沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩595 沖縄からの発信 15

2015年07月13日 08時37分21秒 | 政治論

 はっきりしているのは、日本国が、敗戦後アメリカ合衆国の傀儡としての半独立国家、言い方換えれば米国第何番目かの属州という地位に甘んじていることであり、この事実は、例えば、沖縄県が如何に正当に辺野古移設(新基地建設)に反対しても(環境アセス他、多面的な意味での不当性を列挙したとしても)、日米欧の名だたる有識者が辺野古の市民活動を賛助評価し安倍政権を批判しても、あるいは安保法制に対し如何に雁首そろえて「憲法違反」と、学者識者地方議会決議が言い募ってみたところで、必ず揺るぎなく実行されるべく出来レース化(強行採決)しているという、この現実に端的に現象していることからも容易に推察できよう(全ては米国のための政治であり安倍晋三の一人合点の国威発揚主義である)。翁長知事の埋め立て承認撤回乃至取り消しが事実上現実化(第三者委員会審議報告「承認に法的瑕疵あり」)されるや、日米政府間でこそこそと連絡を取り合ったと思ったら、まさに「粛々とこれを無視し作業は継続する」と報告したとか。確かなことは、未だ何も始まってないということであり、そして始まれば雪崩を打って翼賛化するだろうということだ。我々はただ、安倍晋三の先行きの見えない危険な目論見を何としてでも始まらせなければよい、ということになる。

 要は、軍隊や軍事的アプローチは一般市民のためには反作用しか示さないということだ。「沖縄戦」が現在も生々しく伝承されている所以は、戦争の被害者、犠牲者は兵隊より市民の方が圧倒的に多く悲惨な末路を辿るということを具体的に、現今戦争を知らない世代に教訓として残そうという体験者の思いがあるからだ。では戦争、軍事関係で一体誰が得するか、軍需産業主体でありこれに群がる利権あさりのエゴイストたちである。安倍晋三は国家の国益増進を軍事的な積極性によって図ろうとしているが、彼は決して砲弾飛び交う(所詮陸戦の現状は局地的であり、弾道ミサイル戦が中心だろうし、本格化した大戦は人類自体の命とりであろう)戦場で自ら血を流すことはない、だから、自衛隊や国防軍の生死痛苦に思いを致すことはなく、前途ある若者に、(第一義には決して愛することができない)国のために一身を捧げろと強要する。彼に欠けているのは、自身が望む国威発揚の矛盾に満ちた実質、日本国のためでなくアメリカのためにやっていることに対する認識だ。丁度仲井真が「いい正月を迎えられる」と語ったあの「裏切り」同様に、結局は自分たちの仲間としての国民市民住民を裏切るのである。(つづく)