の扱い方に習熟すること、この一事に尽きます。そこで必要となるのが、『声に出して読みたい日本語』などという不埒な駄本ではなく、分厚くて振り仮名だらけの教科書なのです。 声を揃えた音読と、授業で扱い切れない「名文」の自主的な黙読、これが漢字の読み能力を養います。書く能力にこそ授業と宿題は重点を置いて、筆記用具の吟味と習字の復活が必要となるのです。
マスコミが「学力低下」と書き散らしていますが、「日本語劣化」と書くべきなのです。それは戦後六十年の負債です。間も無く1000兆円になる国債残高よりも、もしかすると、こちらの負債の方が将来の日本に重く圧(の)し掛かる可能性が有ります。阿辻先生の文章の最後を全文引用しましょう。


コンピューターで文章を書くのが普通の行為になった時代に、二十数年前に定められた漢字の規格が示す「常用漢字」が、大きくゆらぎはじめてきたのは当然である。そして文化審議会国語分科会が常用漢字に対する見直しを提起した背景にも、もちろん漢字をめぐるそんな時代の変化があったのはまちがいない。
 文字は文化の根幹に位置するものである。文化審議会の提起をきっかけに、私たちを取り巻く文字環境がより便利で合理的なものになるように、各方面の積極的な努力を期待したいものだ。〈完〉


■ここに出て来る「文化審議会国語分科会」が提起した報告書の内容は、以下の通りです。
 常用漢字は「生活における漢字使用の目安」として1981年に制定された1945字(大日本帝国の降伏年号と同じ数というのが気になります)、印刷用の活字を想定した字体と音訓を規定したものです。
法令や公式文書は総てこの規定に従って印刷され、何よりも学校教育の現場では単なる「目安」という範囲を越えて権威となって行きました。ところが、ワープロの出現で通産省が管轄する日本工業規格(JIS)の方では、独自に第一水準漢字と第二水準漢字とを定めてしまいまして、これが6355文字で文部省管轄の「常用漢字」を陳腐化してしまいます。
 漢字の数ばかりか、使用法まで規定したはずの「常用漢字」の枠外に置かれたはずの「育(はぐく)む」「応(こた)える」「関わ(かか)る」などの伝統的な用法が復活し、元々その範囲に入れていなかった人名・地名の漢字もワープロは楽々と表示する能力を持ってしまいましたから、追放したはずの「國(国)」「澤(沢)」「邊(辺)」なども続々と復活して来ました。
 米国が持ち込んだタイプライターをイメージして突き進んで来た漢字政策ですから、人名は英米流に直筆「サイン」で処理しようと誰かが考えて辻褄(つじつま)を合わせたのでしょう。しかし、その英米でも既に、電気タイプライターさえも姿を消してしまっていたのですから、その大前提が完全に崩壊していたのです。
 『2001年宇宙の旅』で有名なアーサー・C・クラークのエッセイの中にも「物置の何処かに放り込んである、あの忌々(いまいま)しい電気タイプライターをもう一度使うような時代になったら、私は作家を辞めるか自殺する」と書いていました。
 それなのに、昔の法律を墨守(ぼくしゅ)する姿勢を変えない人々が日本の政府内と教育界にいたのです。佐藤栄作総理大臣が、自分の名前の「藤」が除外されて激怒した話は有名ですが、大阪の「阪」も岡山の「岡」も含めない「常用漢字」というのは何だったのか、後代の歴史研究家が解明してくれるでしょう。

■漢字という文字は、実に扱い難い文字であるのは間違いないのですが、文化の蓄積が千年以上も続いている以上、これを受け継いで行くしかないのです。ところが、千年以上も付き合っているこの漢字に関して、日本人は熟知しているとはとても思えない現実が有ります。まあ、本家?の中国でも、日本の真似をして「簡体字」を考案して一時は日本側も度肝を抜かれたのですが、実はこれが大失敗で、字体の簡略化は途中で取り止めとなっているのです。
 世界に冠たる書道文化が壊滅する、古典との言語上の継続性が断絶する、反対理由は様々ですが、要は、識字率が低いのは漢字の画数が多いからだ、という判断が間違っていたという事なのです。
 チャイナの識字率が低いのは、三年と空けずに暴動と戦乱が繰り返されて庶民が生き残るので精一杯だった歴史と、科挙制度と門閥(もんばつ)が結び付いて知識の独占体制が長く続いた事が原因です。従って、国内が長期間安定して、初等教育に税金が投入されれば、識字率は急速に上がって行くだけの話なのです。
 まあ、地方に還流される教育予算が、砂漠の川の水のように、途中で消えて無くなってなかなか初等教育のインフラが整わないのは、変わらぬ御国柄なのでしょうが、識字率を上げる為の簡体字政策は、二度と採用されることはないのです。

■実は、日本も同じ間違いを犯しているのです。更に悪いことには、その間違いに気付いている人が非常に少ないのです。その間違いというのは、「画数の少ない漢字は覚え易く、多いのは覚え難い」という思い込みです。ソニーを創建した井深大という人が、晩年は幼児教育に熱心に取り組みまして、『幼稚園では遅すぎる』という本を書いてベスト・セラーになったことがあります。
 そして、『機械が先生に勝った』という本も書きました。これは、自分が考案した学習機械を幼稚園に持ち込んで、外人教師と英語教育を競い合う話が中心なのですが、勿論、結果は機械が勝って目出度し目出度しという自慢話と宣伝が目的の本でした。
 絵付きの磁気カードをスリットに通すとスピーカーから英単語の正しい発音が聴こえて来るという単純な機械です。米国で英語を学んでいた頃に、ベトナム難民の学友達が図書館に設置されていたこの機械を奪い合って利用していた風景を思い出しますなあ。でも、日本の市場では定着せず、機械より生の外人(質を問わず)が大好きな日本人は「駅前留学」の方を好みますようで、井深さんは草葉の陰で泣いているでしょう。
  そんな本なのですが、『機械が先生に勝った』に注目すべきエピソードが紹介されていました。井深さんのお孫さんが、漢字に興味を持ったので、お爺さんの井深さんが面白がって研究者らしく、孫の認識能力を検査するのです。すると、「九」という字と「鳩」という字では、幼児は「鳩」を先に覚えるという体験をしたそうです。井深さんの解釈では、「鳩」は画数が多くて一見すると覚え難そうに思えるが、幼児の目には安定性の高い絵のように見えるらしい。一方の二画の「九」は、バランスが取り難くて覚えるが大変らしいのです。考えて見れば、たった二本の線ですが、何処で曲がって何処で止まるのかを見極めるのは大変で、大人でも形の良い「九」を書くのに苦労しているのではないでしょうか。
 画数と覚え易さは関係無いという結論になりそうです。しかし、今でも小学校一年生から六年生までに習う漢字の学年別一覧表を見ると、見事に画数が順に増えて行くように並んでいます。もっと恐ろしいのは、一年生でカタカナの書き取りに重点が置かれていないのです。カタカナは漢字の部品ですから、カタカナを書くという事は、既に漢字の一部を書いている事になるのです。付言すれば、平仮名というのは、書道の中でも最も高度な草書体から生まれたのです。「楷書は何とか筆で書けるけれど、行書や草書となると、勘弁して貰いたいなあ。」と戦後教育を受けた我々の圧倒多数は言いますが、実は、平仮名は万葉仮名から選ばれた漢字の草書体です。
 ということは、小学校一年生で「漢字の草書体」をいきなり習い、漢字の部品は扱わないまま、画数の少ない漢字を順に覚えて行く事になります。こうして見ると、何だかめちゃくちゃな教え方をしているのが分かるでしょう。

■漢字、漢字と何度も書いていますが、今「漢字」と読んでいるのは総て新字体に変えられた漢字の成れの果ての文字です。この新字体決定が、前述の中国簡体字運動に直結しているのです。既に絶版になって久しい、藤堂明保先生の『漢語と日本語』(秀英出版)という本が有ります。その第三章が「日本の漢字問題」です。そしてその第十一節は、「漢字教育の問題点」となっています。重要な所を抜粋します。(本当は捨てる箇所が無いんですが)


昭和二十四年四月二十八日官報の『当用漢字字体表・使用上の注意事項』に、次のように書いてある。
 この表の字体は、これを筆写(かい書)の標準とするさいには、点画の長短・方向・曲直・つけるかはなすか、とめるかはねる又ははらう等について、必ずしも拘束しないものがある。そのおもな例は、次のとおりである。……
 つまり、これらの細かい点については、べつに教科書活字の形を墨守する必要はないはずであった。ところが、教科書の力というものはおそろしい。いつのまにか、その字体が絶対の権威であるような錯覚を与えて、少しでもそれに合わないものは、×をつける風潮を生じてしまった。
 昭和二十四年に公布された新字体が、もう少し旧来の慣習に気を配っていたなら、今日のような混乱を起こさずにすんだはずである。ところが、不幸にして、新旧死体は次のようなズレを含んでいた。
「木」のタテ棒は旧字体でははねていたのに、信じたいではとめている。「言」の上部は旧字体ではヽ印で示したのに、新事態では短い横線で示すようになった。「分」の上部は、旧字体でくっつけていた所を、信じたいではハと離して書くようになった。「雨」や「風」においても、こまかい違いがある。とくに「歩」「毎」などの新字体はまことにコッケイですらある。〉


学校での漢字の指導という営みの奥深さと恐ろしさがお分かりになると思いますが、いかがでしょうか。子供の頃に、重箱の隅を突(つつ)き回すようにして赤ペンで添削されたり、バツを付けられた経験の無い人はいないでしょう。しかし、その裏側では、こうした碩学(せきがく)から鋭い批判が浴びせられていたのでした。この本は昭和43年に初版が出て、昭和53年までに8回も版を重ねた本です。「甲骨文字」から膨大な漢籍の変遷、日本の万葉仮名から仮名文化の歴史、書道の基本的な心得、漢字を指導したり何らかの基準を定める者ならば、当然通じていなければならない課題ばかりです。文字の教育は生徒の年齢が下がるほど、重要度は上がって行く性質を持っています。小学校の低学年で、低劣な素質しか持ち合わせない教師にぶつかったら最後です。

■都内の某有名私立高校での話ですが、毎年教員用に用意している図書費が余って余って困っているそうです。年々薄くなる教科書ですが、その教科書と「赤本」と呼ばれる指導書(アンチョコ)以外は読まない教師が、命を削るような努力をしてやっと合格出来る難関校で教鞭を取っているのです。遥か上から降って来る「お上の声」に従って、読書週間だの朝の読書指導だのをしたり顔でしながら、自分では碌(ろく)な読書のしていない教師の群の中で、日本語はますます傷(いた)んで行くのでしょうなあ。
 蛇足ですが、最近の朝日新聞紙上で、社会面では正しく「水を差す」と「冷水」を使っているのに、経済面や政治面では平気で「冷や水を浴びせる」と書いているのはいかがなものでしょうか?

常用漢字をぶっとばせ! 其の壱

2005-02-27 21:03:18 | 日本語
「機械で書く漢字」認めよう 阿辻哲次(朝日新聞2005.2.11文化欄より)
昭和四十年代には、機械で書けない「遅れた」文字など一日も早く廃止し、日本語もローマ字か、あるいはカタカナかひらがなで書くべきだ、という主張が、いたるところで唱えられていた。タイプライターで美しい文書を迅速に作成できる欧米社会とは互角にわたりあえず、したがって近代的な社会の達成などとうてい不可能である、だから漢字など廃止してしまえという議論が、ビジネス界を中心に真剣におこなわれていたものだった。

■自分達の母語が、一体どんな扱い方をされたのかを知らない日本人が余りにも多い、多過ぎる。「ゆとり教育」だの「学力低下」だの、「幼児英語教育」だのと騒いでいないで、少しばかりの投資と労力を惜しまずに、国家ならぬ日本語百年の計を考えるのは国民の義務でありましょう。阿辻先生の思い出話の背景をまったく知らない国民が大半を占めるようになってしまうと、問題の所在も意味も分からない選挙民が、官僚を指導する役目を持っている議員を選ぶことになってしまいますぞ。
 丸谷才一編著『国語改革を批判する』中公文庫に収められている「国語改革の歴史(戦前)」大野晋、「国語改革の歴史(戦後)」杉森久英、ここに詳細が書かれているので、是非とも読んで頂きたい。この本は1000円の投資金額に対して数万倍の価値を持っている本であります。一家に一冊、学生は二冊(本棚用と鞄用)常備して頂きたい。
 明治維新以来、日本語をどうするか、この大問題を皆が悩み、残念ながら政治的決着の常で、大きな失敗を重ねてしまった歴史が有るのです。特に建国以来初の敗戦で、日本が受けた衝撃は未曾有のものだったものでしたから、当然、「日本語」も動揺しました。
 米国の物量神話が蔓延して、占領軍が大量に持ち込んだごついタイプライターはその象徴となったらしうございますな。毛筆がタイプライターに負けたのだ、と信じ込んだのも敗戦の衝撃と空腹が生んだ幻想であったのでした。数千の煩雑な漢字に比べて、米国は26文字で総ての文書を処理しているのだから、日本は文字で負けたのだ、と多くの自信喪失状態だった日本人が信じ込んだのでした。
 しかし、漢字は表意文字なのですから、英語の単語に対応するのでありますよ。日本の学生が漢字の記憶に苦労するのと、英米の学生がスペリングに苦労するのと、何の変わりも無いのでありまして、日本の学校で漢字指導が骨抜きになっている時にも、欧米の学校では盛んに「スペリング・コンテスト」を催しているのですぞ!
 
■これまた一家に一冊、学生は二冊常備して欲しい福田恒存さんの『私の國語室』新潮文庫という本が有って、その275頁に、

「常用漢字」などといふものを顧慮することなしに私たちが平生もちゐてゐる漢字の數が大體三千字、すなはち三千語ださうですが、アメリカのカーネギー財團で調査した基本語彙が、英語、フランス語、スペイン語、いづれも三千語で、これは偶然一致してをります。また戰前と戰後とを問はず、日本の小學校で行つた讀み書き共に出來る漢字は五百字、五百語ですが、アメリカでも小學校を卒業したもので綴字を間違はずに書ける語といふのはやはり五百語で、これも不思議に同じだといふことであります。いや、偶然といふより、文字が表音的と表意的とにかかわらず、主要語彙は三千、派生語を含めて七千といふのが、比較言語學上、大體相場の決つた數ださうです。

と書かれています。福田恒存氏は新仮名遣い断固反対!新字体にも絶対反対を貫いた頑固者でした。自分の著作の定価表示にも「圓」と印刷させていたような人でした。阿辻先生の文章に戻りませう。

技術者たちの努力によってコンピュータで大量の漢字が使えるようになり、それとともに漢字廃止論の前提はあっさりくずれさった。漢字を制限する目的で終戦直後に制定された「当用漢字」に替わるものとして、「常用漢字」が定められたのは1981年のことで、その時にはすでに、六千字以上の漢字が使える日本語ワープロが発売されていた。しかしそれは高価な機械であり、個人が使う漢字とコンピューターで扱う漢字の問題は、ほとんどすりあわされることはなかった。

■これは日本発のワード・プロセッサーの話です。1978年の9月、東京芝浦電気が、仮名漢字自動変換機能を持った「日本語ワードプロセッサJW-10」を翌年に発売すると発表しました。記録用のフロッピー・ディスク装置と印刷用プリンターを含む基本セットが当時の価格で630万円でした。この開発物語は、既にNHKのプロジェクトXで放送済みです。そして、翌年にはNECが「パーソナルコンピュータ・PC-8001」を16万8000円という破格の値段で発売するのです。これに日本語ワープロ・ソフトが載って、コンピュータは理系と文系の壁を軽々と越えて日本中に広まって行ったのです。
 ですから、阿辻先生の御指摘通り、1981年の段階で「常用漢字」を制定した政府の時代感覚は噴飯ものなのでしたが、国中から轟々と非難の声が上がったとは聞いておりませんなあ。


もともと漢字は覚えにくく、書きにくい文字だった。それが今では、憂鬱(ゆううつ)だって顰蹙(ひんしゅく)だって蹂躙(じゅうりん)だって、キーをいくつか押すだけで簡単に画面に表示でき、ボタン一つできれいに印刷までできる。そこでは漢字の書き取り能力も、書写能力の美醜もまったく問われない。こうして人々は漢字に対する敷居の高さを克服し、さらにいつのまにか、自分は非常にたくさんの漢字が書けるという自信までもつようになった。

■これは少し問題のある発言ですな。こうした恩恵を受けられる人は、最初に膨大な数の漢字が「読め」なければなりませんね。小学校時代に日本語を知らない質の低い教師に出遭ってしまった人は、この恩恵が受けられません。そして、日本人の漢字音読能力を支えていた「振り仮名」の息の根を止めようと頑張っている馬鹿者達に同調しているような教師に出遭ったら、もう人生の半分は失ったも同然です。
 因みに、振り仮名を「ルビ」とも呼びますね。2月17日のNHK午後4時45分からの番組で画面に「ルビ」と大書して表示しながら毎度変わらぬ愚にも付かない「日本語教室」を放送しておりましたぞ。時々見るのですが、感動したことも勉強になったことも殆(ほとん)ど御座いません。但し、いちいち感心して見せる男女のアナウンサーが如何に日本語に対して無知で無責任なのかは、実に良く分かる番組なので、受信料支払いを拒否している皆さんも一度は観て下さいね。腹も立ちますが、時々笑えますから。
 その放送を一緒に観ていた我が両親が、「ルビって何だろうね?」と相談を始めたので、画面を見ながら大笑いしてしまいました。「今日のお話は振り仮名についてです。」の一言が、皆様のNHKが何故言えないのか!?

■大体、日本語の現状を知らない人々が放送業界には多いのです。「少子高齢化」と「学力低下」を二つ並べて考える想像力が無いのでしょう。今の65歳以上の大人口の中で、ローマ字やアルファベットが正確に音読出来る人の数を確認した事など無いでしょう。例えば、プロ野球やサッカーの選手が着ているユニ・フォームの胸に書かれている文字を、色やデザインに含めた一種の模様として識別している人が案外多いのですよ。家電業界は逸早くこの事態に気が付いて、操作ボタン類を漢字とカタカナ表示に切り替えていますでしょう?
「ルビ」は宝石のルビーのことです。欧州の活版印刷業界で使われていた、5.5ポイントの活字を指す業界用語ですから、突然「ルビ」と言われて、「ああ、振り仮名用の小さな活字の事だな」と分かる日本人は少ないのは当然なのです。業界用語ですから、素人が知らないのはまったく恥ずかしい事ではありません。御寿司屋さんに行って、「アガリ」=お茶、「ガリ」=紅生姜、「ムラサキ」=醤油を知ったかぶりして使うのは無粋ですし、料理屋の板前さんに対して「この筍(たけのこ)はアニキじゃない?」などと生意気に言わずに、「ちょっと古いんじゃない?」と言う方が可愛げがありますよ。更に「御銚子、ゲタでお願いね」などと注文してもぜんぜんカッコ良くありません。素直に「御銚子を三本お願いします。」と言いましょう。
 そういう種類の業界用語を画面上に出して、一度も「日本語の振り仮名」と言わなかったあの日本語研究者は許せない奴です。我が母も「振り仮名なら分かるねえ」と、ちょっと恥ずかしそうでした。NHKは、こうして未だに皆様のNHKにはなっていない正体を晒(さら)したのでした。御喋りが多くなりました。再び阿辻先生の文章です。ここからが佳境(かきょう)です。


コンピューターを使いだしてから、漢字をど忘れするようになった、と多くの人はいう。しかしそれは文字記録環境が昔にもどっただけで、漢字が書けるか書けないかは、もとをただせば漢字に関する個人それぞれの知識量と習得達成度によるのである。コンピューターを使っているすべての人が、かつての手書き時代に「憂鬱」や「顰蹙」をすらすらと書いていたとは、私にはとうてい思えない。

この一節がこの文章の胆(きも)であり臍(へそ)ですぞ。ちょっと大袈裟な比喩を使いますと、人類は古代国家を造った時からとても長い間「奴隷」という言葉を理解する機械を使役し続けました。勿論、日本も例外ではなく、『魏志倭人伝』にも卑弥呼さんが魏の皇帝に生口(せいこう)と呼ばれる奴隷を献上しているくらいですから。
 近しいところでは、米国が国を二つに割って殺し合った南北戦争の主要な原因は、奴隷が人か機械かの論争でしたね。最近の話題では、どうも日本人はフィリピンあたりから女性を性の奴隷にしようと不法に輸入しているんじゃないの?と疑われて、調べてみたら現地の日本大使館が女衒(ぜげん)の元締めみたいな役目を果たしていた事が発覚しましたなあ。
 肌の色や人種で差別してはいけません。という崇高(すうこう)な人権思想が生まれたのは、実は産業革命という大きな機械が次々に発明される時代の後なんです。つまり、余っちゃった奴隷を人間扱いして税金を払う国民に加えようとしたとも解釈できるタイミングでした。(「其の弐へつづく」)

外来語について

2005-02-24 23:26:23 | 日本語
読売新聞のコラムに『ことばのファイル』という毎回勉強になる隔週連載物が有ります。2月の連載分の中に「生物は規制 言葉はどうする?」という記事が有りました。

環境省の専門家会合は、国内の生態系を外来種から守るため、37種類の動植物を第一次の規制対象に選定した。釣り客に人気のあるオオクチバスについては、結論を半年先送りするはずだったが、小池環境相の強い指示でリストに追加された。
  同省は2003年1月、この対策を中央環境審議会に諮問する際、「移入種」と呼んでいたが、生物学者らから「『外来種』の方が適切」と指摘された。答申は、明治以降に入ってきた生物に対して法制度の整備を求めた。野外で見つかった数は約2000種に上る。
 「外来語」は、日本語と同様に使われるようになった外国語。漢語も本来は外来語だが、主に西欧語を指し、片仮名で表記される。鎖国政策下の江戸時代でも、コンパス、メスなど近代科学関係のオランダ語が流入した。明治維新後は英語が各分野に広まり、独語、仏語も入ってきた。戦後は米国との関係があらゆる面で密接になり、英語があふれ返っているという現状は言うまでもない。
 「言葉は生きもの」と言われるが、現代の日本では外来の動植物を規制するような訳にもいかない。カタカナ語の氾濫によって、日本語という“文化の生態系”はどうなるのか。嘆くばかりでは何も始まらないが……。


■どの言語も外来語の侵入を受けることによって、語彙を増やして表現力を豊かにした歴史を持っている。文法の分野にまで影響を受ける場合さえ有った。
 凄(すさ)まじい例はアフリカ東部で共通語として用いられている「スワヒリ語」である。具体的には、ソマリア、ケニア、ウガンダ、ザイール、ルワンダ、ブルンジ、ザンビア、マラウィ、モザンビーク、ジンバブエの国々で通じるのだから、東アフリカ地域を旅するには実に便利な言語である。しかし、スワヒリ語を母語として使っているのは多くて200万人というのが面白い。
 スワヒリというのは特定の地名ではなくて、アラビア語の「海岸」を意味するサーヒルの複数形、スワーヒルから発した名前なので、海辺の浦々で通じる言葉ぐらいの意味であろう。世界地図を広げると「インド洋」と大きく書いてある北の方に、インド亜大陸を挟んで東側が「ベンガル湾」で、西側に「アラビア海」という名前が書かれている。しかし、アラビア勢力にして見れば、断固として全インド洋はアラビアの海でなければならない筈である。呼ばれもしないバスコ・ダ・ガマをインドの地に案内した親切な船乗りはアラビア人であったし、東南アジアにイスラム教を広めたのもアラビア人達である。
 アラビア半島から狭いバべル・マンデブ海峡を渡れば、そこはアフリカの角で、ソマリアから海岸伝いに南下して貿易で稼いだのはアラビア商人であったから、アフリカの東海岸は宛(さなが)ら、アラビア海岸と呼ばれても良い場所であった。ペルシア商人の活躍も書き添えて置かないと、またイラン・イラク戦争が始まってしまいそうである。
 交易活動の中で、交換される品物と一緒に言語も交流した。ペルシア語やインド系の言語も交わされたろうが、言語上の影響力という点では、アラビア語が断然優位だったらしい。現地のバントゥー系諸語は文法的な骨格だけを残して、語彙のほとんどをアラビア語に浸食されてしまったらしい。つまり、スワヒリ語はまったく文法構造が異なる二つの言語の間に生まれた「ピジン語」から発達したのである。

■「ピジン語」というのは、ビジネスの訛(なまり)で、商売用の簡単な言語という意味である。慣れない土地で辞書を片手に、必要不可欠な名詞を連呼して用を足す経験を思い出せば分かり易かろう。 文法構造を守った側と、大量の名詞や動詞を注入した側、どちらが文化的主導権を握っているか、と言えば語彙を支配する側が圧倒的に優位に立つ。大東亜共栄圏の夢が破れていなかった頃も、その後の成金海外旅行が流行した頃も、外地で日本人が不遜な態度で押し通す時の言語活動を考えて見れば良い。
「おい、お茶!」「おい、メシ」「酒だ、酒持って来い!」「女、女、女だよお」等々の聞くに堪えない野蛮な日本語が使用される。相手は、こうした単語の意味を知っているから話が通じるのである。不遜な日本人側は、多少の現金さえ持っていれば、小さな旅行者用辞書さえ必要無いのである。しかし、これは政治的には勝っていても、真の意味の文化という点では負けていると思う。

■アラビア人が広めたのがスワヒリ語だったのならば、現在もスーダンで起こっている宗教対立の理由が分からなくなる。スーダンの政府はイスラム教を国教化しようとして内戦状態に陥ったのである。スーダンの南に広がっているスワヒリ語圏がイスラム教徒の世界であるならば、万事丸く収まるのだが、アラビア人が海岸から内陸へと商業圏を拡大した後で、莫大な交易利権を横取りしたのが欧州のキリスト教徒達であったから事態が複雑になってしまったのである。 余りにも広範囲で通じるようになっていたスワヒリ語を利用してキリスト教を広めてしまったからアフリカは分裂したのである。アフリカ人がアフリカ人を奴隷として駆り集める商売をし、ついでに象牙も乱獲したのである。勿論、最終的な利益は全て西欧のキリスト教徒が吸い上げて肥え太ったのである。日本が明治維新を向かえる少し前の頃の話である。

■スワヒリ語の誕生の歴史は、古代日本語の成立にも重なるように思える。列島各地に散らばっていた百万人にも満たない人々が、部族社会を営んでいた時期に、万葉集が編纂され、貧弱な語彙しかない和語に膨大な語彙が漢文から流入する。歴史書のような高度に政治的な書物は、外来語ではなく外国語で書かねばならなかった。
 膨大な数の漢語を、日本人は必死で「てにをは」構造に載せたのである。この時に最も活躍したのが、連体修飾語を時代に作り出す格助詞の「の」と連用修飾語を生み出す「に」、そして動詞を作る助動詞「す」であったと考えられる。この強靭な道具は今でも健在で、英語の動詞、例えば play stop access install を動詞として使う場合に決してそのままでは使わずに「プレイする」「ストップする」「アクセスする」「インストールする」のように言う。
 形容詞・副詞の類になると、hard soft high を「ハードな仕事」「ソフトな色合い」「ハイな気分」などのように「の」から派生した形容動詞の活用語尾「な」を必ず添えて連体修飾語にするか、「ハードに叩く」「ソフトになる」「ハイになる」のように、「に」を添えて連用修飾語を作る。これらの道具が活きている限り、日本語は貪欲に外来語を飲み込み続けてしまうのである。

■では、「日本語の生態系」を守るにはどうすれば良いのか?思い付く方法は二つしかない。一つは、手書きの毛筆文化を再興することである。カタカナの行書や草書は芸術の域には達しない内に削除される。二つ目には「五七」や「五七五」の和歌のリズムを死守することである。お子様用に大量消費されている現代の流行歌、ポップスとも呼ばれる音楽文化は、英語圏の音律に日本語を強引に押し込んで作られている代物であるから、聴き難くて覚え難いのである。試みに、中高生にお願いして、一年前の大ヒット曲や愛唱歌を歌ってもらって見れば良い。
 数十年前に覚えた詩歌や唱歌、民謡、演歌の類を直ぐに口ずさめる年齢の日本人の目には、外国人としか思えないような状態である事実を確認出来るであろう。彼らが、成人病で早死にせずに目出度く老いて認知症(俗に言うボケ)の兆候を見せ始める頃の音楽療法にどんな曲が選ばれるのか、今から楽しみである。
 金田一春彦さんの研究によれば、明治から昭和にかけて作曲された唱歌の中には、語のアクセントを考慮して一番と二番の歌詞に合わせて音階を変えている曲が存在するらしい。単に「七五調」だから覚え易いという訳ではないという事である。今の作詞家と唱歌の歌詞を書いた詩人との格の違いが分かる話ではなかろうか。