例えばソクラテスは悪法も法といって毒杯を仰いだ。
安保法案は悪法である。しかし偽善的外交における稀代の悪法、日米同盟(日米安全保障条約)がある限りこれにまつわる一切のことは「コップの中の嵐」というしかない。戦後70年かけて安倍晋三という跳ねっ返りが現れ、悪法はいよいよ前時代の引き写し(大日本帝国憲法)へと本家帰りを始めた。この欽定憲法は、まさに天皇制絶対主義の政治利用という悪辣に堕すべく、坂道を転がりきって先の大戦へ雪崩れ込んだ大元の物であるが、その(憲法発布大前提だった)ご誓文(五箇条のご誓文)に「万機公論に決すべし」と謳ったように、一人の権力者が勝手に決定権を振り回すことは固く禁じていたのだった(結果的には軍部がこれを執権した)。今、安倍晋三とその配下は、選挙実態には目もくれず(その正式な支持率は2割程度)数の論理(支持率に添わない議席数)一本で図々しくも国策をでっち上げようとしている、まさに公論を蔑ろにし一律に決定権を行使している、これを前時代的封建遺制の盲目な踏襲と言わずしてなんというのか。丁度、議会制民主政におけるほぼ「オール」な民意表明にあった沖縄県民の意向を完全に無視し、辺野古移設を強行している現在の安倍政権そのままの在り様を示した格好で、言って見ればヤマトゥの多くの国民が長年等閑に付していた沖縄の実情を、この安保法制の強行採決という事態に直面して漸く自ら体験する羽目に立ち至った、というところではある。
沖縄から発信されるこの国の政治的実態こそこの国が本来負っている戦後日本の実情そのものであり、沖縄に対してこの国がしようとしていることの本質はヤマトゥが知ってこれに総がかりで取り組まなければならない問題そのものである。(つづく)