沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩595 沖縄からの発信 20 オキナワを知る、ということ 3

2015年07月27日 08時32分42秒 | 政治論

 いよいよ明白に言えることは、この安倍晋三配下の政権(これを独裁という)によって辺野古推進は決定的に沖縄を敵に回し、何事があっても米国に喜ばれる報告が出来るように、明瞭に具体化すべく動いているということだ。このことから沖縄の非暴力不服従運動が、そのために「殺伐と」先鋭化し質を変えて(海保並に暴力的に)対抗するような気組みにないことは了解されよう。彼らは、我々の抵抗と自然の力(台風その他)によってその支離滅裂な軍拡行為に遅延と停滞を余儀なくされ、かつは世論の動向にも風圧を感じながら(その支持不支持率の逆転など)、到底立派な行為とは言い難い国家的横暴(秘密裡に動いてきた「日本会議」のナチス的一揆)を押し通そうと、ここに来て埋め立て工事事前調査の段階を完了しないうちに、次なる本体工事(護岸工事)設計の協議を県に申し出ている。思うにこれは、翁長氏への新たな挑戦状であり、氏が仲井眞埋め立て承認を撤回または取り消しをしない限り、仲井真裏切り行為の法的有効性を盾に順次作業の全体的進捗効果を謀ろうという、彼らのなし崩しの思惑が透けて見えて、いかにもこすっからしいものを感じる。しかしながら、問題はこの何一つ周囲に目を向けず動物的に突進している安倍晋三配下の政権がどこまでその権力効果を維持できるのか、ということであって、例えばこの辺野古埋立に関し承認取り消し又は撤回後法廷闘争をしたとしても、恐らく県側に通常の司法判断に基づく正当な勝利の可能性はなく(この国の三権は分立せず司法は国家権力の出先に過ぎない)、言って見ればこの政権の決定的な崩壊を見ぬうちは県民の意思はいずれにしろ無視され蔑ろにされ、何事も無駄な行為とされることに終始することは間違いない。今、翁長氏は国連人権委員会での演説に一定の効力を期待している。既に国連人種差別撤廃委員会の数度の勧告は日米政府共々、ほぼこれ(琉球沖縄の差別的処遇)を否定しかつ国家安全保障の専権性を言い募って止まない。だが、軍事的要諦にない日本国内限定の政治的怠慢からなし崩しに決められていった「辺野古移設」は、何らの正当性もこれを持たないことは最早はっきりしている。しかも「移設」という偽善的欺瞞に満ちた文言とは真逆の一大新軍事基地建設にほかならないこの辺野古推進は、耐用年数200年の超固定化基地建設であり、到底沖縄県民の許容せざるべからざる事案なのであって、一方国税の無駄遣いに当たる「思いやり予算」等々全くの国民愚弄行為そのものであり、これに気づかない国民の事大主義的感性にも我々の憤懣は溢れんばかりとなっている。

 基地をほぼ有しないヤマトゥでの安保容認は過半数を占めており、一方これを集中的に抱え込まされている沖縄では8割以上が反安保だ。この数値的差異は、もし国内平等負担として基地が分散配置されたなら忽ち日米同盟自体崩壊するだろう、という、基地公害の歴然たる反人民的な証明事項である。(つづく)

 


詩595 沖縄からの発信 20 オキナワを知る、ということ 2

2015年07月25日 15時27分18秒 | 政治論

 2011年3月11日午後2時46分過ぎに発生した東北地方太平洋沖大地震は、観測史上最大のM9.0を記録し、かつその後に発生した大津波によって東北・関東地方大平洋沿岸部は甚大な被害を享け、就中福島県双葉郡大熊町にあった福島第1原子力発電所は14mに達する津波を被り原子炉メルトダウンを惹き起こしその施設自体に潰滅的な打撃を齎した。当然ながら大地震大津波原発事故それぞれが交互に影響しあって、周辺地域はじめ広い範囲での物理的人的損害をかつてない規模と内容で惹き起こし、かつこの国の国家的在り様を試すような具合に現在も問題化すべく至る所にその面貌を見せつけている。これはのど元過ぎれば、の類ではなく、復興や放射能被害乃至風評的被害、あるいは原発再稼働などの問題を今現在も引き続いて大問題として取り上げなければならない事態であろう。

 筆者はその大地震と取り分け原発事故の影響を受けている、特に放射能被害が顕著と言われる(それの正確な情報は元々根深い隠蔽体質にある国家の操作によるのか、我々には容易には伝わってこない)福島県の県中都市郡山市に幼時より住していたのだが、どういうわけか既に大地震の5年前には沖縄県に移住を果たしその後2010年12月に今帰仁村に新居を構えるまでに至っていた。偶然にも大地震の年3月2日には義母を移住させ、その日11日を今帰仁村で迎えている。そのころのことを余りはっきりとは記憶してないのだが、折から新居での新生活をスタートさせる時季でもあり義母の認知症のこともあって、交々悲観的悲劇的にかあるいは虚無的にしか物事を受け止め得ず、民主鳩山陥落以降、少なくとも快哉を叫ぶような場面にはとうとう一度としてめぐり合うことはなかった。曖昧な記憶からは碌なものが出てこない。精神も感覚も感情もごちゃ混ぜになっているがこれは恐らく「フクシマ」と「オキナワ」という象徴詞が示す神経的で無機質な同化作用として、脳髄を機械的に機能させようという衝動なのだろう。だが、「オキナワ」と「フクシマ」が何らかの形質で並び立たされても、どちらかがあるいはどちらも問題性を希釈してしまう流れに呑み込まれる形勢を感じさせるようなものがあった。図らずもその後、元々安保容認派であり自民党党員でもある翁長氏が、仲井眞埋め立て承認裏切り行為のあとこれを知事選に撃破し新知事にドラマチックに就任したとき、氏が強調した「腹6分目、腹8分目」のオール沖縄結束というスローガンが、どこか空々しくさえ思えたのは、同じような意味合いでだったかもしれない(大田元知事はオールという言葉に違和感を覚えると言っていた)。思うに、今沖縄県民は、明らかに個人の自由思考のレベルで(つまりオール沖縄と意図して言う必要さえないほどに)はっきりと「辺野古ノー」と考え感じているし、それは明瞭に、国家が沖縄に対して執っている態度を自分たちへの侮辱と捉えているということだ。

 今「フクシマ」と「オキナワ」が形質を異にすると言って見たところで詮方ない。問題はそれぞれ全く意味合いが異なる重大な内容物を孕んでいる、ということであって、筆者の中では汚染地帯から逃れて沖縄に移住する人たちが、新たに投げつけられる沖縄問題をどのように受け止めるのか、とか、異種民族としてほぼ生理的に下に見られている実情に対し移住者としてどう憤激するのか、とか、そっちの方に意識が行く。つまり、移住者は此処に来てどうしようもなく存在する構造的差別の実態に唖然とし、憤激し、反対運動に走る、というパターンを常識的にすら踏襲しようとする。言って見れば事実上門外漢の移住者でさえそのように明確に自身の立場を明らかにせざるを得ない程に「オキナワ」は21世紀の世界における恥ずべき実態として告発されるべきものとなってきている。人間として、今この国がやろうとしていることは必ず大いなる禍根となり結局歴史的に断罪されるだろう。元知事で、言わば基地返還の渦中に知事を勤めた大田昌秀氏は「辺野古移設がされたら沖縄の怒りは拡散する」と言い琉球独立の機運はいよ増しに高まるだろう、と言っている。(つづく)